1-③ 眼鏡スーツとイケメンチャラ男
「姫―!!」
強豪バスケ部のエースの彼に足で敵うわけがない。
「その呼び方はやめて!」
悠花は後ろをむいて叫び返した。風が強くてスカートが翻る、裾を前で押さえれば、不意に後ろがめくれてしまう。慌てて後ろを押さえればまた前がめくれる。
「あ、白!」
「言わなくていいから!!」
あわてて叫び返せば、彼が笑っている。ラッキーと言われて悠花は顔を赤くした。
「綺麗な足だから隠さなくても」
「なんなの!?」
「いや、結構足が太い子って多いけど。姫は綺麗だから大丈夫だって」
「だからなんなの!?」
「デートして欲しいなって」
「しませんっ」
(ほんとうに、なんなの!?)
話が通じない、話に脈絡がない。会話が成り立っていない気がするのに、彼は楽しそう。
「――とりあえず、場所変えない?」
別に逃げればよかったけれど、蓮を睨んだまま悠花は周りを見渡し、周囲の視線を感じて、それから頷いた。
決着をつけなければいけない、いつかは話を聞かなきゃいけないし、その呼び方をやめてと言わなくてはいけなかったから。
――示された園芸部の温室の中は、二人きりになってしまうけど風が防げる、という利点もあった。
二人で日の当たるベンチに座る、なんとなく一人分をあけて座ると蓮はその警戒を見透かしたように笑う。
「――ところで。あの文字、姫が書いたの?」
問われたのは体育館に飾ってある揮毫のことで、虚をつかれや悠花は目を瞬いた。そこ?と思った。
「――うん」
「あーいうとこに飾られるってすごいじゃん」
「……ていうよりも、バスケ部のスタメンになるほうがすごいと思うけど」
強豪バスケ部のレギュラーになれる方がすごい。そう言えば呆れられる。
「いや、個展して作品売れてて有名じゃん。なんつーか、所詮俺らは学生の範疇。稼いでるでしょ。いや……えーとお金は困ってないかもしんないけど」
「生活費は全部親に出してもらっているもの、私自身の力じゃない。稼いでも私のものじゃないし、いくらかもしらない。私は、所詮学生だよ」
所詮学生、に重ねる。嫌がっていても、自分では何もできない。反発していても何もできていない。作品を描くのも、生活するのも親があってのこと。
描くことは親に唯一認められている手習いだ。自分の爪や指の皺に染み込んだ墨を見下ろす。卒業したらやめさせられる。
「あれ、えーと、『凡事徹底?』いつもみてるけど、当たり前のことを徹底してやれってことでしょ? 追随を許すなって、学長が好きそーな言葉だよね、先生からの指示?」
「――ううん、私が選んだ」
そんなことを聞かれたのは初めてだ。一体どうして?
その言葉だけで納得いかなかったのか蓮はだまる。それと共に誤解を解きたくて悠花は続けてしまう。
「“当たり前のことを”じゃないよ」
先生にとっての当たり前は、生徒にとって当たり前じゃない。大人から見た子どもへの当たり前は、既にその道を通りすぎたくせに忘れた過剰な期待だ。
「そんなことをできなくなった大人に言われたくない。“努力をすることを当たり前にしろ、徹底的に”っていう鼓舞」
努力したって大半は届かない。でも努力をしなきゃ何もすすまない。
「なんか、厳しいね。――姫は」
黙り込む。それは一歩引かれたみたいな言葉。
「お願いがあるの。――姫って呼ぶのはやめて」
「なんで?」
一部の人が揶揄して呼んでいるから。
「そんなのじゃないから」
「そんなのって?」
「……馬鹿にしてる、でしょ」
「してないけど。じゃ、なんてよべばいい?」
言葉に詰まる。葵さん、とか? 勝手にそちらで決めてほしい、そう言えば任せている図々しい人みたい。
「俺のこと、チャラいっていう奴もいるけど。俺は気にしてないけどなー」
それに悠花は言葉を呑んだ。それは明らかに悪口だけど、どう答えればいいんだろ。
「こうしようか。姫って呼ぶ奴は、姫のこと知らない奴だから。だから俺は姫を知った上でどう呼べばいいか考える」
「それって――」
既に姫、姫って呼んでいるのに? それに友達になるってこと? 言葉に詰まっていると蓮はさらりと話を進めていく。
「それじゃもう一つ。あの額に入っていた、サインってなに?」
「え?」
「下の方に小さくあったじゃん? 読み方がわからなくて」
雅号だ。確かにサインといえばそう。
「――“
「先生?」
ああ、と彼は頷いた。それは師事した先生に認められたということ。本来は誇らしいことなのに、まだまだ届いていない。もどかしく、未熟さを思い知らされる。特に最近は、私情も入って更に複雑な感情が混ざっている。
「おししょーさまってこと?」
「そう。先生は弟子に“瑞”の字を入れるの」
「へえーー。いいね、そういうのスポーツにはないからな」
「憧れの番号貰うとかあるでしょ」
少しバスケを見ていたから知ってる。番号に意味はある場合もあるけれど、必ずしもそうじゃない。
「俺、憧れの選手とかいなかったんだよね。」
