1-④ 眼鏡スーツとイケメンチャラ男
迎えの車のドアを開けてもらう前に乗り込む。いつも通り無言の空間、車が青山通りを走っている時に野宮が切り出した。
「学生の時分は好きになさってもいいですよ」
「え……」
最初は何を言っているのかわからなかった。すぐに意味が浸透して、顔が怒りで熱くなる。そこまで伝わっているのか。学生でもない彼にどうしてわかってしまうのか。
それより、なぜ彼がそこまで口出ししてくるのか!
「……あなたには、関係ない!」
「関係あります。ですから学生の時はご自由にと」
無性にここから降りたくなる。歩道の左右にならぶイタリアの香水店、フランスの宝飾店、東京メトロの駅、けれどあそこまで飛び出すには無性に遠い。
「ですが、卒業したら俺に従ってもらいます」
「降ります」
勢いに任せて車が停車したと同時にドアを開ける。縁石を乗り越え歩道に足をだす。東京メトロの表参道の駅表示をめがけて歩もうとした時、運転席から彼が手を伸ばす。
「待ちなさい」
「離して」
「俺が――会長の後釜だけを狙って婚約を承諾したと思いますか?」
「……」
眼鏡の奥から覗く視線は、悠花を射抜いている。昔、小学生だった頃を思い出す。あの頃は、ずっと後を追いかけていた。
ラフなシャツとジーンズで悠花に習字を教えてくれたのはどのくらい前だろう。今はそんな姿は見ない。どんな時でも、スリーピースのオーダーメイドのスーツを着こなしている。
「あれえ。
暢気な女性の声に二人は振り向いた。野宮はわずかに不快そうに眉をひそめた後、すぐに笑顔を浮かべた。
鮫柄の江戸小紋を装った中年の女性は二人の微妙な言い争いに気づいた様子もなく話しかけてくる。
「――先生の個展、初日に伺いますわ」
「――ありがとうございます、花岡さんの目に留めていただいて光栄ですよ」
「瑞葵さんも先生の一番弟子ですし。立派になられて。先生も鼻が高いでしょう」
「私の口からは何も言うことはありませんよ」
進んでいく会話。背を向けてしまえばいいのに。自分はこうやって中途半端な態度をいつもしてしまう。
「瑞葵さんは?」
「……まだまだ研鑽、いたします」
華やかな笑みを浮かべた野宮――瑞祥。彼は、若くしてこの世界に名を馳せた天才だ。悠花は気がつけば彼を追いかけ、師と仰いでいた。師匠というよりも、身近な兄だった。
けれどいつの間にか、父の片腕であり瓜二つの言葉を吐く、嫌みな婚約者になっていた。悠花は深々と顧客である花岡に同じように頭を下げかけて思い出す。
――言葉が武器になるのであれば。
「――わかっているのは目指す高みは際限がないこと。それぞれ道は異なり、これからも寄り添うことも重なることはないでしょう」
瑞祥の顔は見なかった。離れた腕はあるべきところに戻る。
花岡に深々と頭を下げ、車のドアを閉めた。
人生で彼に沿うことはない、と堂々と告げた。敵わなくても、闘っていく。己の中に龍がいるのならば吼え続ける。
――ティップオフは、これから。
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