自宅登山家 エミヤ・シュウイチの登る山
蒼井どんぐり
自宅登山家 エミヤ・シュウイチの登る山
「中々こんな景色、見ることないですよね。どうです。面白いでしょう?」
彼は白銀の雪を踏みしめ進んでいく。風はそこまで強くなく、むしろ快適さを感じさせる。見上げると見える山の峰から、肌寒い空気が私たちめがけ流れ込んで来る。その風に負けずカメラで彼の後ろ姿を捉え、後を追っていく。
彼の言う周りの景色に目を向けると見えてきたのは、さっきまで私たちがいた部屋だ。入ってきた扉や箪笥、置かれた家族写真が今は巨大なオブジェのように、小さな私たちを見下ろしている。
「なるべく持っている中では初心者用の山を選んだんですが、大丈夫でしょうか? "縮小酔い"も問題ないですか?」
「私もよく山に登るので大丈夫です。それに実は"屋内登山"は以前友人と一緒に体験したことがあるんです。あの、都内にできたばかりの体験施設です」
「あ、すでに経験者だったんですね。広報大使の私としても、とても嬉しいです」
そう言いながら先導する彼の後ろ姿をカメラで捉える。
エミヤ・シュウイチ。42歳。
30歳でマッターホルン北壁の登頂に成功、その後アイガー北壁、グランド・ジョラス北壁と成功し、アルプス三大北壁の踏破を若くして成し遂げた人物。当時は俊英の登山家として注目を浴びていた、彼の人生を変えたのは38歳でのあの宣言だった。
『私はこの度、自宅登山家として活動をしていきます』
同時期に発表されたある技術と共に彼は目指す山を変えた。
現在では"屋内登山"という文化も生まれつつある。その文化の最前線、またきっかけを作った彼の素顔に私は迫ろうとしている。
「この山も再現度が高くて。特に雪の質感は気に入っているんです」
急な勾配を私たちは登っていた。足元には人工の空調設備で作られたとは思えない感触の雪。それを踏みしめ進んでいく。
坂を超えた先、日陰となった休憩できそうな場所に出た私たちは腰を下ろした。どこか不思議の国に迷い込んでしまったような感覚を味わいながら、呼吸を整える。
そんな時、山合いの向こうから轟音と思えるような音が山中に響いた。
「お父さんー! ご飯、できたってー!」
私たちを大きな影が包む。頭上を見ると大きな巨人の姿が横切るのが見えた。私たちを探している。それは巨人などではない、彼の一人娘である、ユウナちゃんだ。
エミヤさんが右腕に巻いた腕時計のような銀色の端末にコツコツと触れると、別の巨大な音が部屋の隅から聞こえてきた。外のスピーカーに繋がっているようだ。
「ユウナ、いきなりびっくりするじゃないかー。わかった。すぐ行くからお母さんに言っておいて」
「わかった! ご飯冷めちゃうから早くね!」
ユウナちゃんはそう言うと、すぐにドタドタと山を揺らしながら、山の隙間から見える部屋の大きなドアから姿を消した。
「すいません、もうすぐ中学生になるというのに落ち着きがない元気な子で。どうでしょう、ご飯もご一緒して行きませんか?」
「いいんですか?」
「ぜひ。じゃあ、一旦、戻りましょうか」
彼は先ほどの端末に再び手をかけた。では、行きますよ、と彼が言った瞬間に私たちの視界は真っ暗になり、意識も失った。
気づくと部屋の中央に設置された円形のシートの上で、直前と同じ姿勢で座っていた。周りを見ると、さっきまでは大きく見下ろしていた扉や棚が見慣れたサイズで私たちを取り囲む。本当に一瞬の出来事で、まだ感覚が慣れない。
立ち上がると、テーブルには四角いガラスケースがあるのが見えた。精巧な雪山の模型、世界のミニチュアがテーブルの上に鎮座している。
隣を見るとエミヤさんが防寒具を脱ぎながら、扉の方を指さしていた。
「では行きましょう。ご飯が覚めると、二人に怒られてしまうので」
階段を降りたリビングで一緒に食事をとらせてもらうことになった。夕食はシチューらしい。ユウナちゃんの大好物のようだ。
エミヤさんの奥さん、ハルナさんが湯気の経つ皿を運んできた。
