最終章(救済)

『日常的風景 Wプラットホーム』は、作業場の奥に置かれていた。ジョニー無界の造形工房は広い。とはいえ、これだけの大きな作品を入り口の辺りに置いてしまうと、出入りに不自由する。だから、作業場の奥に置かれていた。ジョニー無界は、作品の壊れた箇所を作業場の奥で修理していた。

「土台は鉄骨で組み上げたから壊れないことは分かっていた。でも、あれだけ飛んだり跳ねたりされたら、ホームが壊れて当然だった。やっぱり、賀矢店長に事前に何をするのか訊いておくべきだった」

瀬上芯次は、修理をしながら、独り言のように話すジョニー無界の言葉を聞いていた。瀬上は、木工ナイフで、木のブロックを削っていた。


今日は暖かいので、電気ストーブは使っていなかった。もう三月に入っていた。瀬上芯次は、今、ジョニー無界の造形工房にほぼ毎日通っている。

「僕は、自分がホームの上にいた時の記憶がないんです。だから、飛んだり跳ねたりしていたかどうかも……」

瀬上もうつむいて、木のブロックを削るのに集中しながら言った。

「ダンスをしてたよ。華麗なステップだった」

「僕は踊りはできません。竜景さんが、生前、踊りが得意だったら、その可能性もあったかもしれません。でも、宗田さんの話には出てきませんでした」

「ハハハッ」

ジョニー無界が笑った。


瀬上が毎日、この工房に通っている理由は、『救済される魂たち』が、解散したからだ。居場所を失った彼は、今、ここにいる。


意見交換会の後、礼命会が解散した。そのすぐ後に『救済される魂たち』が解散した。礼命会が解散した時には、混乱はなかった。何故なら、信者は気づいていたからだ。病院から礼命会に戻って来てからの青沢礼命は、もう宗教家ではなかった。医者だった。水越賀矢が入信させた信者は、戻って来てからの青沢礼命しか知らなかった。それでも、この人は宗教家ではなく医者だと思った。だから、信者は、近いうちに礼命会に終わりが訪れる気がしていた。意見交換会が、きっかけになった。青沢はあの日、変わるべき時が来たことを知った。丘の上の教団施設のことは宗田功佐久に任せた。地域で幾つか高齢者福祉施設を運営している社会福祉法人が、デイサービス施設として利用することを検討している。


『救済される魂たち』の解散は、礼命会の場合とは違った。突然だった。信者は混乱した。居場所を失うことになるからだった。瀬上もその一人だった。水越賀矢は、そのことが分かっていた。でも、どうしても教団を解散せざるを得なかった。彼女は意見交換会で、宗教家としての自分を全て出し切った。にもかかわらず、これ以上、教団を続けることは、終わってしまった自分を演じ続けることになる。彼女はそれはできないと思った。だから、教団を解散した。


瀬上は意見交換会が終わった夜、リビングで両親と話し合った。テーブルを挟んで向かい合って話をした。父と母はいつも瀬上が寝そべっているソファーに並んで座っていた。両親から教団を脱会するように言われた。その時、彼は抵抗した。しかし、数日後、突然、教団が解散した。彼は抵抗する意味を失った。話し合いの時、父と母は、瀬上に学校に行けと言った。しかし、以前のように強くは言わなかった。知らぬ間に、宗教団体に入信して、毎日、駅で清掃活動をしていた息子である。高校に限らず何かを強要すると、家出もしかねない気がしたからだ。


結局、教団が解散してから、少しの間、また散歩の日々が続いた。新しいダッフルコートではなく、また色褪せて黄色っぽくなったダウンジャケットを着て歩いた。ある時、公園のベンチに座って、ぼんやりしていると、スマートフォンにメールが届いた。水越賀矢からだった。

「ジョニー無界の造形工房に行きなさい。話はしておいたから」

これだけだった。


工房を訪ねると、彼は笑顔で瀬上を迎えた。

「元信者の中で一番居場所がないのは瀬上君だから、面倒を見てやってください。毎日、散歩ばかりしているのも、どうかと思うので。こんな風に電話で言ってたよ」

「賀矢先生は、どこにいるんですか?」

「訊かなかった。訊いても言わないだろう?」


瀬上は、ジョニー無界が内職でやっているコマ作りを手伝うことになった。手伝いといっても、彼は、瀬上にきちんと手間賃を払った。彼の隣で瀬上はコマを作った。初めてにしては意外に上手くできた。瀬上は夢中で作った。

