第4話 証拠品

「ボディだけ大きいね」

 譲三郎が、おどろおどろしく血にまみれたチェーンソーを見て発した最初の言葉は、それだった。

 しかしチェーンソーを見慣れていない石沢には、樹脂のボディから伸びる半楕円形の板に金属のチェーン型の刃が付けられた、ただのチェーンソーにしか見えない。

「そう。これは、街中の街路樹の剪定せんていとか、人が多い場所での作業にも使いやすいように、消音の機構が入ってるやつでさ。だから夜にチェーンソーを思い切り使ってても、近所の人が大して気にしなかったってこった。ちなみに事件当日に付いたと見られる新しい指紋は無い」

 酒野はナイロンの白手袋を着けた手で、白いシートが敷かれた台の上のチェーンソーを指差しながら説明する。

 被害者の死亡推定時刻は検死によって二日前の午後八時頃とされているが、現場近くのオフィスや店舗、住居にいた人たちから、その時刻の前後にチェーンソーの刃やエンジンの音が聞こえたという話は出てこなかった。現場は繁華街の裏であるし、多少の騒音があっても、そこまで気にめることはないのだ。

「それで、目撃者がいないと」

 譲三郎は切り揃えた顎髭あごひげを撫でつつ、チェーンソーの隣に置かれた透明なビニール袋に目をる。

 ファスナー付きのその袋には、チェーンソーと同じく血の付いた、小さなガラスの破片が入っている。

「今の所、情報を持っているのは、眼鏡屋の店員だけだ」

「その店員さんの話、詳しく聞かせてえな」

 譲三郎は目を細めて、袋越しにガラスの破片を観察しながら、酒野に有無を言わせない声を投げつける。

「長谷川の眼鏡のレンズは二枚とも割れていて、特に左は穴が開くほど酷く割れていた。穴はその破片よりも、大きかったように思うそうだ。だから、夜の暗さでよく見えないながらも、破片はできるだけ回収したんだろうな。それで、フレームも踏まれたように、全体的にゆがんでいたらしい。だから歪みも直して試着してもらったが、眼鏡を持ってきた男の顔は、明らかに、予想される元のフレームの形からも合わなかったそうだ。割れた二枚のレンズは店で処分することも提案したが、男は断って自分で持ち帰った。そして、ぱっと見は分からなかったが、レンズとその周りのリムの隙間や、レンズのひびなんかに、赤茶色っぽい色が付いていたと言っていた。その時はただの汚れだと思ったそうだが、警察で店舗を調べてみると、レンズ交換に使った機械などから、被害者のものと思われる血液の反応がわずかに出た」

「店員さん、よく覚えとんさるねえ」

 譲三郎はガラスの破片を瞬きもせずに注視したまま言う。

「ああ。午後九時の閉店間際まぎわに慌てて駆け込んできたし、派手な壊れ方だったし、怪しい様子の男だったし、印象的だったと」

「なるほど――。じゃあ、殴られるか何かして眼鏡が壊れて、誰かがチェーンソーを使った時に返り血を浴びたか、眼鏡を落として踏まれて、その後に遺体を解体して血がかかったか、じゃろうか。だが着けている時に、穴が開くほどレンズが割れるようなことがあったら、顔や目に多少なりとも怪我をする。レンズの破片による切り傷だけじゃなく、耳の後ろや顔の横、鼻の上なんかも、フレームが当たってかなり痛いことになる。長谷川君は、側頭部の打撲傷以外に怪我は負っていなかったのかね?」

 譲三郎はまた顎髭を撫でつつ、眉の下から酒野を睨む。

「ガラスによる切り傷は無い。だが確かに、左耳の後ろにつるが食い込んだような痕があった」

 酒野はメモ帳をぱらぱらとめくりながら頷く。

「じゃ、眼鏡をかけている時に殴られ、落として、それから割れたのかもな――。だがそもそも、わざわざ修理するのは証拠隠滅の方法としては少し変じゃろ。時間も手間もかかるし、それなのに記録が残るし、現にこのように重要な情報となっとる。遺体の四肢や首と一緒に隠してしまえばいいものを」

 遺体の胴体以外の部分は、いまだに発見されていない。

「そこは分かっていない」

「はっ」

 譲三郎は苦々しげに言った酒野を完全に馬鹿にして笑ってから、「で、これが長谷川君の服と鞄か」と、レンズの破片の奥に置いてある、畳んだ服や鞄、鞄の中身が入ったいくつかの袋たちを指差す。

