隔世の春
月森あいら
第1話
ショッピングモールに、ふわりと風が吹き抜けた。
「え……?」
暖かい風に、私は驚いて声をあげる。今は四月で春だと言えばそうなのだけれど、昨日まではとても寒かった。薄手ながらまとっているダウンジャケットの裾がひらりとめくれて、それがただ気まぐれな風に揺れただけではない、なにかに呼ばれたような気がして私の足は自然に動いていた。
「あ、っ……?」
アウトドア用品の店をスポーツクラブを、電器店の間を足早に駆ける。混んでいないとはいえ少なくないまわりの人々にぶつからないように、それでも私を惹きつける気配を見失わないように。
「は、っ……、こ……、こ……?」
いつの間にか私は、まったく馴染みのない雰囲気の漂う場所にいた。
このショッピングモールにこんな場所があっただろうか。明るく灯りがまわりを照らしていて、怪しい雰囲気などひとつも感じられない。
それなのにここは「違う」──ただの人間である私がいていい場所ではない、それが強く感じられるのに出口は見つからない。
同時に、嫌な感じはしないのだ。
自分の居場所ではない、それでも、そう「招かれた」──そんな表現がしっくりくる。
「……あ、っ」
誰? 思わず声が洩れた。
目の前には薄い大きな布がひらひらしていた。向こうが透けて見える繊細な織りの布で、私はしばし見惚れてしまった。
「……だ、れ?」
それは細くて華奢な、誰かの肩にかかっている。私に背中を向けて立っているその人物が目に入らなかったなんて、おかしい。私の目の前で、その人物は振り返った。
「あ、っ……」
私と同じくらいの歳の、女性だった。二十歳くらい、真っ黒で艶々した髪を高く結いあげている。
シャンプーのCMみたいにきらきらした髪には色とりどりの
肩にはその透けた布がかかっていて、それはものすごく長くて床につきそうで、でもつかなくてふわふわと舞っている。
床近くでは長いスカートの裾がひらひらしているけれど、それは私の履いているスカートとは違う。渋い緑……鶯色とかいうのかな。
そんな古めかしい色が、こんなにきれいに見えるなんて思わなかった。
大きく風が吹き抜けて、ばさっと広がった髪に視界をふさがれた。再び目を開いたとき女性はもういなくて私は慌てた。
「どこ……!」
急いであたりを見まわして、すると階段から惹きつける感覚を受け取ってそちらに駆ける。勢いのままに階段を駆けあがってぜぇぜぇ息を整えながら、すぐに私は苦しさを忘れた。
「ここ、こんな……?」
そこはだだっ広い、コンクリートの場所だった。なにもない、明るい青い空が広がっているだけ。殺風景で、吹き抜ける風もどこか寒々しい。私をここまで連れてきた風はあんなに暖かくて心地よかったのに。
「は、っ!」
さみしくてせつなくて、あたりに広がる雰囲気からそんな気分をかき立てられて私はひとつ、大きく震えた。ひとつまばたきをして、すると目の前の光景が変わっていることに何度目かの衝撃を受けた。
「わ、ああっ!」
あたりは薄暗くて、視界を塞ぐなにかがたくさんあった──なにか大きな長いものがぶら下がっている。先ほどまでは青い空が広がっていたのに。
ひらひらと、なにかが舞っている。それは黒くて長い、絹糸のような艶々とした──どきり、と私の心臓は大きく鳴った。
それは髪の毛だ。結いあげた髪が崩れて広がってなびいているのだ。なぜ──ぶら下がっている影の頭部から垂れているのだと気がつくのと同時に、まわりに吊り下がっているのはいずれも人の体だということに気がついた。
「ひ、ぃ……っ!」
首吊りの体が無数にゆらゆら揺れている。ひとりふたり、三人、四人。数える気も失せるほどたくさん、そして私に首吊りの体が何体あるか数える冷静さなどあるわけがなかった。
「な、に……なん、で……?」
震える声は形になっていない。それ以上に私を驚かせたのは、その中を縫うように歩いてくる大柄な人影だった。
(な、なにを……してるの?)