「すいません、お料理までご馳走になってしまって」
「いや、いいんですよ。夫の密着取材ですってね。こんな変わり者ですから、その正体を暴いちゃってください」
ハルナさんがそう言うと、エミヤさんはどこか照れ臭そうに笑っていた。
せっかくの機会なので、家族の皆さんにも彼のことを聞いてみた。
「自宅登山家になられてからのエミヤさんはどうですか?」
「そうですね、やっぱりいつも家にいてくれるってのは嬉しいですね。昔はいつも海外のどこかの山に行ってしまっていることが多かったので」
微笑みながらハルナさんは語る。心の底から安堵したような表情を浮かべている。
私はハルナさんの横に座るユウナちゃんにも質問をしてみた。
「ユウナちゃんはどうかな? 自宅登山家になってからのお父さんは?」
「毎日登山に行っちゃうのは変わらないかな。逆に引きこもりになってるし」
ふふ、と横のハルナさんが笑う。それを見てユウナちゃんも笑った。
「でも、昔より一緒に遊べる時間が多くなったの。今度一緒に山に登る約束もしたのよ!」
ユウナちゃんは嬉しそうに語った。
世界各国を回る登山家と違い、登る対象が家にあるので、家族との時間が必然的に増えるのだろう。
見るとエミヤさんも微笑みながらユウナちゃんとハルナさんの二人を見ていた。険しい山に臨む屈強な登山家の意外な一面をそこに見た気がした。
次の週、私とエミヤさんは彼の運転する車で都内に出ていた。街中を進みながら、彼に目的地を聞いた。
「今日は新しいマウンティウムが完成したので、知り合いの店に取りにいくんです」
マウンティウム、あのミニチュアサイズの山の模型だ。アクアリウム、テラリウムと同じような形で自宅登山用の小さな山はそう呼ばれている。まだまだ
車の窓から街中にカメラを向けると、縮小技術についての看板がちょうど目に入る。
『世界の未来のために、体は小さく、幸せを大きく』
そんなキャッチコピーと共に、スーツ姿のエミヤさんが一緒に映っていた。運転していたエミヤさんも目に入ったのか、それを見ながら、
「縮小技術も認知度は上がってきたんですが。浸透度はまだまだですね」
といった。
縮小技術。自宅登山を支える技術でもあり、この世界の物資問題を解決しうる技術として世界に発表されたのが5年前だ。日本の大学の研究機関と新進気鋭のスタートアップ、そして政府の援助を合わせた巨大なプロジェクトとして秘密裏に開発が進んでいた技術だった。
あらゆる物体の分子構造をそのままに縮小する技術。元の大きさ以上にすることはできないが、小さくし、戻すことは可能な技術。
これで食料問題も人口問題も解決する。当時は世紀の大発明だと言われた技術であったが、その新規性が逆に疑惑の目線を呼び込むことになった。
本当にそんなことが可能なのか、できるとしても人体に使用しても問題がないのか。
次々に声が上がり、技術者や科学者の中での盛り上がりと反比例するように、世間では怪訝な印象が覆うようになっていた。
そんな時だった。エミヤさんがあの宣言を大々的に発表したのは。
「なぜ、広報大使という仕事もするようになったんでしょうか?」
「ああ。それは、あの発表をした反響が大きかったみたいで。元々は
縮小技術を開発した、レンジョウ・キュウサク博士は彼の大学時代の友人だという。元々彼のアイデアを聞いていたエミヤさんは、技術の研究段階からその技術のテスターとして協力していたらしい。
「徐々に若い子達には理解が進んでいるようです。"屋内登山"が今インドアスポーツのトレンドだ、とニュースでこの前見た時は嬉しかったな」
「私の知り合いも、"屋内登山"できる施設に毎週通ってますよ。インドアな友人も気軽に誘えて良いって」
「マウンティウムはまだまだ高価ですしね。でもそうやって、上の世代の人たちもまずは気軽に触れてみてくれると嬉しいんですが。あ、着きました。あの店です」
彼は大通りに面したガレージのある建物の横の駐車場に車を停めた。
車を降り、見上げると建物には「エンドウ
