第六章(記憶)4

四.

瀬上芯次は、駆け上がったW駅の造形作品のホームの上から会場を見渡した。

「海を見ているみたいだ。気持ちがいい」

そして、先ほどまで自分の座っていた席を見た。誰かが座っていた。隣のジョニー無界の席は空いている。でも、瀬上の席には誰かがいる。瀬上は、じっと自分の席に座っている人物を見た。黒のジャンパーを着ていた。顔は分からない。何故なら、頭から首まで包帯でぐるぐる巻きにしていたからだ。

「あっ! さっきの話に出てきた若い男だ」

瀬上は叫んだつもりだったが、声が出なかった。次の瞬間、会場の瀬上の席に座っていたはずの包帯を巻いた男が目の前にいた。包帯を巻いた男も何も言わなかった。だが、瀬上には男の考えていることが伝わってきた。

「父さんに劇を最後まで見せてやりたいんだ。協力して欲しい」

男のメッセージを受け取り、この人は宗田竜景さんだと瀬上は思った。そして、心の中で彼の頼みに頷いた。

すると、瀬上の頭の上から、竜景が体に入っていくのが分かった。その後、瀬上はしばらく気を失った。


瀬上は、突然、仰向けになった。手足をバタバタさせ始めた。

それから、

「死なせてください。このまま、線路に飛び込ませてください」

と叫んだ。瀬上の体を借りた竜景だった。竜景は電車に飛び込もうとしたところを駅員に取り押さえられたのだった。


宗田功佐久が驚いた。

「これだ! これが竜景の最期だ」

水越賀矢は、笹脇教子に支えられながらホームの上の瀬上を見た。


瀬上の体を借りて竜景は演じ続けた。

「みんな、手を離してください。俺を死なせてください。俺は、本当は父を嫌っているわけではないんです。ただ、父は変わりました。父は社会的に大きな成功を手に入れました。その結果、父は金と力を手に入れました。この時から父は変わりました。信頼できる人がいなくなりました。猜疑心が強くなりました。そして、孤独になりました。大きな組織を作り上げた結果、皮肉にも、父は独りになりました。父が信頼できるのは母と俺だけです。だから、どうしても、俺に後継者になれと言います。でも、俺は嫌です。常に疑いの目で人を見て、喜びを他人と共有できない人生に何の意味がありますか? 傷ついた人を見殺しにして、自分だけ生き残るなんて嫌だ。傷ついた人は助けたい。みんなで一緒に幸せになりたい。そんな風に幸せなれたら、きっとお金なんていらないはずです」

竜景は不良青年の振りをしているだけだった。彼を押さえつけていた人たちは、彼の純粋で優しい心に触れ、つい彼を押さえつけている力を抜いてしまった。


その瞬間だった。

竜景は皆の手を振り払い、ちょうど在来線のホームに入ってきた次の電車に飛び込んだ。電車は減速していた。しかし、電車の先頭部分に頭を強くぶつけた。左側頭部の頭蓋骨骨折と脳挫傷により、彼は、即死した。左のこめかみの辺りから、かなりの出血があった。

最期の言葉は、

「父さん。昔の父さんに戻ってください!」

だった。


瀬上芯次は気がついた。ホームの上にうつ伏せになっていた。彼は気を失っていたから分からなかったが、竜景が、電車に飛び込み自殺をしたところを演じたのだった。彼はゆっくり立ち上がると、階段を降りた。彼の父が、「何か独りで喋り続けていたが、大丈夫だったか? 無事で良かった」と言った。気を失っていた瀬上は知らないが、竜景が再現した、『最期の瞬間』は、かなり壮絶だった。さすがの瀬上の両親も彼を心配した。


青沢と杉原は驚いた。竜景の『最期の瞬間』の後半と、数カ月前、瀬上が車道に飛び込もうとして止められた場面が酷似していたからだ。


竜景も瀬上も手足をバタバタさせながら叫んだ。

宗田竜景は、「死なせてください。このまま、線路に飛び込ませてください」と叫んだ。

瀬上芯次は、「死なせてください。このまま、道に飛び込ませてください」と叫んだ。

違いは、「線路と道」しかなかった。


これも、デジャヴ的な現象ではないのか。だとすれば、竜景、杉原、瀬上とデジャヴ的な現象は繋がっている。では、水越賀矢の「既視感」との関係は? 青沢はしばらく考えて気づいた。時系列的に繋がるという概念は竜景には通じないのだ。何故なら、彼の世界には時間軸はないはずだからだ。水越賀矢、そして、自分も含めて、全員が宗田竜景に一斉に呼ばれたと捉えるべきだ。水越賀矢の既視感は、彼女の人生観そのものだ。変わらない日常への倦怠と苛立ち。だが、竜景にはそのことは関係なかった。大事なことは、彼は彼女の力が借りたかった。この意見交換会を実現させた大きな力を。だから、二年前、人が赤く燃えて見える現象を彼女に見せた。何のために? 竜景が父と話をしたかったから。理由はそれだけだ。それだけで十分だ。二十一歳で命を絶った彼が、長い年月、これもあれも父に話しておけば良かったと後悔し続けてきたことは想像に難くない。そして、彼は自ら命を絶ったことを後悔し続けてきた。でも、私たちは、そのことで彼を責めてはいけない。当時、彼はそうするしかない状況に追い込まれていたのだから。


宗田功佐久の声がした。

「竜景は最後にああ言い残して自ら命を断ちました。これで『最期の瞬間』が完結しました。でも、疑問が残ります。あなたは前半を知っていたのに、何故、後半を知らなかったのかです?」

水越賀矢は言った。

「さあ、私にも分かりません。神が後半のメッセージを伝え忘れたのでしょうか?」

「途中で神からのメッセージを受け取るのをやめたのでは?」

宗田の質問に彼女は答え難そうに答えた。

「そうです。神は私に宗田さんを救えと言いました。でも、私は拒否しました。そうすることは、あなたの心をもっと深く傷つけることにしかならない。だから、途中で拒否した。それで半分しか知らなかったんです」

宗田功佐久は頷いた。

「そうだと思いました。あなたは、そういう優しさを持った人です。でも、そのあなたが、何故、二年も経った、今、私の心の傷を曝露したのか? 教えてください」

水越賀矢は身構えた。

壇上の人々も、また二人が衝突するのかと恐れた。

宗田は笑顔になった。皆の緊張を緩めるためだった。

「今の青年を見て気づきました。あれは演技じゃない。竜景が憑依していました。あなたは神がかりです。神様が憑依している人です。それほどのあなたに、何故、竜景は憑依しなかったんでしょうか? 神様が竜景の霊が憑依するのを拒否したんですか? そんなはずはない。神様が苦しむ魂を助けないはずがない。あなたの演技は上手かった。でも、あなたは自分で演じました。神様でもなく、竜景でもなく、水越賀矢自身が演じました。その証拠に、当時、私が言っていない言葉が多くセリフとして加えられていました。憑依した状態で、そんなセリフは言わないはずです。あなたは、常に水越賀矢なのですか?」

宗田の質問に彼女ははっとした。

「宗田さん。何が言いたいのですか?」

「今のあなたは神がかりではない。彼を見て気づきました。今のあなたは、常に人間水越賀矢なのです」

彼女は、車椅子に乗せられて現れた宗田を見て油断した自分を悔いた。

「あなたは実証実験をしました。今、その実験に関して疑義が生じています。水越賀矢さん。あなたには説明責任があります」

負けたと彼女は思った。敗因の多くは自己過信、そんな気がした。でも、彼女はその事実を認めることに抗った。

「宗田さん。あなただって説明しなければならないことがある。金が世の中で一番大事、負け犬の墓場。先ほどの会場からの問い。竜景さんのことを愛していたのですか? 聞こえていたからには答えなければならない!」

宗田は答えた。

「私は竜景を負け犬だなんて思っていませんでした。竜景は、たった一人の愛する我が子でした。W駅は竜景が命を落とした場所です。だから、妻も私も、竜景の墓だと思っていました。今もそう思っています。竜景が自殺する直前、金が世の中で一番大事だと言いました。本当にそう思っていました。その父親に命と引き換えに、昔の父さんに戻ってくれと竜景は言いました。私は、その時、目が覚めました。昔の自分に戻ろうと思いました。でも、無理でした。それには、会社が大きくなりすぎていました。会社が倒産しないようにするには、拡大していくしかありません。もちろん、違うやり方もあります。しかし、拡大路線を取った私の会社は儲けること、そして、大きくすることしか、生き残る道はありませんでした。社員を路頭に迷わせないためとはいえ、私は、死んだ竜景を裏切り続けました。W駅の奇怪な現象は、全て竜景の私への怒りだったのです」


青沢は、水越賀矢の問いに自ら進んで答えている宗田を見て気づいた。彼は誤解を解きたいと必死で答えているのだ。そこで、青沢からも質問した。

「十一年前にW駅の改修工事に寄附をしようとした私に宗田さんは怒りました。そして、先ほどの手紙を私は受け取りましたが?」

「先ほどもお話しした通り、W駅は竜景の墓です。誰にも触れられずに、そっとしておいて欲しいと思っていたのです。先生なら、告解により、そのことを分かってくれていると思っていました。入信した時にも、先生に私は話しました。私の終わりのない後悔を救ってくれるのは、先生の行き場のない説教だけです。救いのない人間には救いのない宗教しかないと。それほど信頼していただけに、ついあんな感情的な手紙を……」

宗田はそこまで答えて、言葉に詰まった。

「私が軽率でした。宗田さんの深い悲しみを知っていたはずなのに。本当に申し訳ありませんでした」

青沢は宗田に謝罪した。それによって、会場の人々は、宗田のことを、長男を自殺で失った憐れな父親として捉えた。同情が彼に集まった。


水越賀矢はマズいと思った。

「私は酒乱の父とその父に忍従するだけの母の元で育ちました。貧乏のどん底です。私は父を憎みました。そして、母も憎みました。私は、私を蔑む世の中を憎みました。私はその憎しみを力に変えて生きてきました。生き残るためには、そうするしかありませんでした。昨年、母が死にました。父は既に他界していました。私は母が死んだ時、両親の影から解き放たれました。憎悪を力に変えることから解き放たれました。しかし、同時に、私は力の源を失い、神も私を見捨てました。神は何故、私を見捨てたのでしょうか? 私は幸せになってはいけないということでしょうか? 私は生涯、人を憎しみ続けろと神は言うのでしょうか? 皆さん。どうか教えてください!」

彼女の話は同情すべきものだった。しかし、宗田の話の後では、彼女の話はどこか軽い感じがした。会場の人々は、作り話のようにすら感じていた。


ジョニー無界が水越賀矢に近づいてきた。

「店長。もうゲームオーバーだ。帰ろうぜ。あんたは、たった一人でここまでやった。凄いぜ。良い悪いなんて関係ない。俺はいつでもあんたの味方だ」

そして、右目でウインクした。不器用だが、愛情の伝わるウインクだった。

「オーケー。ジョニー。ただ、この勝負はあなたに預ける。私は負けたわけじゃない。これでいい?」

彼女は言った。真っ白だったパーカーが汚れていた。

「ああ。いいぜ。負けず嫌いは、あんたの一番の長所だ」

ジョニー無界の言葉に彼女は微笑んだ。もしかしたら、それは苦笑いだったかもしれない。



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