「瀬上君。筋がいいな。どうかい? 楽しいだろ? 楽しければ一日中やっても飽きない」

「はい。楽しいです」

「学校がうまくいかないのは、楽しくないからだ。学校も学校の勉強も君には楽しくないんだよ」

「そうだと思います。でも、どうすればいいんでしょうか?」

「どうもしないさ。楽しくないことをやめて楽しいことをすればいい」

「高校を辞めろっていうことですか?」

「それを決める権利は俺にはない。君のご両親にもない。君が決めるしかない。続けるかどうかも君が決める。辞めるかどうかも君が決める」

「僕が自分で決めるしかない……」

彼は呟くと、手にした木のブロックをじっと見つめた。

「あまり深刻にならずに。君はまずここに来て、コマを作るんだ。その日々の中から、自ずと答えは見つかるはずだ」

その日から、瀬上には、教団に代わる居場所が見つかった。

二人でコマを作る時、ジョニー無界と瀬上芯次は低い椅子を置いて並んで座った。二人の後ろには、『日常的風景 Wプラットホーム』が置かれていた。怪我をした大型動物が治療を待っているように見えた。


青沢紀秋は、辞めて間もない精神科の病院に再び勤務していた。誰も彼に礼命会のことは訊かなかった。それより、少しでも医師不足が解消されたことを喜んだ。入院患者のカンファレンスの時、彼は、父のことを考えていた。他のドクターの声が遠くで聞こえているようだった。父は、何故、自ら命を絶ったのか? 理由は一つしかない。無理をして演じていたからだ。優秀な企業人、良き家庭人であることは本当だった。しかし、父だって、疲れて不機嫌になることもあった。泣きたくなることもあった。怒鳴りたくなることもあった。だが、父はそれらを全て封印した。ひたすらに優秀な企業人、良き家庭人を演じ続け、あの日、遂に、それが限界に達したのだ。それにしても、何故、自分はこんな当たり前のことに今まで気づかなかったのだろう? 世の中には、そんな風に無理な生き方をしている人は幾らでもいる。そして、「無理をせず、疲れた時は、素直に疲れた自分を認めてください」と助言するのが自分の仕事ではないか。父だから気づかなかったのだ。自分の父は完璧な人だと未だに思い込んでいたのだ。

「私は幸せすぎた。その代償なのだ」

青沢は、ふと呟いた。

他のドクターが彼を見た。

「何でもありません。話を進めてください」

彼はカンファレンスに集中した。


水越賀矢は、その日、借りていた牧多の実家を出ることになっていた。そのまま旅に出ると言っていた。牧多賢治と杉原和志の二人で、『救済される魂たち』の看板を外した。突然の教団解散で混乱したこともあり、看板を外さないままになっていた。信者は、もういなかった。そのため、二人が外した。二人とも昼休みに牧多の実家に来た。看板を外すのが目的で来たわけではなかった。二人は、水越賀矢に会いに来たのだった。旅に出ると言うだけで、どこに行くのかも、いつ帰るのかも、分からないのだった。場合によっては、もう会えないかもしれなかった。だから、二人は彼女に会いに来た。でも、彼女はもういなかった。見送られるのが照れくさかったのか、気まずかったのか。おそらくその両方だった。看板を外した店舗は、まだら色の壁が目立つ用途の分からない建物に戻った。二人は、その建物を見ながら、彼女が、この街からいなくなったことを実感した。

意見交換会からしばらく経った日のことだった。


水越賀矢は、雪の吹きつける道を歩いていた。旅先の街の風は身を切るほど冷たかった。雪は彼女の黒のコートを白くした。海に面した道を駅に向かって歩いていた。冬の海は暗かった。荒々しい波しぶきは海の咆哮のように思われた。歩きながら、彼女は気づいた。どれだけ旅をしてみても、居場所など見つからない。瀬上に居場所がないことを心配している自分こそ居場所がないのだ。その瞬間、海は途方もなく広く見えた。気の遠くなるような孤独感に襲われた。居場所探しの旅に出たつもりはなかった。しかし、心の底には、そんな思いがあったのかもしれない。


電車に乗った。車内に乗客はいなかった。彼女は窓から海を見た。そして、思った。居場所なんていらない。独りで構わない。ただ、私が死んだ時には、古いロックンロールのレコードを大音量で流して欲しい。もちろん、葬祭場じゃなくていい。できれば、出入り禁止になっているあの商店街の朽ち果てたようなあの店舗がいい。

彼女は笑った。居場所なんていらないと言いながら、帰るべき場所を心の中で呟いていたからだ。それから、ずっと海を見ていた。荒々しい冬の海を眺めながら、もうすぐ訪れる春の穏やかな海を想像していた。そして、彼女は、大好きな古いロックンロールのメロディーを静かに口ずさんでいた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

闇の中の太陽になるのは誰だ? 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る