店内にカメラを向けると、そこにはさまざまな模型たちが並んでいた。
生い茂った森を正方形に切り取ったようなもの、エメラルド色の水に満たされた水槽、そして切り立った氷の崖を細長いガラスの円柱に閉じ込めたものがある。まるで、世界中の美しい景色を、ひとつひとつ小さなピースにして閉じ込めたような情景が広がっている。どれもこれも、本物と思えるような精巧なミニチュアだ。
「いらっしゃい、エミヤさん。お、今日は連れがいるんだね」
店内の奥から、職人風のエプロンをかけた、古風な佇まいの男が姿を現した。
「今ちょうど密着取材を受けていてね。よければエンドウさんも一緒に紹介しようと思って」
「へえー、取材ね。どうも、
エンドウと名乗った男が握手を求めてきたので、その手を握り返す。手の皮膚はとても硬く、熟練の造形師としての説得力を感じさせた。
幻郷造形師は縮小技術の発展とともに誕生した仕事だ。マウンティウムを使った屋内登山をはじめ、小さなミニチュアの中に入り込む娯楽は、幻想的な海の中を縮小して泳げるアクアリウムや、人がたどり着けないような秘境の地を再現したテラリウムを冒険したりと様々。まだ一般家庭に普及するには縮小技術自体は高価であり、これらの模型もまだ体験施設や公共団体向けに提供されている。
「俺も元々は施設などの空間設計士をしていたんだがね。個人作家としてテラリウムを作っていたことがきっかけで、縮小技術の開発チームに誘われてこの仕事を始めたんだ」
彼は私たちを連れて店内を紹介しながら進む。店内には大小様々なマウンティウムがある。
これらはただ精巧な模型というわけではない。模型内部の自然物の生態の再現を初め、空調や気温、またその安全性など精巧にコントロールし構築する技術が必要だ。
そのため、元々はエンジニアリングの技術を持ち、テラリウム造形などを趣味に行っていた者たちがその職に就くときく。
「で、これが頼まれていたマウンティウムだ。ちょうど先日仕上がったばかりだよ」
店の奥の作業スペースの中心のテーブルの上に、両手で持てるくらいの四角いガラスに包まれた模型が置かれている。だいぶ大きめのマウンティウムだ。中は雪山をベースとしつつ、そこまで険しそうな山には見えない。雪山の頂上は不思議と変な色に覆われていて、普通の雪山とは異なるようだ。これがエミヤさんの特注していたものらしい。
「ありがとう。だいぶ無茶な設計をお願いしてしまったけど、問題なかったかい?」
「まあ、ここまで素っ頓狂な情景のオーダーは初めてだったな。でも、造形師冥利に尽きるよ」
エミヤさんはそのマウンティウムを受け取り、私たちは店を後にした。それを車に積んだ後、彼が「少し歩きませんか?」と言うので、私たちは近くの公共公園を歩きながら話すことにした。
「登山以外にも休日はこう言った散歩をよくするんですか?」
「まあ、そうですね。特に自宅登山を始めてからは山以外の場所もできるだけ歩くようにしていると思います」
隣で一緒に歩く彼は随分と和やかな表情でそう話す。
「登山を始めたのはいつなんですか?」
「初めて山を登ったのは大学生の頃ですね。それまでは全然興味がなかったんですけど。登山サークルに入って、それで登ったのがきっかけですね」
「なぜ、登山サークルに入ろうと思ったんですか?」
「そんな強い理由があったわけじゃありません。ただ、当時、私には趣味とか熱中しているものも特になかったんです。だから、何か自分の中での軸のようなものが欲しくなったんです。大きな目標を持てるものとか。何かを始めるにはよくある理由です。ただ私には登山だった、というわけで」
彼は懐かしむようにそう語った。歩幅はとても緩やかで、私の撮影に合わせてくれているのだろう。険しい山々を踏破してきた人間だからこその余裕を感じさせる。そんな彼の第一歩は、誰でも持ち得る感情から始まった。
そんな彼の昔話を聞いていた時、前方からこちらに向かって歩いてくる人の影がカメラを捉えた。その影、屈強に鍛え上げられた体はエミヤさんのように大きく、気づくと目の前に立つ。
