憂鬱なリップスキン通り

胡麻桜 薫

憂鬱なリップスキン通り

 12月31日、大晦日の夜。


 ビルは部屋の窓際に立ち、リップスキン通りを見下ろしていた。

 道幅の狭い、パッとしない通りだ。


 石畳の道の両側に、同じ背の高さの、同じ外観の家が、睨み合うようにして建ち並んでいる。

 家の壁はどれも薄汚れていて、古くさかった。


 ビルは二十代の青年で、顔立ちは彫刻のように整っている。だが愛想が悪く、人を小馬鹿にすることが多いため、周囲からは少し煙たがられていた。


 暗い通りを、よたよたと自転車が走っている。乗っているのは中年の男だ。

 ハンドルを握る手つきは危うく、車輪はヒステリックに暴れている。

 あれでは、すぐにでも転倒してしまうだろう。

 見るに堪えない。


 ビルは呆れた顔で溜息をつき、窓に背を向けた。

 その途端、窓の向こうからガシャンという鈍い音が聞こえてきた。何かが何かに激突し、倒れる音だ。

 一瞬の騒音は夜の闇に吸い込まれ、何事もなかったかのように、元の静けさが通りを包み込んだ。


 ビルは振り向くことなく窓際から離れ、ソファの前に立った。

 ソファには、この部屋の主である女性、エレノアが座っている。


 エレノアは二十代になったばかりの若い可憐な女性なのだが、もたれかかるようにしてソファに座るその姿には、侍女に命令を下すマダムのような風格があった。

 

 ここはビルの部屋ではない。エレノアが借りている部屋だ。

 彼女は二年程前から、パン屋の二階にあるこの部屋を住処としている。廊下を挟んだ向かいの部屋には、パン屋の女主人が暮らしていた。


 エレノアは金色の髪を指先でいじりながら、上目遣いでビルを見た。


「退屈ね。嫌な夜だわ」


「・・・年越しのパーティーには行かないのかい? ジョーンズの屋敷で、集まりがあるはずだろう」


 エレノアは肩をすくめた。


「行くとしたら、毒薬がいるわね。すっごく効果のある毒薬」


「どうして?」


「だって、つまらないもの。決まってるわ。夜が明けるまで、みんながくだらない話をし続けるのよ。聞きたくもないような、くだらない話を」


 エレノアはうんざりとした表情で、気怠げに首を傾げた。


「そんな時には、ようにしておかなくちゃ。だって、ねえ? くだらない話を耳に入れて脳みそを腐らせるくらいなら、いっそ死んじまった方がいいって思わない?」


 ビルは、そうかもなあと思ったけれど、すぐに、いやそんなわけないだろうと思い直した。だが、こんな話題で目の前のご婦人と討論するのは、それこそ『くだらない』ことだと思ったので、何も言わずにただ苦笑した。


 ビルが曖昧な表情を浮かべていると、エレノアが、ふと思いついたように口を開いた。


「そうだ。わたし、紅茶を淹れなくちゃ。もうすぐチャーリーが来るのよ」


「チャーリーが?」


「ええ、そうよ。予定がなくて、ひとりぼっちで寂しいんですって」


 チャーリーはエレノアと同い年の、やや気の弱い青年だ。画家として生きることを目標としているが、今は街の食堂で働いている。


「そうそう、この絵はチャーリーが描いたものなのよ。彼からもらったの」


 そう言って、エレノアは壁にかけられた絵画を指差した。

 油絵だ。

 歪んだ尖塔を背景に、数体の不気味な獣が、地面に生えた草を見境なく食べている。

 黒を基調に塗りたくられたその絵は、見る者をなんとも陰鬱な気分にさせた。


「こんな絵を描くなんて、きっとチャーリーは悩んでいて、落ち込んでいるんだわ。相談に乗ってあげないと」


 ビルは絵画を眺め、けらけらと笑った。


「いい絵じゃないか。三日前、チャーリーと一緒にめしを食いに行ったけど、彼は絶好調に見えたよ。上機嫌さ」


 エレノアは片方の眉をきゅっと吊り上げた。


「そう? じゃあ紅茶を淹れる必要はないわね。彼が来たら、自分でやってもらいましょう」


 エレノアはスカートについたホコリを手で払いながら、ビルに尋ねた。


「そういえば、あなたはご両親の家に行かないの?」


 ビルはこの街で一人暮らしをしている。彼の実家は、列車で三駅先の街にあるのだ。


「ああ、言ってなかったっけ」


 ビルは、仕立ての良いズボンのポケットに両手を突っ込み、言葉を続けた。


「両親は二ヶ月前に死んだよ。俺がしばらく街を離れていたのは、両親が死んだからなのさ」


 エレノアが、意外だという顔をした。


「二人そろって? まだ亡くなるような年齢じゃなかったのに」


 エレノアはビルの両親に会ったことはないが、彼に両親の写真を見せてもらったことがあった。


「父さんが母さんを怒らせたみたいだ。多分、愛人の存在がバレたんじゃないかな。母さんが父さんの首をナイフで切り裂いて、その後、自分の首も切ったんだ。まあ、誰かがその場を目撃したわけじゃないけどね。警察の捜査によれば、そういうことが起こったらしい」


「あら、まあ」


 エレノアは両手を口元に当てた。彼女は、ビルに見せてもらった写真を思い出していた。


「お父さんの首はとても太くて、頑丈そうに見えたのに」


「きっと、母さんの力が強かったのさ、俺達が思っていたよりも」


「残念ね」


 ビルはあごに手を当て、少し考えた。


「・・・どうだろう。両親の仲はずいぶん前から険悪だった。父さんも母さんも、しょっちゅう俺に電話をかけてきたよ。二人から互いの悪口を聞かされるのは、正直言って拷問みたいだった。あんな気分にもうならなくていいなら、俺にとっては幸せなことだと言えるんじゃないかな」


「そう、じゃあ良かったわね」


 エレノアはビルの両親への関心を失い、ソファの肘掛けで退屈そうに頬杖ほおづえをついた。


「わたしの友達の、レイチェルってが、あなたと食事をしたいと言っていたわ」


「どんな娘?」


「いい娘よ」


「断っておいてくれ」


「わかった・・・ねえ、帰らないなら紅茶を淹れてくれる?」


「チャーリーにやらせるのでは?」


 エレノアは小さく欠伸あくびを漏らした。


「わたしの分よ。他にやることもないでしょう?」


 仕方なく、ビルはキッチンへ向かった。その途中、テーブルの上に散らばった紙屑かみくずが目に入った。

 よく見るとそれは、ビリビリに破かれた未開封の手紙だった。


「・・・これは?」


 エレノアはビルの方に顔を向け、なんてことないように答えた。


「姉からの手紙よ」


 ビルは紙屑を手で集め、部屋の隅にある屑入れに捨てた。


「エレノア?」


「なあに?」


 ビルは淡白な声で言った。


「来年はいい年になるといいよな」


 エレノアは綺麗な目を細め、にこやかに微笑んだ。


「来年、ね」



 通りを抜けた先の広場では、浮かれた人々が手を取り合って踊っていた。

 笑っている人もいれば、なぜか怒鳴っていたり、泣いていたりする人もいた。


 幸運なことに、神経をかき乱すその喧騒は、エレノアの部屋までは届かなかった。


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