まるで酔っているかのように、あたりをよろよろと歩いている。かぶっている帽子から伸びている長い部分がゆらゆら揺れていて、それがその人の心を表しているかのようだ。
「
人影がなにかを呟いている。うなされたような声は低く聞き取りにくい。さっきの、髪の長いきれいな布を肩からかけていた女の人、あの人よりも少し年上という感じだ。
彼はぶら下がっている体、順々に触れている。まるで親しい人たちに挨拶しているような──だけどそれらはすべて、死んでいるのだ。とても生きているようには思えない。伝わってくる気配からも確実だ。
「そうか……おまえも。
彼はひとつ大きく息をついた。彼が手を伸ばしているのはさらさらと揺れる長いスカートで、その渋い鶯色に私は大きく息を呑んだ。
(さ、っきの、人、の!)
声にならない声とともに驚愕している私の耳を
同時にがちゃがちゃと、不穏な金属音もする。映画とかでしか聞いたことのない音だけれど無数の武器だ、と直感した。
(こんな、たくさんの人たちに武器で狙われるとか……みんな、ものすごい殺気なんだけど?)
「
あたりには大きな声が響き渡る。反射的に私は振り返って、背後に数え切れない人の姿を視認して驚愕した。十人、二十人、それ以上いるかもしれない。いずれも体の大きな屈強な男性ばかりだ。
(なに……みんな、そんな怖い顔を……持ってるの、刀? 剣?)
「
先頭に立っている人が、大きな声で叫ぶ。その声はあたりにうわんと響き渡った。
「そうか、
長屋と呼ばれた彼は先ほどまで幽鬼のようだったのに、目つきは鋭くきりりと尖り、私に言ったのではないのに思わず震えてしまう厳しさを孕んでいる。
背中がぞくりと、大きく震えた。
「左道……」
「そうだ、
「そういう……なるほど『そういうことにされた』の、だな」
宇合と名指しされた男性は、大き目を見開いた。明らかに動揺しているけれど、そんな彼を支えるように、まわりの人たちが小声でなにかを言っている。
「言い逃れは通用しない!」
「そのようなこと、するつもりもなどない」
聞いているだけの私も、どきりとするような口調で、長屋さんが言った。その視線はゆっくりと、宇合さんの方に向いた。
「吉備たちが、この道を選んだのだ。すべてはもう、成ったということなのだろう」
「そうだ! 長屋さま、神妙にされよ!」
あたりから同調の声が、次々とあがった。こんな叩きつけるような言いかたをされたら私なら動揺してしまって返事なんかできないけれど、長屋さんは堂々と、落ち着いた視線で宇合さんたちをじっと見つめた。
宇合さんたちが、たじろぐのがわかる。長屋さんが宇合さんたちを圧倒しているのがわかったけれど宇合さんたちは圧倒的多数で、突きつけられただけで意識が飛びそうな恐ろしい武器をたくさん構えていて、こんな状況であんな落ち着いた顔をしていられる長屋さんは、いったい何者なんだろう?
「逆らわなければ、悪いようにはしない!」
「……悪い、ように?」
宇合さんの叫び声に、長屋さんが笑った。ぞっとするような冷たい笑いだ。思わず私は一歩後ずさりをしてしまい、それは宇合さんたちも一緒だった。
「これ以上、どのような悪いことがあるというのか」
「な、に……」
「負けたよ、ああ」
吐き捨てるように長屋さんが言った。
「しかし敗者が正しくなかったのかというと、それは違うな」
やはり長屋さんは笑ったけれど、それはますます冷徹な微笑みで、口調とは裏腹のその心中が如実に伝わってくる──長屋さんは、とてもとても怒っている。それは単純にぶち切れるとかそういうレベルではない、その怒りは深く重く──それはこの場だけではなくずっとずっと永遠に──そう、時間が真実を語るのだろう。私にはそう感じられた。
「のちの歴史が、それを証明するだろう」
「長屋さま!」
あたりに悲鳴が広がった。長屋さんは腰に下げている長いものに手をやった。するりと抜いたそれは、ぴかぴか光る切れ味のよさそうなまっすぐの刀だった。触るだけで指なんかすっぱり斬れてしまいそうなぞっとするような輝きに、私は目を奪われた。
「な、にを……!」
長屋さんが刀を振るって斬りかかってくると思ったんだろう、宇合さんたちがいっせいに色めき立つ。
しかし、長屋さんが抵抗するために抜刀したのではないことは明白だ。長屋さんの放つ殺気は宇合さんたちに向けられたものではない。
長屋さんが斬ろうとしているのは──不条理という、呪い。私にはそのように感じられた。