「ああ。長谷川の家宅捜索で収集された、事件当日に着ていたスーツとコート、持っていた鞄と中身、それと靴。服や鞄の外側には細かな砂やら砂利やらが付いていて、それらの結晶は、事件現場のアスファルトにあるものと似た構造をしていた。まあ、あそこはまりだし、よくあるアスファルトだから、ただ、どこかで転んだ、という可能性も否めないが」

 しかし酒野の表情は、三十手前の男が何も無いのに転ぶということはほとんど考えられないと言っている。

「被害者の血液反応は?」

「僅かにあったが、見た目には全く分からないほどの量だ。血液型も調べられていない」

「なら、長谷川君の指にささくれができていて、その血が付いたとか、そんなこともあるじゃろ」

「まあ、その程度の量だな。それか、紀城が殺された時に少し鼻血が出るか何かして、それが共犯者の手に付いたのが、偶々たまたま移ったとか」

「眼鏡のレンズとフレームの隙間に血が入り込むくらいなのに? 眼鏡は一度血塗れになったのを、公衆トイレか公園の水道かどこかで洗った、という感じじゃろうが?」

「そうだが、服と鞄には砂が付いているんだから、洗った様子もない。事件の翌朝に警察が長谷川の自宅を訪れて引っ張っていったんだから、クリーニングに出す時間も無い。なのに血液反応は僅かにしかない。だからやっぱり、長谷川は遺体の解体の前に現場を離れて、長谷川が現場に置き忘れて血塗れになった眼鏡を、共犯者が洗って眼鏡屋に持っていったんじゃないか」

「わざわざ? 長谷川君が眼鏡を忘れていったのなら、上手うまくすれば共犯者は、長谷川君を裏切って、思い切り罪をなすけられるじゃろ。何故中途半端に、わざわざ、修理など? 服や何かだって、証拠を消したいなら隠すし、共犯者が罪を擦り付けたいのなら、もっと血を付けておくのが賢明じゃがな。それに、長谷川君が遺体の解体の前に現場を離れるくらいなら、もっと前に現場を離れるじゃろ。なんで紀城君を現場に連れてきた後、残って、わざわざ紀城君に殴られるようなことをした? トイレに行くとか何とか言って、紀城君を一人で置いていくこともできるじゃろうに」

「まあ、紀城が怪しんで一人にならなかったとか、長谷川が躊躇ちゅうちょしたとか、共犯者が予定より早く紀城の前に出ちまって、すぐに乱闘になったとかじゃねえの」

 譲三郎は酒野を無視して、曲がらない腰を屈め、台の上の物を観察し続ける。

「あと、任意同行で長谷川が家を出る時、玄関の鍵が扉の郵便受けに入っていたそうだ。長谷川自身は、それに驚いていた様子だったらしい」

 酒野は棒読みでメモを読み上げる。

「んじゃあ、事件の時に、ショックか頭部の怪我で気を失って、誰かが自宅に送り届けた。だから記憶が無い。長谷川君の言うこととは辻褄つじつまが合うな」

「だが、容疑者本人の自作自演の可能性もある」

「まあな。ところで、長谷川君の携帯電話には、怪しい人物と連絡を取った形跡は無かったということかいね? それがあれば、もっと捜査が進んでいるじゃろ」

 譲三郎は面倒くさそうに、袋に入ったスマートフォンを指差す。

「無かった。紀城のスマートフォンにあった、長谷川が紀城を呼び出すメッセージが、長谷川の方にもあったということだけだ」

 長谷川が容疑者となった最初のきっかけは、紀城のスマートフォンに残されていた、その呼び出しの連絡の記録であった。

「事件の前に直接連絡を取った記録があるのは、職場の人間と家族と、紀城を含めた友人だけで、紀城以外にヤクザ関係の者はいない。家宅捜索でも、それらしいメモなどは見付かっていない。共犯者が長谷川と連絡を取るときは、直接呼び出して話をしたんじゃないかってことになってる」

「ああそう」

 譲三郎はまったくもって納得していない顔で頷き、酒野に証拠品を片付けるように指示して、自分は勝手に証拠品保管庫を歩いて出ていった。

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