「エミヤ……、お前まだ自宅登山なんてやってるのか」
「トバ……。久しぶりだな」
その男は確かトバ・リョウジ。エミヤさんと同じく著名な登山家だ。数年前はエミヤさんと一緒の登山チームにも在籍。どちらがエベレスト登頂に成功するか、を競っていた相手でもある。4年前のエミヤさんの宣言が出るまでは。
エミヤさんはちょっとと言って私を後ろの方に下げさせた。私は二人の様子を少し遠くからカメラで収め続ける。
「お前、これ以上、登山家を侮辱するのも大概にしろよ。先人たちが登ってきた山々に敬意はないのか?」
「トバ、俺は今でも先人たちに敬意を払ってるよ。今でも山を登っている時に…」
「お前がやっているのは登山なんかじゃないだろ!」
トバさんがエミヤさんの胸ぐらを掴んだ。怒鳴り声が道中に響く。行き交う人々が二人を訝しげに見つめていた。怒号はおさまらず言葉が続く。
「お前が登っているのはもう山じゃないだろ。大自然の山じゃない。それに、カミキは、カミキに申し訳ないと思わないのかよ」
「……」
俯きながらエミヤさんは何も答えない。トバさんはそれを歯を噛み締めじっと睨んでいたが、次第に諦めたように掴んでいた腕を離した。
「お前は登山かなんかじゃない。山から逃げるなよ。早く、登山家に、山に戻ってこい」
トバさんが振り返り、立ち去っていった後、私は近づいて彼に尋ねた。
「今のは確かトバ・リョウジさんですよね?」
「ええ、昔の登山仲間なんです。自宅登山を始める前は一緒のチームで登ることも多かったんですが、そのあとはたまにこうやって喧嘩になってしまって」
彼は服を整えながら、落ち着いた声で語る。
「自宅登山を始めた頃からですね。彼や登山家仲間以外にも、やはり縮小技術が受け入れられない人からは、直接非難されることもよくあります」
「なるほど……。あの、カミヤ…さん…というのは…」
続きを聞こうとすると、すいませんでした、とエミヤさんが私に申し訳なさそうに言って遮った。そのためそれ以上私は話を聞くことはできなかった。
私たちは車に戻り、彼の家の帰路についた。彼は今日はこれで、と寂しげに家の中に入っていった。
縮小技術、新しい技術が既存の文化に溶け込む時、大きな衝突が発生する。そんな文化の波間に、エミヤさんは揉まれているのだろう。彼にはどれだけの重圧がかかっているのか。計り知れない。
その一件があった三日後の週末、私はまた彼の家を訪ねていた。
今日は先日受け取った、あの特注のマウンティウムの登頂に挑戦するという。せっかくなので、と昨日連絡をいただいたので早速赴かせていただいた。
先日も赴いた彼の部屋に着くと、彼の隣にはユウナちゃんも防寒具を着込んで準備を進めていた。
「今日のあの山はユウナと登る約束をしていた山なんです。なので今日は彼女も同行させていただきます」
「よろしくお願いします!」
そうユウナちゃんが笑顔で挨拶をしてくれた。とても元気いっぱいの声。きっとこの日を楽しみにしていたのだろう。
しかし、心配になった私は、防寒具を着込みながら準備をするユウナちゃんに聞こえないように、エミヤさんに聞いた。
「大丈夫なんですか? まだ彼女には早いんじゃ……」
「いえ、これでも何回か一緒に登ってるんです。今回ももちろん彼女でも登れるようエンドウさんにも調整してもらってます。それに、この山は彼女が登らなきゃダメなんです」
そうエミヤさんはカメラに企み顔で口角が上がった。この山には何かあるのだろうか。準備ができた私たちは、部屋の中央のマットの上に乗り、乗り込む準備をした。
「じゃあ、いきましょうか。ユウナも準備はいい?」
「はーい。準備できてるよ」
そう彼女がいうのが聞こえ、エミヤさんが腕の装置に手をかける。気づくと意識が消え、また目の前は真っ黒になり、私たちは小さなミニチュアの中へと入っていく。
