第2話

 長屋王ながやおうという、奈良時代の政治家の存在を、私は初めて知った。


 その正妻は、吉備皇女きびのひめみこと呼ばれる、皇族の一員だった。

 ふたりの間には、記録に残っているだけで四人の男子がいる。それぞれの名前は、きっとあのとき聞いたそれだったのだろうけれど、一度しか聞いていないのではっきりとは覚えていない。


 奈良時代の政治家だった長屋王は、しかし藤原氏──のちの藤原道長なんかの祖先にあたる血筋だ──との政権争いに敗れて自害した。


 一九八六年、奈良そごうデパート建設予定地が長屋王の邸宅跡であることが判明した。

 しかし遺構はデパート建設により破壊される。奈良そごうは十一年で閉業、跡地にイトーヨーカドー奈良店が開業するも十五年で閉業。

 現在は複合施設ミ・ナーラが開業中。あの日の私が訪れていたのはこの複合施設だった。


(あそこが、歴史に名を残すくらいの人物の邸宅跡だったなんて、知らなかった)


 まさに地元、奈良県奈良市で生まれ育ったのに私は聞いたこともなかったと、少しばかり不思議になった。いくら千年以上前の人物だとしても地元民も知らないなんてこと、あるだろうか。しかもあれだけ大きな邸宅跡にろくな碑文もないなんて。


「そういうこと、なのかな……?」


 宇合と呼ばれていたのは、藤原宇合ふじわらのうまかい、長屋王を死に追いやった藤原四兄弟の、次男だ。彼らは、長屋王が天皇に陰謀を企てたと密告し彼を自死に追い込んだ。吉備皇女は夫に殉じて、息子たちともども首を吊ったという。


 調べてみると『日本霊異記』には長屋王は傲慢で尊大な人物だったとある。そんな人物だったから天皇を追い落とそうとしたのかもしれないし、死に追いやられても仕方がなかった──真実かもしれないし、この記述は捏造かもしれない。


 長屋王は天皇に謀反を働こうとしたのかもしれないし、讒訴ざんそだったのかもしれない。真実など千年以上経った今ではなにもわからない。

 なにもかも、あのショッピングモールに敷き潰されてしまった。それは真実を永遠に隠そうと、藤原四兄弟の画策した結果なのかもしれない。


 彼らの目論見は成功し、長屋王とその家族は誰知らぬ場所で密かに眠るばかりだ。確かに藤原氏は勝利したのだろう。首謀者の藤原四兄弟は間もなく天然痘の流行で死んだらしいけれど、藤原氏は栄えた。


「覚えていて、ほしかったのかな」


 私を屋上に招き、夫の手を取って消えた吉備さんはそう言っていた。なぜ私が誘われたのかはわからない──たまたまそこにいただけだろう。


 それでも私は吉備さんのことも長屋さんのことも、破壊されショッピングモールの下に埋められて今や誰も知らない悲劇を忘れない。


 そして私はなぜ長屋王はあんな運命を辿ったのか、藤原氏はなにを欲していたのか──どうしても知りたくなった。


(高校生のとき使っていた、日本史の教科書……どこにしまったかな)


 立ちあがる私の髪を、窓から吹き込んでくる春の風がさらさらと揺らした。




(終)

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隔世の春 月森あいら @mememememe

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