笛の音はもう響かない
白川津 中々
■
買い物の帰り、いつも笛の音が聴こえてくる場所があった。
音はアパートの一室から流れており、毎日違う曲を奏でていた。ジジババの趣味かなぁというぐらいな気持ちでいつも通り過ぎ、部屋で昼食を取るのが常だったが、ある日を境に、急に笛の音が聴こえなくなる。
どうしたのだろうと思い買い物帰りを歩いていると、アパートの前に中年の女が立っていて竹ぼうきで掃除をしていた。普段なら気にせず、挨拶もせず通り過ぎるところなのだが、その日俺は、いつもとは違う行動を取った。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが……」
「はぁ……」
見ず知らずの男からいきなり「尋ねたい事がある」と言われたら警戒もするだろう。女は少し強張り、まじまじと俺を見たが、気にしないようにした。
「すみません。この辺りって、いつも笛の音が聴こえますよね」
「え? あ、はい。あぁすみません、迷惑でしたか?」
「あ、いや、迷惑って事はないんですが、急に聴こえなくなったものなので……」
「……」
「?」
女は一瞬黙った後に自分がアパートの大家だと明かし、あの笛を吹いていたのは精神疾患を持った人間だったという事を教えてくれた。
「先日ねぇ。家族の方とトラブルになっちゃって、それで、入院ですって。お部屋には戻らないらしいですよ」
「……そうですか」
「そうなんですよ。それでぇ……」
大家はその後も色々話してくれたが、興味がなかったので全て忘れてしまった。ただ、あの笛の音がもう聴こえない事実だけが、強烈に胸を締め付け、離さないのだった。感じなくてもいい罪悪感が生じ、後味の悪さだけが胸に残った。俺には関係ないはずなのに、顔も名前も知らない奏者に対する不思議な申し訳なさと、世間様への負い目に駆られ、いたたまれなくなった。
俺は今でもあの道を通っている。
笛の音は、二度と響く事はない。
笛の音はもう響かない 白川津 中々 @taka1212384
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます