第5話 仕事

「遅い。早く開けんか」

 遺体安置室の前で石沢と酒野を待っていた譲三郎が、どすどすと足踏みをする。

「歳取ると、気が短くなって、我儘わがままにもなって、嫌だねえ。俺は絶対あんたみたいなじじいにはならねえ」

「はあ? 気が短い? 我儘? 自己紹介でもしとんさるのかね? あんたはもう、あたしのことを忘れちまったのかいね?」

「耳も遠くなって、被害妄想も強くなって、ああ嫌だ嫌だ」

 やれやれと首を振る酒野に、譲三郎は「こっちこそあんたみたいな暴言暴行罪隠蔽男は嫌いじゃ!」と噛み付く。

「暴言? 暴行? 自己紹介してるのはじいさんだねえ。早く病院に行った方がいいな」

「病院はちゃんと行っとるわ! 認知症検査も毎年受けとるしなあ! それに比べておみゃあは、酒タバコジャンクフードまみれの超絶不健康男じゃ!」

「このヨボヨボじじいが、人の生活に口出しする権利を持っていると?」

「ご遺体の前で喧嘩しないでくれません!?」

 石沢はぎゃあぎゃあとわめらす二人の間に割って入って引き離す。

 ここは遺体安置室の前。二重扉の奥にある遺体安置室は、未解決の事件や事故によって亡くなった人たちが、少しの間、眠る場所だ。

 なのに譲三郎と酒野は死体に慣れ過ぎているせいで、所構ところかまわず楽しい喧嘩を繰り広げる。慣れには良い慣れと悪い慣れがあると思うが、これはどう考えても良い慣れではない。

 初心わするべからず。石沢は譲三郎と酒野を尊敬しているが、ここだけは真似しないようにしようと誓っているのであった。

「あの、酒野さん」

 石沢は息を切らしつつ、酒野に話を振る。

「ああ、そうだ、そうだ」

 実は譲三郎が一人でいなくなった後、酒野に一本の電話がかかってきていたのであった。

「事件現場から三百メートルほど離れたラーメン屋の店長が、事件当日の夕方に帆河組の柳本やぎもと剋也かつやっつうヤクザがかじめりょうをせびりに来たと言ってたんだが、その男の服装が、眼鏡屋の店員が見た怪しい男の服装と、ほぼ一致した。体格や年齢も、およそだが同じくらいだということだ」

「じゃあ、その柳本君が長谷川君を利用して紀城君を殺したと!?」

 譲三郎が思い切り目を剥いて、酒野に迫る。

「まあ、今の状況では、そういう方向で捜査が進むことになるな」

 酒野は譲三郎が吐き散らす唾をけて、顔を天井の方にそむける。

「今の状況!? 今の状況ではそうはならんじゃろが!? おかしいことが、もう、むんでいっぱいあるじゃろ!?」

「あるみたいだが、ひとまず今は、帆河のアジトのS・R建設に乗り込む準備をしてるとこだ。情報だけでも欲しいしな。けど、柳本は事件当日の夜から、アジトや仕事場に姿を現していないんじゃねえかっていう話が出てる」

「はあ!? あんたらが言うには、柳本君は組の対立が理由で計画的に紀城君を殺したんじゃから、組としての殺人じゃろう!? 柳本君が組の奴らからコソコソ隠れるのはぎゃんづらおかしいじゃろが! なのに乗り込むか! そんな明らかにおかしい馬鹿みたいな理由で乗り込んでも、あっちの神経を逆撫さかなでするだけじゃ! すぐ引っ込めい!」

「はいはい、言っとくよ」

 酒野は心底面倒臭めんどうくさそうに言って、携帯電話を取り出す。

 湊東町警察の中で譲三郎と渡り合えるのは酒野だけなので、酒野が絢永探偵事務所と湊東町警察の連絡役となっている。とは言え酒野はしたなので、情報をやり取りすることしかできないが。

「あたしの言ったことを、ひとつ残らず全て言え! その虫けらサイズの脳みそに入っとる訳がないじゃろうが! というか何故なぜそれを早く言わん!?」

「そりゃあんたが一人で先に行くからだろ!」

「そりゃあんたがおっそいからじゃろが!」

「お二人ともっ!」

 石沢はまたきーきーと怒鳴り合う二人を引き剥がし、酒野に電話をさせてから、遺体安置室の鍵を出させて扉を開けさせる。

 まったく、譲三郎と酒野が顔を合わせると、余計な仕事が増えて困る。石沢はぐったりとしてひたいの汗をぬぐうが、足元から這い上がってきた冷気に、背筋せすじが勝手に伸びる。

 ここに来ると、いつもそうだ。

 生きている間のことは全て忘れて、ただ、死と正対する。

 それが、石沢にとっての、この場所だった。

 だが、酒野と譲三郎は違う。がるがると楽しい喧嘩の続きをしながら、短い廊下を進み、二つ目の扉を抜けて、冷気の根源である白い部屋へと入っていく。

 石沢が慌てて追いかけて遺体安置室に入る時にはもう、酒野は壁の大きな引き出しを一つ出して、部屋の中央にある台に中のものをせていた。

 これが――。

「すう――」

「絢永さんっ!」

 首と四肢を切り落とされた遺体の前で手を合わせ、深く息を吸い込んだ譲三郎を、石沢は慌てて止める。

 譲三郎の読経どきょうが始まると、終わるまで五時間かかる。石沢が最初に出会った殺人事件で遺体を見たショックを和らげたのは、意味の理解できない経の音を五時間かされたことかもしれなかったが――。

