第7話 石沢と譲三郎

「はい、終わりましたー」

 石沢が爪切りを置くと、譲三郎は「ありがとう」と言って、補助器具を使い、自分の両足に靴下を履かせる。

 腰が悪い譲三郎は、自分で足を洗ったり、足の爪を切ったりすることが難しいので、石沢が時々こうして、代わりにやっているのである。

「石沢君」

 石沢が洗面器を片付けて戻ると、譲三郎は椅子に座ったまま、石沢を見上げる。

「何でしょう?」

 首を傾げる石沢に、譲三郎は手を出すようにと身振りで言う。

「手? はい」

 石沢は素直に手を出し――。

「あ」

 しまった。

「ちょっと絢永さん! いいって言ってるじゃないですか!」

 石沢が、握らされた二千円――足浴そくよく代と爪切り代――で譲三郎の肩を叩きまくるが、譲三郎は「石沢君はいつまでもバ……素直だねえ」と笑って、ダイニングテーブル兼応接テーブルに向き直り、タブレットの電源を入れる。

「今バカって言おうとしました!? ねえ絢永さん! いりませんし! ねえ! もう!」

 石沢が何とかして二千円を返そうとするが、譲三郎は急に耳が聞こえなくなって「ああそうだねえ」とか何とか言いながら、デジタル新聞アプリケーションを開く。

「絢永さんっ! 僕は、助手としてのお給料も十分頂いてますから!」

 なのに譲三郎は、石沢が車の運転やちょっとした手伝いをする度に、札を握らせる。

「これなら、もっと依頼料を安くして、ちゃんとした事務所を借りて……!」

 絢永探偵事務所の依頼料は、相場の一・五倍。依頼人はほとんど、譲三郎の人柄を知る人たちからの紹介を受けた者と、湊東町警察署だ。事務所は、湊東町の外れにあるマンションの一室で、譲三郎と石沢が生活スペースとしても使っている場所である。

「いいんだよ。客なんて大して来ないんだから」

「それは依頼料が高いからです! だから……!」

「石沢君」

 その一声で石沢を凍り付かせると、譲三郎は石沢の手と千円札二枚を、このしわしわの手のどこにそんな力があったのかというほどの力でまとめて握って、無理やりスーツのポケットに入れさせる。

「自分の力をタダだと思っちゃいかん。少なくとも石沢君にはまだ早い」

 動けない石沢に言い捨てると、譲三郎は鼻歌を歌いながら老眼鏡を掛け、さらにタブレットの文字を拡大して、読み始める。

 その時、電話が鳴る。

「出ます! 僕が出ます! これは助手の仕事ですもんね! ね!」

 わたわたと電話の方へ走っていく石沢を、譲三郎はお茶をすすりながら、横目で見守る――。

「裁判、上手くいきそうですって」

 しばらく話して電話を切った石沢は、嬉しそうに譲三郎に駆け寄る。

飯田いいだ君?」

 譲三郎は言いつつ老眼鏡の上からちらりと石沢を見て、すぐに巨大な文字を表示しているタブレットに目を戻す。

 飯田頼久よりひさは、絢永探偵事務所と提携を結ぶ小鷹おだか弁護士事務所に籍を置く弁護士で、刑事弁護を得意としている。

「はい。紀城さんも地竜朴さんも誠実でいらっしゃいますし、やはり複雑な事情がありましたから、考慮されるだろうということです。それと、真津組と帆河組の関係のことですが、大きな警察沙汰になりましたし、先に手を出したのは柳本で、しかも一般人の長谷川さんの意識を失わせるほどのことをしてしまいましたから、帆河の方は、あまり強い手には出られないだろうということです」

 紀城が真津組からどのような処分を受けるかは一般人である石沢には分からないが、譲三郎や飯田、また警察などの話から察するに、真津組はきちんと筋の通った考え方をするそうだから、紀城のことも、一般人とつるみ、人――しかも敵対組織の人間を殺した、という罪はあれ、複雑な事情や紀城の真っ直ぐな人となりも判断材料に入れて考え、理不尽な扱いはしないだろうと想像している。