道中は確かに先日登ったマウンティウムより緩やかなだった。雪山ではあるが気候も暖かく、厳しくない。雪も普通の雪を再現したものではなく、どこかふわふわとした感触が印象的だった。踏みしめても、足への負担が少ない。
前方にカメラを向けると、ユウナちゃんが駆けるように進んでいく姿が見えた。
「こらユウナ、そんなに走ると後で登る体力がなくなってしまうぞ」
そんなことないよー、という声が聞こえ、先を急ぐ彼女をゆっくりと追うエミヤさんの後ろ姿が象徴的だった。私はカメラを向け、しっかりその姿を撮る。
その日は急な道や壁もなく、そのまま歩き通した。この山は一泊二日かけて登ると聞いている。途中泊まり込んでの行程だ。夕方ごろには小さな山小屋が見えてきたのでそこに腰を下ろして食事にした。エミヤさん特製のとろとろに溶けた野菜スープを頬張り、走り疲れてしまったユウナちゃんはすぐ寝袋で寝てしまった。
小屋の中の暖炉に薪をくべるエミヤさんへと私は質問をした。
「こんな山小屋もマウンティウムの中に作れるんですね。これもミニチュアなんですか? 家を縮小したものではなく」
「そうですね。流石に山小屋は実物を縮小するのはコストが見合いません。これもエンドウさんの職人技のおかげです」
暖炉の橙色の炎にエミヤさんの顔が照らされている。
神妙な顔でじっと炎を見ていた彼が静かに口を開いた。
「先日は、本当に申し訳ありませんでした」
「あ、いえ、そんな」
「私のパートナーだったんです。登山チームの」
「え?」
驚きながら見るとエミヤさんは優しく微笑んだ。
「この前の話、カミキのことです。私とトバの後輩でもあった登山家です」
彼が言うには、カミキさんという登山家の方がいたらしい。登山家は難関と言われる山々に挑む際、様々なスタッフが同行して登る。むしろ一人で登る方が少ない。カミキさんはエミヤさんやトバさんのチームによく同行するスタッフだったらしい。家族とも親しく、よく家にも遊びに来ていたらしい。
「そのカミキは5年前、アイガー北壁に挑む際に遭難したんです。数日後、遺体が崖の下に埋もれているのを現地の人が発見しました」
エミヤさんやトバさんほどの経験をまだ積んでいなかった若いカミキさんは、彼らに憧れて自分の実力からすると少し上の挑戦をした。そして敗れた。
「私とトバも悲しみに暮れました。でも、それ以上にカミキが亡くなったことを知った妻の憔悴がすごくて。きっと、登山家がいつでも死と隣り合わせだということを実感する出来事だったんだと思います」
先日、彼の家で食事をとらせていただいたことを思いだす。彼女は「いつも家にいてくれるってのは安心」と心の底から安堵する声で語っていた。
登山家はいつどこで遭難するかわからない。登山家自身は山に臨むたびその覚悟を心に刻む。しかし、周囲の人はそうではない。理解していても、実際に直面して実感するものとは別だ。
「ある時、海外に行くときに妻がぼそっと、涙を流して『家にいて』とだけ言ったんですね。それを聞いた時、私も突然怖くなったんです。山に行く、というよりも家を離れる、ということが」
彼は一呼吸置いてからそう語る。
「それが、エミヤさんが
「今思うときっとそうですね。私が自然の山から降りた理由。だから……」
彼は頭をかき、困ったような、笑ったような複雑な顔でこう語った。
「僕がやってることが登山家を侮辱しているというのも、山から逃げている、と言われるのも事実だと思います。そう言われたってしょうがないんです」
朝になり、登頂は再開された。
「ユウナ、今日は険しい道を行くからな。気をつけなさい。お父さんは助けないから自分の力で登るんだぞ」
昨日の朝や夜の印象と変わり、今日のエミヤさんはだいぶ神妙な面持ちだった。山を舐めてはいけない。強い意志を感じさせる、山に臨むときの登山家としての表情だろう。
「うん」
そんな顔に影響されてかユウナちゃんの顔も引き締まる。ここは山の中腹、これからはだいぶ辛い道になる。