 現代人はせわしなくていかんだの何だのとぶつくさ言いながらも、譲三郎は紀城の遺体の周りを歩き回って調べ始める。

 遺体は、筋肉質な男の胴体部分で、青いシートを敷いた台に腹側を上にして置かれていた。顔が無いので年齢は分かりにくいが、肌の様子からして、二十代後半から三十代後半ほどまでだろうと思われる。洗浄された四肢と首の切り口は確かにぐで、死人の青白い肌の色と、切り口の赤黒い肉と白い骨が無ければ、マネキンと見紛みまごうほどだ。

「――彫刻、のようですね」

 石沢が思ったことを口にすると、譲三郎は片眉を上げて石沢を睨み、それからふっと表情を緩めた。

 そうすると譲三郎の顔は、石沢が小さい頃に見た「おじいちゃん」の顔になるのだった。

「そうだね。自分の心で感じること、それを忘れてはいけないよ」

 同一人物とは思えない優しい表情と口調でそう言った譲三郎から、酒野は何だか決まり悪そうに目をらす。

「酒野、背中の入れ墨を見せろ」

 譲三郎がすぐにいつもの顔になって命令すると、酒野もすぐにいつもの顔になって、「偉そうに」と文句を言いながらも、ビニールの手袋を着けた手で丁寧に遺体を動かし、背中側を上にする。

「あーたらは馬鹿じゃ!」

 背中の全面に大きくえがかれた龍の入れ墨を見るや否や、譲三郎は酒野を指差してがあがあと怒鳴り始める。

「何で写真を見せとくれんのじゃ! んなもん、写真を見ればすぐ事件解決じゃのに!」

「そりゃお前が捜査資料は字も写真も小さくて見えんとか文句を言うからだろ!」

「字も写真も小さいのはおみゃーらのせいじゃ! 資料は他人ひとが見るもんじゃ! 他人が読めるように作らんのが悪い!」

「じいさんが読める大きさのもんは、俺たち若者には大きすぎて読みにくいんだよ!」

「あんたが若者!? どこが!?」

「だからご遺体の前で喧嘩しないでください!」

 石沢が二人をどうにかして引き離すと、譲三郎はふうふうと息を切らしながらも、遺体を指差して喋り始める。

「こりゃあな、プロの仕事だがな、信じられんくらいにくそなんじゃ!」

 下っ手くそ……?

 石沢には、天へ昇る立派な赤い龍と、それを囲む雲や雷の、上手な日本画風の入れ墨にしか見えない。酒野も同じらしく、「うっせえじじい」という顔をして譲三郎を見下ろしている。

「だから最近の警察の若者わかもんは! 本物の入れ墨なんぞちゃかっし見たことないじゃろ! あたしの時代はねえ、そっこらじゅうにヤクザが歩いとって、入れ墨見せびらかして大喧嘩しよって、それをあたしが何百人、何千人大人おとなしくさしたこっか! それに比べて今は」

「絢永さんっ!」

 この話が始まっても、五時間続く。

「ともかくねえ、これは下っ手くそなの!」

 譲三郎は自分の襟元えりもとを引っ張って乱暴に整えると、遺体の背中を、穴がきそうな勢いで指差す。

「構図や絵柄はプロの、この『地竜朴じりゅうぼく』っちゅう彫師ほりしのもんで間違いないけどねえ!」

 譲三郎が睨み付ける赤い龍の右手の下には、『地竜朴』という字が四角い札に書かれたようなデザインの絵柄が入っている。その反対の左手は、爪の長い三本の指で、『仁』という字が刻まれた宝玉を握っている――。

「技が酷すぎる! 墨はムラだらけ、こっちは濃くてこっちは薄いし、ここは点々しか入っとらんし、ここははみ出とる! この雷なんか色を塗り間違えて赤くなっとるし、こっちは塗り忘れ! それもきったなくて、入れてる途中でもない! プロはな、入れてる途中でも見栄みばえがするようにするもんじゃ! んで、この線は間違えて慌てて路線変更しとるし、針の向きも深さも無茶苦茶! ちゅうか、針を両手に何十本も握って雑に墨入れとる! 有り得ん! 有り得んのじゃ!」

 確かに言われてみれば、そう見えてきたが――。

「つ、つまり……?」

 譲三郎は石沢を睨まないが、はあっと大きな溜息を吐いてから、怒れる老人・絢永譲三郎から、探偵・絢永譲三郎の声になって話し出す。

「あたしゃ、地竜朴君っちゅう男を知っとるよ。あの子がこんな仕事をするはずがない。だがこれは、紛れもなく地竜朴君の仕事じゃ。つまり、これは地竜朴君が大慌てで――被害者が、大慌てで入れた墨じゃ。生きとる時に墨入れたら、そりゃあ怪我じゃから数日は赤く腫れるが、死んどるから腫れない。それに、生きとったらダラダラ血が出るほど深くまで針が入っとる所もあるし、生きとる人間の背中に、こんな広範囲に無茶苦茶に針を刺すなんて、まともでない彫師でもやらん。こんな仕事、恥どころじゃない。しかし地竜朴君は、これは自分が紀城君に入れた墨だと言った。つまり――」

「この彫師をとっ捕まえればいい訳だな」

 酒野はそれだけ言って、遺体安置室を飛び出していった。

「単細胞だが、まあ……」

 譲三郎は口の中で何やら呟きながら、隅にあったパイプ椅子を引き寄せて座り、部屋の中央に残された遺体――譲三郎には、紀城衛ではなくであることを分かってもらえた遺体を、長いこと眺めていた。

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