「長屋さま……なにを!?」
長屋さんはその場に座った。床に膝をつきお尻はあげたままつま先で床を踏んでいる。跪坐っていうんだっけ、とてもきれいな座りかただ。
「あ、ああっ!」
長屋さんは刀を自分の首に当てた。彼の意図が伝わってきて私の背筋がぞくりと震える。彼はじっと宇合さんを見て、先ほど以上にとてつもない冷たい笑みを浮かべた。無関係の私が反射的に土下座して謝りたくなるような表情だ。
「私の体は朽ちるとも、この魂は永遠にさまようだろう」
そう言い放って長屋さんは、ふっとあたりを見まわした。彼に呼ばれたのに応じるように、ふわりと柔らかい気配が感じられた。長屋さんの表情が少し穏やかになる。
「供をしてくれ、吉備」
『もちろんでもございます、長屋さま』
ふわり、とあたりに柔らかい気配が広がった。はっと顔を上げると、そこにいるのは私をここまで引き寄せたあの姿──長い黒髪と肩にかけた薄い布、なびく鶯色のスカートの女性はそっと長屋さんの肩に手を置いた。
吉備と呼ばれた女性の意志を確認して、安堵したのだろう。長屋さんは笑顔のままうなずいて、そして手にした刀を首に押し当てた。
「あ、ああっ……!」
そのようなことが可能なのだ──それだけ鋭い切れ味の刀だということだろう。私の目には、長屋さんの男性らしくがっしりとした首にずくずくと刃が食い込んでいくのが見えた。皮膚が裂け肉が斬れみるみる血が吹き出して、まるでシャワーみたいに広がる鮮紅の中、ごとりと鈍い音がした。
「ひ、っ……!」
あたりに広がった恐怖の声は、自分たちの顔にまで飛んでくる血しぶきの量に対してか。文字通りの血の海の中、ごろごろと転がってきた長屋さんの生首に対してか。
「血など流しては……魂が迷ってしまう!」
誰かがさも恐ろしいといった口調で呟いた。魂なんて、とこの状況を前におかしなこと言う誰かに腹が立ったけれど、私は「ああ」と、思わず声をあげた。
(そうか、昔だから……そういう迷信みたいなことが信じられてるんだ)
目の前に展開されているのがいつの時代なのかは見当がつかないけれど、叫んだ人は単に目の前のスプラッタに脅えているわけではない、きっとあれは神仏を裏切るような死にかたで、それをわかっていて長屋さんはあえて宇合さんに見せつけたのだ。
『長屋さま、まいりましょう』
淡くあたりに広がったのは、優しい女性の声──吉備さんだ。首を失った長屋さんの体は、ゆっくりと前に倒れていく。地面に転がった彼の首とその節断面が不思議なくらいぴったりと重なって、まるで生前のようになった同時に吉備さんに手を引かれてゆるりと起きあがり、こちらに背を向けて消えていく長屋さんの姿を私は唖然と見送った。
「あ……」
ふわりと暖かい風が吹いて、振り返ったのは吉備さんだった。優しい笑顔は決して華やかな美人ではないけれど、その心の美しさが見て取れると思った。
『……あなた』
「は、はいっ!」
私に声をかけているのだと気がついて、驚いて声をあげてしまう。吉備さんは目を細めて、さみしそうな笑顔を見せた。
『覚えていて。わたしたちがこうやって終わらせられたこと……』
吉備さんの声は優しく穏やかだけれど、その中にぴんと張りつめた痛々しい色があることに気づかずにはいられなかった。
『あなただけは、覚えていて……?』
「あ、あっ!」
私が驚きの声をあげるのと、長屋さんと吉備さんの姿が消えるのは同時だった。
ふわっと大きく風が吹いて、あたりからはすべてが消えた。目の前にはコンクリートの地面が広がっている。頭上には青空、私の体を包むのは春の暖かい風だ。
「な、に……?」
長屋さんと吉備さんも、あたりに広がったはずの血の海も、宇合さんたちの姿ももうない。私はひとり、ショッピングモールの屋上に立ち尽くしていた。
どこか遠くから、子供の歓声が聞こえる。ひとりきり立ち尽くす私の耳には遠く、もの悲しく響いた。
「あ、あっ」
屋上の隅、誰も気づかないほどひっそりと建つ、小さな社やしtろが目に入った。惹かれるがままに、私はそちらに歩いていく。
「そう、いう……」
私は深く頷いた。
今日は、四月十日。旧暦ならば二月の初旬、ここ奈良の土地、千三百年ほど前の古都は雪が降り積もる寒く冷たい日だっただろう。
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