第3話 現場

 雑居ビルの隙間にある細い袋小路は昼間でも暗く、酒野がスタンド付きの作業灯をけるまでは、事件現場であることすら分からないほどだった。

 袋小路の奥、室外機の前にあった遺体は片付けられているが、現場保存のために血痕は掃除されておらず、室外機のカバーには血の飛沫しぶきが線状に付いていて、切り取られた首と四肢から流れ出したであろう血は、アスファルトの表面を覆って黒々と光っている。外の路地から吹き寄せられた煙草の吸い殻やゴミや埃は、その血にからられ、ゴミの身分でありながら苦しそうであった。

「遺体があったのはそこ、眼鏡のレンズの破片があったのはそこ、チェーンソーはそこ、血の足跡はそこに沢山あるやつ」

 酒野は、アルバイトの新人に備品の場所を教えるような軽い口調で言いつつ、太い指で地面をし、血溜ちだまりの最も濃い場所と、そこからは少し離れていながらも血を被っている地面に貼られた、矢印と『C1』の字が書かれたビニールテープ、血溜まりの手前側、乾いた血がいびつな形に剥がれた場所に貼られた、矢印と『B1』の字が書かれたビニールテープ、血溜まりの周囲に貼られた、矢印と『D1』から『D71』の字が書かれた無数のビニールテープを示す。

 石沢は、探偵助手を始めた当初こそ殺人事件の現場を見るたびにショックを受けたが、酒野や譲三郎と共に仕事をしていく中で、被害者、そして加害者のためにはどうすればいいのか、考えられるようになってきていた。

「ふん」

 息で返事をした譲三郎には何が見えているのか、石沢には分からない。

「チェーンソーはどっから来たんだね。容疑者の長谷川君は一般人で事務職だというが、友人の紀城君と飲みに行くのに、あんなでかいもんを持ち歩く訳がないじゃろう」

 譲三郎は『B1』のテープとその矢印の先、血溜まりが歪な形に大きく剥がれた部分を睨みながら、低い声で言う。

「見るにアスファルトに傷が付いとらんようだし、遺体の切り口は綺麗だったと言うじゃねえの」

 譲三郎の黒い目は今度は、遺体が退かされた場所の、アスファルトが一部しになっている地面を見ている。

「それに、服の切れ端が一つも無い。素人しろうとが、しかも硬さの不均一な人間の身体からだを切るのに、チェーンソーをそんなに上手く使える訳がなかろう」

「今さっき、製造番号から最終購入者を割り出せたんだが、株式会社エスアール建設っていう会社だ」

 ひしゃげたメモ帳を見ながら話す酒野が、言葉の合間に口で何かを噛むようにしているのは、煙草が無い寂しさからだろう。

「で、その会社は、被害者の紀城が所属していた真津組さなづぐみと縄張り争いで対立してる、帆河組ほがわぐみかくみのの一つだ」

「つまりあんたらが考えとるのは、帆河組の、建築技術を持つ者が長谷川君と共謀し、縄張り争いの敵である真津組の紀城の殺害、遺体の解体をし、また証拠隠滅のために、長谷川の眼鏡の修理をしたっちゅうことだな」

 そう言う譲三郎は酒野の方を見もせずに、鼻の下をぽりぽりと掻いている。

「ああ。今の所、長谷川には紀城を殺す動機は無いから、帆河組から脅されるか、金品を受け取るかして、友人の紀城をおびし、殺害の手助けをさせられたんじゃねえかと。その時に乱闘になったらしく、長谷川の左側頭部には殴られたような跡があった。つまり紀城から反撃を食らったってことで、眼鏡もその時に割れたんじゃねえかな。だが長谷川は否認してる。紀城は自分にその道のことについて詳しく話したことはなく、自分は帆河組のことなど知らないし、何があろうと友人の紀城を殺すはずもないし、紀城と共に店を出てからの記憶が無いと。こっちでは、長谷川の記憶が無いのが本当ならば、その理由は、頭を殴られた時の衝撃か、罪の意識と、友人が目の前で死んだことによる、精神的ショックじゃねえかって推測してる」

 譲三郎は大袈裟おおげさに溜息をき、まったくこれだから最近の警察はとかなり大きめの声で言って、肩をすくめる。

「ヤクザ同士で殺しなど、今の時代、相当のことが無きゃあん。縄張り争いくらいでは起こるはずがない。何千倍にもなって報復されて、先にやった方が大損どころか全滅だし、警察にも目を付けられる。敵対組織の人間を殺した当人は、報復と警察の手を逃れることはほぼ不可能じゃろうし、自分のいる組からも破門、絶縁、いや、それ以上の罰を受けるだろうな。いくらヤクザかて、戦争をしたい奴などおらん。それにヤクザの仕事、しかも殺しなんかにカタギのもんを巻き込むのも、ちゃんとした極道じゃあ有り得ん。まあ、帆河はともかく、と言ったところだが、それでも、相手の中堅一人を殺すのにそこまでのことはせん。それに真津なんかは、無駄な喧嘩も絶対にせん。一般人で、帆河に無理やりやらされているだけで、しかも友人である長谷川君を、紀城君が殴るかね? しかもその仮説だと、遺体を解体する意味も分からん。胴体は残っとったんじゃから、遺体を隠すためでもない。指紋や顔を消して身元を分からなくするためっていうなら、携帯電話や財布を残すはずがないし、足紋そくもんなんぞ相当の重罪人でなければデータが無い。なのに何故わざわざ脚を切った? それに何より、極道もんなら入れ墨は絶対に気にするはずじゃ。入れ墨のある胴体だけを現場に残すなんて、それもまた変じゃろが」

「だよな」

 酒野はそう言って頷くが、譲三郎に「おみゃーは分かっとらんじゃろうが」と突っ込まれ、そこからいつもの楽しい言い合いが始まる。

「絢永さん! 現場! 見てください!」

 石沢が叫ぶと、譲三郎はかなり渋々頷き、埃っぽいアスファルトの上をちょこちょこと歩き始める。

「足跡……こりゃ、二人分じゃがな。全部同じ『D』でまとめおって。資料作成が面倒になる」

「え?」と首を傾げる酒野を、譲三郎はふんっと鼻で笑う。

「同じ靴だが、歩き方がちゃう。体重もちゃう。ここは上手に歩いとるが、ここは靴が緩すぎて脱げかけとる。よく見んかね、若造が」

 譲三郎は血溜まりの周囲に付いた、石沢には全く同じに見える『D1』から『D71』までの血液の足跡を指差し、酒野にがみがみと説教してから、残酷にも「警察の方ではこの足跡をどう考えとるのかね」などと聞く。

「長谷川のものよりは大きかったから、遺体を解体する前に長谷川は現場から離れ、共犯者が血を踏みながら遺体を解体した。そして現場を離れる前には、血の付いていない靴に履き替えた」

 酒野はもう慣れっこなので、適当な口調で言ってあしらう。

「大きい靴なんぞ、それより足が大きすぎない奴なら誰でも履けるわ」

「じゃあ、長谷川が?」

「長谷川君も履けるが長谷川君じゃのうても履けるわ馬鹿が」

 譲三郎はただの悪口を言うと、こぶしを振り上げる酒野と、酒野を押さえる石沢を置いて、袋小路の出口、立ち入り禁止のテープが張られたところへ歩いていき――。

「石沢君、靴カバーと、テープ、頼む。これ以上腰が曲がらん」

 石沢は酒野を後ろ手に掴んだまま譲三郎の世話をして、どうにか酒野の機嫌も取ると、酒野の車に乗り込み、三人で警察の犯罪証拠品保管施設へと向かう――。

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