「紀城君と地竜朴君はどんな様子なんだ。長谷川君は」

 茶を啜りながら言う譲三郎の口調は面倒臭そうだが、彼が最も気にかけ、大切にしている部分はそこなのだと、石沢は知っている。

「紀城さんも地竜朴さんも、とても落ち込んでおられるようです。食事も睡眠も、ままならないと」

 譲三郎は答えず、タブレットの巨大な文字を見ているが、その目は動いていない。

「でも、伊谷いたに先生が、しっかり診てくださっています」

 伊谷晃子あきこは、刑事施設専門の精神科医だ。

 罪を犯す人の多くは、その人自身だけのせいで罪を犯すのではない。

 生まれつきの身体や脳、生まれ育った環境、出会う人、社会の状況、偶然による不幸――そのような複雑な背景によって、取返しのつかない罪を犯し、他人も自分も傷付け、他人の未来も自分の未来も奪い、社会からも、友人からも、家族からも、そして自分からも拒絶され、否定される――そんな人たちに寄り添うのが、彼女である。

「それに、長谷川さんがいます。彼は今でも、紀城さんの友人です。紀城さんにはご家族がおられませんし、仕事の合間を縫って何度も留置場に通っているということです。長谷川さんが来るたびに少しずつ、紀城さんの言葉が増えてきているそうですよ。そして、長谷川さんはいつの間にか地竜朴さんとも友達になっていて、入れ墨は痛いのかとか、絵柄はどうやって決めるのかとか、興味津々で聞いているそうです。立ち合いの警察のかたによると、地竜朴さんは入れ墨の話は嫌なんじゃないかと心配だったそうで、地竜朴さんも、初めは怪訝けげんそうだったらしいのですが、最近はぽつぽつと、仕事の話や、他愛たわいの無い話をしているのだとか。地竜朴さんが同じ場所で彫師を続けることは難しいかもしれませんが、いつか別の場所でまた彫師をするか、それか、何か別の芸術にでもたずさわってほしいと、僕は思います。紀城さんの背中の龍、とても素敵でしたから」

 あの後も絢永探偵事務所は警察の捜査に協力し、その時に石沢は紀城の背中を昇る赤龍の写真を見せてもらったのだが、それは写真で見ても、確かに柳本の遺体の背中に描かれていたものとは桁違いに美しく、これは、紀城衛として真っ直ぐに生きる彼が背負ってこその美しさなのだとも感じた。

「うむ」

 さっきから同じ文字を表示し続けているタブレットを見ながらうなる譲三郎の頬は、白い髭の向こうで緩んでいるらしかった。

「ねえ璃央りおちゃん、おやつを食べよう」

「はっ!?」

 いきなり変なことを言った譲三郎――否、おじいちゃんは、にこにこ笑って石沢を見上げている。

「しっ、仕事中は、下の名前はやめてくださいと言ってるじゃないですか!」

 石沢の下の名前は、璃央りお

 石沢璃央。

 そして譲三郎は孫を全員、「ちゃん」けで呼ぶ。

 今時、かつては女性らしいとされていた響きを持つ名前の男性は珍しくないが、流石さすがに「ちゃん」を付けられると、たちまち女の子になってしまうのだ。

「ちゃん」は女の子のものだとか、だから嫌だとかいう考えも古いのかもしれないが、石沢はどうしても気になってしまうのであった。

「いいじゃない。お客さんもいないし。ねえ璃央ちゃん、おやつは何がいい? もももんグミ? さくしゅわラムネ? みるくポットチョコ?」

 譲三郎はにこにこ顔のままで、テーブルの上のおやつかごをわさわさと漁る。

「そっ、それはの好みでしょ!? 僕はお煎餅せんべいがいいもん!」

「石沢君! 仕事中ぞ! おじいちゃんと呼ぶな!」

 石沢の仕返しに、譲三郎はタブレットをテーブルに叩きつけて立ち上がり、目を剥いて怒鳴る。

「仕事中におじいちゃんなんぞ呼ばれたら、仕事も何も忘れておじいちゃんになってしまうじゃろがい!」

「全然忘れてないじゃん、おじいちゃん!」

「だからおじいちゃん言うなー!」

 絢永探偵事務所けん祖父と孫の二人暮らしの家を、譲三郎と石沢はいつものように楽しく駆け回った。


    おじいちゃん探偵譲三郎 龍の巻  完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おじいちゃん探偵譲三郎 ――老夫絢永極道街流憩奇譚―― 柿月籠野(カキヅキコモノ) @komo_yukihara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