天候は昨日と変わらず、温暖な晴れた日に調整されていたが、勾配がだいぶ急になっていた。流石にロープを使うような岩壁を通るルートではなかったが、歩き続けると大人の私でも腰に疲労が溜まっていくのがわかる。前方を進むユウナちゃんもかなり疲れが溜まっているようだ。一歩一歩進むごとに体制を崩しそうになっている。
さらに前方を進むエミヤさんは後方の私たちを見ながらも、決して手を貸したりしなかった。あくまで彼女の挑戦を力を貸さず見守るように。
「後もう少しだユウナ。頑張れ」
前方から声が届くが、ユウナちゃんは返事をする余裕もない。代わりに彼女は一歩一歩確かに進むその足取りでその声に応える。後もう少し。
その声を聞いた数分後には、無事頂上に辿り着いたようだった。先に到達していたエミヤさんとユウナちゃんの後ろ姿をカメラに映そうと私も登り切る。
すると、そこには雪山と思えない光景が広がっていた。花だ。黄色と赤、オレンジや紫の花畑が白銀の雪の上に広がっている。さらに視線を上に向けると、頂上にある石が不思議な形をしているのがわかった。まるで一本柱に支えられているように、円形の渦巻きの岩が乗っている。見るとシャボン玉色のような細工で、それが綺麗な藍色の色を反射していた。水晶だろうか。
「わぁぁぁー! すごい! 絵と一緒だ!」
そう言って、ユウナちゃんははしゃぎながら、さっきまでの疲れを忘れたように花畑に突っ込んで行った。
「これは?」
ユウナちゃんの様子を眺めるエミヤさんに聞く。
「前ユウナに頼まれたんですよ。こんな山を登りたいって。絵までもらって」
「それを実際に作ったんですか?」
「まあ、娘に言われてはしょうがないですからね。エンドウさんに頼んで。それに、これも自宅登山だからできることでしょう?」
そう彼が言うと同時に、私たちに影がさした。
見上げると、視界いっぱいに巨人の姿が広がっている。影に包まれた巨人が徐々に照明に照らされ顔が明るみになる。ハルナさんだった。彼女がマウンティウムを覗き込んでいるようだ。
「お母さんー!」
ユウナちゃんが元気いっぱいに空の巨大なハルナさんに手を振り続けていた。それを暖かい目で見返す巨大なハルナさん。
奇妙な光景だ。それこそ不思議の国に迷い込んでしまったような。精巧な現実の模型である険しい山を超えた先に、大きさの違う世界を横断した温かい景色がそこに広がっている。私はエミヤさん言った。
「きっとエミヤさんは山を降りてないですよ」
「そうですかね」
「だって今だって山を登っているじゃないですか」
「まあ確かに」
そう言って、エミヤさんは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「たぶん、別の山を登り始めただけなんでしょうね。自然とは別の。それはもう登山家としての登山とは違うのかもしれませんが」
「今度はどんな山……、目標を目指しますか?」
「そうですね。まずはこんな景色を見せてくれる自宅登山の魅力をたくさん伝えて、自宅登山家を増やすことでしょうか。私、広報大使ですから」
エミヤさんはカメラに向かって微笑えみ、小さな娘と大きな妻の元へと向かう。その光景を、後ろ姿を、その一瞬をカメラに収めた。
自宅登山家エミヤ・シュウイチ。自宅登山という新しい文化。
小さな模型の中を、体を小さくし登るその行為は登山なのか、登山ではないのか。私も未だにその答えはわからない。
それでも、世界を救うと言われた技術が見せる、別の可能性を私はそこに見れたのかもしれない。
まだまだその文化や技術が人々に浸透していく途上だ。それでも彼は先陣を切り、魅力を伝える道を行く。新しい山、目標を目指して。
命を賭けて山々に挑戦した男が、次に登る山は険しい。
でもきっと、彼ならその山を登り切ってくれるのかもしれない。
小さき背中に大きな宿命と温かい愛を背負い。
まだ彼は新しい山を登り始めたばかりだ。
<了>
自宅登山家 エミヤ・シュウイチの登る山 蒼井どんぐり @kiyossy
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