2.学園メンズ
2.司と悠花
全くそんなものには、興味なかった。
視界にも入っていなかった、そんなものがあることなど。
ただ、通り過ぎる一瞬、強烈すぎるほどの存在感を放つそれに思わず足を止め、そして魅入られた。
「……」
司は、目の前の壁に貼られた一枚の作品を微動だにせず見つめていた。
放課後の始まり、これから始まる部活や、帰宅に急ぐ者達。
授業から解放された浮足立つ雰囲気の中で、足を止めた司に注意を払うものはいない。
飾られていたのは職員室の前だった。この学校には書道部というものがない、いや以前はあったらしいが部員がおらず、自然消滅をしていたと記憶している。
だが、その作品はただの生徒が選択授業で単位のために書いたにしては、あまりにも出来上がりすぎている。
そして、それは敷いてある紫色の縁と横に貼られた造花、賞の名前がついていることからも、推測できた。
「
手を伸ばし、触れそうな距離で伸ばした人指し指と中指を止めた。
不屈な精神で修業に従事するという言葉は嫌いではないが、一種禁欲的な強制は好みではない。
その言葉自体はよく聞くありふれたつまらないものだが、こうも墨というものが瑞々しく残るものなのか。紫紺が白い半紙に鮮やかに映える。
そして、楷書で書かれた文字は荒々しい言葉とは裏腹に受ける印象は、静かな闘志。
凛とした佇まいを見せる文字に、こうも書き方次第で与える印象が違うのかと思い知った。
「瑞葵…か」
隅に添えられた名を、鮮やかに目に焼き付けた。
最初の印象は、特に目立たない子、だった。教室入り口にたむろっていたバスケ部の一人を捕まえて尋ねれば、すぐに本人……葵悠花を指で差して教えてくれた。
(ふうん…小さい)
まだ中一というのもあり、これからが成長期。だが、教室の前の方の席、窓際に座り本を読む彼女はその中でも小柄と言えた。ただ。
(姿勢がいい…)
ぴんと伸ばされた背筋は無理に伸ばしているのではなく、凛としたあの文字を思い出させる。あとで、それは幼少時から習わされている芸事のたまものだと聞いたのだが、その時は教室の中に埋もれていながら、自分の輝きを持つ原石を見たと思った。
葵家の名は知っていた。橘樹家と同じ名家ではあるが、彼女は病弱で表舞台に出てきたことはない。中学になってから書家として作品だけを出すようにはなっていたが、本人を目にしたのは初めてだった。
「葵さん」
声をかけると、不思議そうな顔が司を見上げた。
作品を見たと告げると、彼女は照れるわけでも、嬉しそうにするわけでもなく、ただ「そう」と口だけが動いた。
あの作品は、その後剣道部に貰われていった。
もともと剣道部顧問である教頭に請われて書いたものだと聞いて、胸が嫌な感覚に騒いだ。
宝物を、価値あるダイヤの原石を……自分のものを攫われたような、苛立たしさ。価値のわからない奴に、くれてやってどうするのだと。
「あの言葉って葵さんの?」
「どうして?」
尋ねる悠花に、薄く笑う。わかっているんじゃないか、と。
そんな司の顔を見て、初めて悠花は感情を顔に浮かべた。
驚きとそれから、気まずそうな顔。ようやく人形ではなく、人を見た気がした。
「……頼まれたから。でも、手は抜いていないよ」
「だろうね」
悠花が眉を寄せる。何が言いたいの、と口に出さなくても訴えている。
そんな表情豊かな悠花に面白いと思った。
「書いてほしい言葉があるんだ」
「……え?」
「常勝」
「――書かないよ」
司の言葉を、不自然なくらい早い言葉が遮った。
「ごめんね、書かない」
悠花はそう言って、立ち上がり司に背を向けた。
司は何かを言いかけて、けれど口を閉ざした。小さな背中を見つめる。細い骨格、サイズが合っていない大きめのブレザーの背中、背の低い自分もまだどちらかと言えば子供の部類に入るだろう。
それでも、彼女はしっかりと意思を持った精神を持ち他人に容易に流されない。
司は、口元をゆがめて、小さく笑った。
人形何ていらない、屈しない精神、それを手にし、動かすことこそ本意だ。「面白い」と呟いた。
それから、1か月後のことだった。
隣のクラスとの合同レクリエーション。前回の話し合いで、バスケか視聴覚教室で映画鑑賞かを選んでいいことになっていた。
司はクラスの男子たちのバスケの誘いを手を軽く振って断り、悠花の友人と思われる女子の所に足を向けた。
「ちょっといい? 葵さんは」
司の姿に、女の子たちは顔を上げてそれからわずかに間を置く。頬が赤くなり、そして口調が上ずる。
鳳凰バスケ部レギュラー、それはこの校内でもっともヒエラルキーの上部に位置する。それを一年で手に入れた司は、男女ともに一目置かれる存在でありながらも
小柄な体格と柔らかい態度で、特に女生徒から人気があった。
「悠花は、書道室です」
「何かの大会が近いみたいで……こもりきりになるって」
「そうなんだ。ありがとう」
司が微笑めば、彼女たちの顔がますます上気する。
笑うその顔は、のちにバスケ会全体の恐怖の的となるのだが、まだそれは知られていない。
教室の中では、カーテンの空いた隙間から差し込む光に埃が踊り、きらきらと瞬いていた。
