第6話 紀城衛という人間

 それから間もなく、彫師の地竜朴は警察の事情聴取を受け、その証言の助けによって、隠れていた紀城も発見された。

 地竜朴と紀城の話によれば、事の次第はこうであった。

 紀城は友人の長谷川と飲んだ帰りに、あの袋小路の前で酔った柳本に絡まれ、一緒にいた長谷川が柳本に殴られて意識を失った。長谷川は喧嘩どころか格技もしたことがないのに、紀城を守ろうとしたのだった。

 友人を傷付けられた紀城は激昂げきこうし、その勢いで柳本を殴り殺してしまった。

 そこで我に返った紀城が真っ先に考えたことは、長谷川の友人である自分が殺人者になってしまったことだった。

 紀城は、柳本が極道の者であり、しかも帆河組の人間であることを知らなかった。

 柳本も組からの命令は受けておらず、ただ偶然、紀城と長谷川に絡んだらしかった。

 人を殺してしまった。そして反撃だったとはいえ、一般人(と紀城が思っていた人)を殺したのだから、真津組の面子めんつにも大きく関わる。

 しかし紀城の心中で最も強く彼に訴えかけていたのは、友人を想う気持ちだった。

 紀城は、殺人者である自分が友人の前から消えること、つまり、死ぬこと、つまり――被害者と加害者を逆にすることを選んだ。柳本の体格は紀城より少し大きかったが、顕著な差ではなく、年齢も同じくらいであった。

 紀城が自殺を選ばなかったのは、殺されるよりも、人を殺した上に自殺する方が、長谷川が悲しむと思ったからかもしれない。

 その時頼れるのは、組の内部の人間でもなく、かといってカタギの人間でもない、極道の道を知る人物――彫師の地竜朴だった。

 極道として、またそれ以上に、紀城衛として真っ直ぐだった彼を可愛かわいがっていた地竜朴は、紀城から友人のためにと懇願されて、断れるはずもなかった。

 柳本の殺害現場となった袋小路に駆け付けた地竜朴は、小柄な身体に、入れ墨の道具とチェーンソーを抱えていた。

 だがその時間は夜八時過ぎ。彫師の地竜朴が偶々チェーンソーなど持っているはずもなく、購入するにも開いている工具店は少ないし、時間も無い。それなのに、何故そんなものを持っていたか――。

 その日の昼間、地竜朴は、帆河組の幹部の墨の入れ直しに、株式会社エスアール建設に出張に行っていた。S・R建設には何度も行ったことがあり、作業用の道具が仕舞しまってある倉庫の場所は何となく知っていた。侵入がばれても、「道具を置き忘れた」などと言い訳をすればいいと思い、忍び込んでチェーンソーを取ってきたのだった。その際に、余計な指紋や毛髪を残さないための軍手やヘルメットなども拝借してきていた。

 二人で話して、紀城が長谷川を家に送り届ける間に、地竜朴が作業をすることになった。

 まず、地竜朴が柳本の靴を履いて柳本が犯人であるように見せかけ、紀城と柳本の服や持ち物を丸ごと交換する――。

 柳本の服を脱がせている時に、地竜朴は気付いた。

 柳本の左腕に牡丹ぼたんの、左脚に唐獅子からじしの、右脚に狛犬こまいぬの――『地竜朴』と銘のある入れ墨があることを。

 地竜朴は、思い出した。

 この男は、帆河組の組員、柳本剋也だ。自分が入れた墨を見て、地竜朴がその人を思い出さないはずがなかった。

 地竜朴は柳本の腕と脚を急いで隠し、何気ない口調で紀城にこの男を知っているのかと聞いた。すると紀城はやはり、知らないと答えた。

 だが、敵対する組の組員を殺してしまったことには変わりない――。

 地竜朴は、何も言わなかった。

 紀城は何も知らないまま柳本の服に着替え、殴り合った時に手に付いた、柳本の鼻や口から出た血をその服で拭き、朦朧もうろうとしている長谷川を抱き上げた。

 地竜朴は最後まで何も言わずに、紀城を行かせた。

 紀城が死んだという誤魔化しが上手くいっても、失敗して柳本が死んだことがばれても、地獄だ。

 どちらかの組員が、もう一方の組員を殺したのだ。

 それに帆河組が絡んでいるのだから、カタギも巻き込みかねない、大戦争が起こる。

 だがこの事実を紀城に伝えれば、紀城は極道としての責任も取ろうとするだろう。

 紀城を可愛がっていた地竜朴に、それはできなかった。

 それに、極道の中でも真面目な真津が被害者になった方が、帆河の勢いが弱まるし、真津に味方もつく。そうすれば、一般人への被害が少なくて済む。

 地竜朴はただ、自分にできることをやった。

 柳本の背中に、大急ぎで紀城と同じ昇赤龍のぼりせきりゅうの墨を入れ、首と四肢を切り落として、顔と指紋と、腕と脚の入れ墨を誤魔化した。

 地竜朴は彫師となる前は、木像の彫刻家を目指していた。その道を諦めて、極道に半分足を突っ込んだ時に道具は全て捨ててしまったが、身体からだがそれを忘れることはなく、地竜朴は無意識のうちに、柳本の身体を彫刻のように美しく切ったのだった――。

 そこに、紀城が大急ぎで戻ってきた。

 紀城が抱いていた長谷川はおらず、紀城は長谷川の鞄だけを持っていた。長谷川は紀城が、懇意にしている医者――普通の医者にはせにくい怪我でも診る、所謂いわゆる闇医者やみいしゃ――に診せてから自宅に帰し、着替えさせ、布団に寝かせていたのだった。

 しかし紀城は何も言わずに、地竜朴の履いている柳本の靴を奪い、袋小路のアスファルトの上を、血溜まりの中を、何かを探すように慌てて歩き回り始めた。

 地竜朴がどうしたのかと聞くと、紀城は、長谷川の家の前まで来た時、彼の眼鏡が無いのに気付いたのだと言った。長谷川が柳本に殴られた時に落ちて、紀城と柳本が揉み合っている間に袋小路の奥に蹴ってしまったようだった。

 地竜朴が、見付けたら死体の切った所と一緒に隠しておくから早く逃げろと言うと、紀城は、友人の物を一つとして失わせたくない、それに、彼はまた明日、変わらない朝を迎えるんだからと言って、眼鏡を探し続けた。

 地竜朴が柳本の首や手足、使った道具を袋に詰め終える頃、紀城は友人の、無惨に壊れた眼鏡を見付けた。思えば柳本の靴の裏に、硬い砂利のようなものが刺さっているような気がしていたが、それはあのレンズの破片だったのだろう。紀城はレンズの破片も拾い集めると、自分の靴に履き替え、まだ何とか開いている眼鏡屋があるからと言って走っていった。

 それから地竜朴は柳本の靴も死体と一緒に袋に入れ、死体の胴体部分と、偶々帆河組のものであったチェーンソーを残して現場を後にした。死体は夜闇に紛れて、現場から三キロほど離れた無人の神社の裏手の林に埋めた。

 紀城は血塗れの眼鏡を近くの公衆便所の手洗い場で洗い、コンビニでマスクや帽子を買って顔を隠してから眼鏡屋に寄った後、長谷川を寝かせておいた彼の自宅に戻り、綺麗に修理された眼鏡を枕元に置いて、彼の鞄の中から鍵を探し、部屋を出て施錠して、鍵を扉の郵便受けに入れ、柳本の金を使って終電まで電車を乗り継ぎ、遥か山奥の空き家に隠れた。

 翌日、地竜朴の仕事場を訪れた警察に、地竜朴は、それは自分が彫った入れ墨で、遺体は紀城のもので間違いないと証言した――。

 地竜朴は紀城の隠れ場所を知らなかったが、長谷川の自宅から二キロほど離れた尽名つぐな駅に徒歩で向かったらしいということは分かっていた。紀城があやまちを犯した時に向かう場所は、いつもそこだった。また紀城が着ていた柳本の服は、眼鏡屋の店員やラーメン屋の記憶にも残るような、特徴的なものだった。ただ、それだけでは目撃証言が絞り込めなかった。しかし似た服装の人で、紀城が移動したと思われる動線の近辺で、事件当日の午後九時以降、譫言うわごとのように「ケイタ、ジリュウボクサン、ごめん、ケイタ、ジリュウボクサン、ごめん」と繰り返していた者がいたという証言が複数あり、それを追ってみると、紀城の隠れ家に辿り着いたのだった。

 紀城は警察に連行される際、人を殺したこともそうだが、何よりも長谷川恵太に対し、友人が一瞬でも死んだこと、友人が殺人者になったこと、自分のせいで彼が疑われてしまったこと、また、恩人である地竜朴を巻き込んでしまったこと、彼の未来を奪ってしまったことを、詫び続けていたそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る