第2話 祖父と孫と中年おじさん
二日前に殺人事件が起こった現場は、
被害者は、
死因はおそらく、
遺体には何かで殴られたような
そして遺体の身元についてだが、紀城は逮捕歴が無く、目立った問題も無いため、DNAの照合には時間がかかっている。遺体の顔や指紋が無く、DNAの照合もできていないにも
紀城の背中には、大きな龍の入れ墨が入っており、その中に書かれていた
また、遺体が着ていたコートのポケットには、紀城のスマートフォンや財布が入っていた――。
殺人の容疑がかかっているのは、紀城の友人、長谷川恵太。こちらは極道の者ではないが、幼少期から紀城と交流があったという。
彼は事件当日、紀城に連絡をして呼び出しており、その後現場近くの居酒屋で紀城と一緒にいる姿が、居酒屋の店員によって確認されている。居酒屋の近くに設置されていた防犯カメラにも、紀城と長谷川が店に出入りしている姿が映っている。
現場に放置されていたチェーンソーからは長谷川の指紋は検出されなかったが、遺体が着ていた服からは検出されている。
さらに決め手となったのは、現場に残されていたガラスの破片だ。
そのガラスの破片は眼鏡のレンズが割れたもので、被害者の死亡推定時刻である午後八時よりも後、午後九時前に、現場近くの駅から一つ離れた駅の駅ビルに入っている眼鏡屋で、長谷川が使っていた眼鏡と似た眼鏡の、割れたレンズを交換したとの記録があった。ただ、眼鏡を持ってきた男は長谷川よりも体格が大きく、顔はマスクと帽子で隠しており、修理後の試着をした時には、明らかにノーズパッドや耳にかける
石沢は、警察から聞いた話をメモした手帳から顔を上げ、立ち入り禁止の黄色いテープが張られた現場の前に立つ警察官に歩み寄る。
「どうも、石沢です」
石沢が挨拶をすると彼は敬礼をして、それから石沢の顔の左下に視線を落とす。
「あの、そちらは……」
警察官は石沢とその隣の老人を見比べ、思い切り困惑の表情を浮かべる。
この老人は一見、石沢が「道に迷っていたおじいちゃんを助けているところでして」と説明すれば「なるほど」と
「こちらは、探偵の
石沢に紹介された絢永
「え?」
警察官は思わず制帽を脱ぎ、目の前のおじいちゃんを遠慮なくじろじろと見る。
彼を知らない新米の警察官がこのような反応をするのは、いつものことだ。
絢永譲三郎は
そして石沢は譲三郎の孫息子の一人であり、湊東町の絢永探偵事務所に勤める介護職員――否、探偵助手である。日々譲三郎の仕事に付き添っては、仕事の補助をしたり、介護をしたりしている。
「本日は、現場を見せていただけるということで参りました」
石沢はスーツのポケットから取り出した名刺を警察官に差し出しつつ、「ほら絢永さんも、名刺」と、譲三郎を促す。
「よろしくねぇ。ん、あい、何? めーし? ええとね、どこやったっけえ」
譲三郎はしわしわの目で笑いながら、しわしわの手で、いかにもおじいちゃんらしい柔らかな生地の服や、いかにもおじいちゃんらしいくたびれたウェストポーチを探る。
「ポーチの、ここです。この、一番外側。いつもここに入れてます」
「あぁ、そこだったかあ」
結局ほとんど石沢が手を動かして、譲三郎の名刺も警察官に渡す。
「は、はあ、よろしくお願いします……」
目の前で今のやり取りをされた警察官はやはり、強まった困惑に疑いが加わった目で譲三郎と石沢を見る。
「大丈夫です。ええと、
石沢は誰も信じられるはずのない「大丈夫」を言って、周囲を見回す。
「もうすぐ来られると連絡があったのですが――あ」
警察官は腕時計と携帯電話と路地を順に見て、声を上げる。
「おー、じいさんに、孫のぼっちゃん!」
暗い路地の向こうから、のんびりと手を振り歩いてくるのは、くたびれた私服の中年刑事、酒野
「酒野さん、どうも、お世話になります」
石沢が頭を下げる横で、譲三郎は酒野の腹やらコートやらを
「あーたはもう、こんなお腹して! 飲みすぎだっちゅってんでしょうが! 服もタバコくっさいしねえ! 奥さんが泣いとるじゃろーが!」
酒野はぶっ叩かれながら、慣れた様子で言い返す。
「そんなじいさんは、そろそろお迎えの連絡が来たんじゃねえの? それとも死神さんも呆れて、こうして生き
「死神が呆れとんのはあんたの方じゃ! この不健康体が
「不健康体? 今年の健康診断、何一つ引っ掛からなかったが?」
「数値が酷すぎて、医者が
二十五の石沢には全く分からないが、二人はこれを始めるといつまでもやり続けるから、つまり楽しいのだろう。
「あのお」
石沢はおずおずと、きゃっきゃと
「あんたそろそろ
「じいさんは、髪だけ先に旅立ってんじゃねえか! どこが
「んなー! 下半分は残っとるしなあ、眉と
「毛まで物忘れが酷くなって、抜け忘れてるだけだよ!」
「物忘れはあんたの方がどうしようもないわ! こないだなんか、バーのママの名前間違えて、ビンタされとったじゃろが!」
「ママの名前間違えたのはじいさんだろ! ママがヨボヨボじいさんはビンタしただけで死ぬと思ったから、俺がとばっちり食らっただけだ!」
「あんたはまだしも、このあたしがビンタで死ぬ訳があるかいな!」
「死ぬわ!」
「死なんわ!」
「死ぬわ!」
「死なんわ!」
「本日は、現場を見せていただきに参ったのですが!」
もう、石沢一人だけでも本題に入るしかない。
「死ぬわ! あ、現場ね。まったく、こんなクソじいさん放っておいて、行こうぜぼっちゃん」
酒野は肩を
「あんたクソと言ったか! クソを馬鹿にするでないぞ! ありゃあ健康の重大な指標になるものでなあ! いいか、バナナうんちじゃ! あーたはびちょびちょのゲリ
譲三郎もクソだの糞だのうんちだの言いながら、石沢に靴カバーを履かせてもらい、テープを持ち上げてもらって、その下を
「絢永さん、お願いしますよ」
既に疲れている石沢が
森のように茂った白い眉の下で、小さな黒い目が鋭く光る。
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