悠花は教室の中央にいた。机を動かし床に自分のスペースを作り靴を脱いでる。跪いて膝で体を支え、自分の背丈ほどもある紙に向かい、背筋を伸ばして筆を構えていた。
目の前には、見事な達筆で黒々とした文字が躍っていた。
「見事だね」
「…?」
「
「…私は」
「
悠花が口を閉ざす。怪訝そうな顔に笑う。以前の会話を覚えているのか、ちらりと警戒がその顔に見え隠れしている。
「僕も隣で書いていい?」
「…どうぞ。…墨も、紙も、下敷きもそっちにあるよ」
書道部は廃部となったが、私立の学校らしく書道室はあり一年は書道を選択すると授業をそこで受ける。司はそちらには向かわず、悠花の前に片膝を立てて座る。
「何?」
「この間の。他の言葉ならどうだった?」
司はとん、と悠花の目の前に指をついた。悠花は、少し間を空けて、それから司をまっすぐな視線で見上げた。
(まただ)
この視線だ、物怖じしない、凛とした文字を彷彿させる眼差し。負けない視線…。ぞくり、とした。
本能的に悟る、この相手は負けをよしとしないと。それは自分と同類だが、それを屈服させるより手に入れたいと願う気持ちのほうが強いのは初めてだった。
「常勝、って。司君の決意?」
「いや。当然の帰結だ。誓いではなく絶対の理」
悠花は息を吐く、そして視線を落とす。自分の作品へと。
「決まっていることなら、つまらないよ」
「何?」
「絶対勝つと分かっている勝負何て、面白くない」
だから書かない。そんな言葉、面白くないもん。そう悠花は呟いた。
司は、ふうん、と返事ともつかないものを返して、悠花の横に下敷きと半紙をならべる。そして彼女が磨った墨を拝借して、筆に含ませる。
悠花の視線を感じてはいたが、それに答えることはなかった。
己で書いた”常勝”と書かれたその文字は、初めてにしては悪くない。
自分でもなかなかの出来栄えだと思い、満悦していると悠花が見下ろしていた。
「司君は、バスケ部なんだよね? バスケ部の目標?」
「違う。僕の持論だ」
「一年なのに?」
悠花は、わずかに困ったように首を傾げる。それに司は補足してやる。
「いずれ掌握する。僕のチームを作る、最強の」
「……」
悠花は、眉を寄せて「それは願いだね」と呟いた。
そして、半紙をセットした。
『優勝劣敗』の文字が、紫紺の墨で鮮やかに描かれる。同じ墨を使ったのに色つやが違う。それに驚かされた。力の込め方、墨の含ませ方、しならせ方でこうも違うのか。そして当たり前だが文字も違う。満悦した自分の字は遊戯に等しいと思い知る。
「橘樹くんの願いはこう。でも試合はそううまくいくかな?」
強者は勝つ、弱者は負ける、その理は変わらないと司は信じている。けれど、試合は本当にそううまくいくのかと悠花は問いかける。
司は瞠目する。悠花の挑戦的な眼差しは、揺るがない。
漆黒は、勝気が煌めき、まるで黒曜石のようだと思った。浮かべる笑み、柔らかな輪郭を描く頬は人形のような無垢さを表すのに、内に秘めた強さは、流れに身を任せしなやかに上へと上り詰める龍だ。
「君は、僕と同じだ」
「?」
「負けることをよしとしない。君が男だったら、間違いなくバスケ部に誘っていたよ」
悠花は驚いた顔で、司を見つめ返す。最初の警戒はどうしたのか、戸惑いとそれから緊張が悠花を襲ったのか不意に顔が赤くなる。唐突に狼狽える様子に、司も内心驚いた。
「でも、私は男の子じゃないよ、それにバスケできないし」
「そうだな」
「……?」
司は立ち上がった。悠花が展開に迷うかのように、司の次の行動を待つかのよう。
(なるほど……)
バスケ部、そのワードに何かがある。接点も何もないと思っていたけれど、悠花の中にある何かがバスケを意識している。それを読み、司はようやく余裕を取り戻す。
そう、余裕がなかったのだ、この自分が。
心を満たす高揚感は、場を掌握できた勝利か、はたまたこの存在を知った奇蹟か。悠花のその不思議そうな顔を満足げに見下ろした。
「君が、女でよかったよ。悠花」
――男だったら、潰していたかもしれない。
その目、負けず嫌いの精神はひねりつぶしたくなるほど。仲間になったとしても、いずれは脅威となっただろう。
けれど、それが悠花だというだけで、こうも感情が正反対に動くものなのかと笑みがこみ上げる。こういう感情を教えてくれたことに、君に感謝するよ。
司は、そして半紙の端をとんと指で叩いた。
「名を」
「……バスケ部に貼るの?」
それは嫌だよ、と悠花が言う。
司は笑った。口先だけではなく、本気の心からの笑みがこみ上げた。
「まさか。僕のものにするんだよ」
部屋に飾らせてもらう、欲しいんだ、とそう強請る。
悠花は、なんとなく納得ができない顔で、けれど頷いて結局は細い筆を取る。
本当に君が女でよかったよ。そうじゃなきゃ、自分は少々困っていたかもしれない。
性別が違うだけで、潰したいものが、欲しいものに変わるなんて。
長い勝負になるかもしれないな、と胸中で呟いて。
けれど、それを確実に捕ることを誓う。それは、絶対なのだから。
お姫様の学園生活~婚約破棄への第一歩~ 高瀬さくら @cache-cache
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