それも珍しい。思わずきいてしまう。
「なんで。――なんで、バスケを選んだの?」
彼に興味を持ってなかった。お互いを知り合うつもりはなかったのに、聞いてしまった。彼は破顔した。条件を出したことを忘れて、ただ純粋に尋ねられて嬉しいように。
「俺、何でもできたから。でもこの学校じゃかなわない奴がいっぱいて。司とかさ、抜いてみたいじゃん」
あっさりと言われて驚いた。悠々とした声で楽しそうで。
でも拳は白くなるほどぎゅっと握りしめ、力が入っている。敵わない相手に持つ羨望、そして悔しさ。
「バスケはチームプレーじゃないの?」
「いんや、トップ争いっしょ」
「MVPとか?」
「うーん。そういうのとは違うかな。他人にトップを決められるとかじゃなくて、抜きたい相手がいる、そんだけ」
悠花は蓮の目をみた。フランス人の祖母を持つという蓮は、虹彩が明るい茶色で、色彩が淡い。少し日本人離れしている。
「誰も追いつけない、目指すのは最も高い場所」
――この人、言われてるような評価とは違う。――チャラくない。
「姫は、なんで書道やってんの?」
姫呼ばわりはやめて、そう言いかけてもうあきらめて答える。
やっていた人が身近にいたから。その人をいつも追いかけて、教えてくれたから。父親がそれくらいならばと許してくれたから。でも、それだけじゃない。
「線が」
「ん?」
「一度筆をおいて。線を引き始めたら、終われないから。最後まで書かないとその文字はバラバラになってしまうから」
最後の一線、それを描いてようやくそれは終わる。その一線で束ねられる。崩れて分解しそうで怖い。悠花に引かれるのを待っている。だから急かされる。急かされるけれど、焦らない。
心を静にして、どこに筆を置くべきか考えて、描く。悠花がこたえると蓮は楽しそうに笑った。
「俺。やっぱ姫が好きだなー」
「なんで!」
悠花はベンチから立ちあがり、憤慨して蓮を見下ろした。楽し気で真面目な要素は全くない。軽々しくそんなことを言えてしまう。やっぱりチャラいのかもしれない。
なぜ悠花を気に入ったのかわからないけれど、まともに取り合ったら馬鹿を見る。
「もう行くから!」
もうすぐ野宮が迎えに来る。二人きりの空間は嫌だけれど、悠花が逆らって何ができるだろう。父親に彼が嫌だと言っても、何も変わらない。
彼は父親の秘書で後継者だ。悠花は父親には何の意味もない存在。ただの未成年ですべて親に賄ってもらっている存在。
(そうか、私は野宮さんにそれを毎回見せつけられているんだ)
言葉で、態度で。
何一つ自分のことができない。そう彼を通して父親の言葉を伝えられているみたい。
――蓮は引き留めなかった。背を向けて温室を出ようとした悠花に彼は通る声で追いかけた。
「ねえ。あの車の男。姫の婚約者?」
「なんで!?」
勢いよく振り返り反応する。それですべてが伝わってしまった。
「この学校けっこう金持ち多いから。たまあに、婚約者いるって生徒いるじゃん」
自分はスポーツ推薦だから貧乏だけど、って蓮は付け加えた。
「それにアイツが――迎えに出た時、姫なんつーか。身をよじって避けてたから」
絶句した。そんなとこまで見ていたのか、いいやわかっていたのか。
「バスケやってると、ていうか。スポーツやってると相手のこと見過ぎるようになるんだよね。サインとか、怪我とか、おかしいとこ。俺そういうの得意で」
「……」
立ち尽くすしかない。
「ま。もう少し、姫は気楽になっていいんじゃないの?」
「……なにそれ」
「字。見た時叫んでるみたいッて思った。抜け出したいって」
今度こそ悠花は絶句した。アレは感情がのってしまったもの。時々あるその癖は、師に注意されていた。でも、ただの一般人に指摘されるなんて思わなかった。
「嫌なことは逃げてもいいし、この先長いから、その道しかないって考えなくてもいいんじゃない?」
「……私、帰る」
悠花は呟いて、ふらりと蓮から離れた。今の指摘をもう一度考えなきゃいけない。これまで描いたものを見直さなきゃ。欠点を痛い程指摘された。すべてを否定されたような感じだった。
その腕を蓮が掴んだ。
「でもスゴイって思った」
「……え」
「ああ云うの俺はわかんないから。でもカッコいいって思った。龍が吼えてる感じ」
蓮は背が高い。悠花は身長がたった百五十センチだ。バスケ部のみんなは背が高いから、まるで子どもで、腕を掴まれると少しつま先が浮いてしまう。悠花は彼を爪先立って見上げて、彼は屈んでいる。その距離感が変。
「姫の武器は、言葉じゃないの?」
「武器……」
「闘ってるじゃん。字で、言葉で」
書に感情を乗せてはいけない。そう思ってたのに。でも感情が乗ってないものは何も訴えてこない。
「――そういえば、俺のこと”蓮”って呼んでいいよ」
唐突な話題転換に頭がついていかない。何それ。いいよって。
呼ぶ気はないし。書のことを否定されたかと思ったのに。これで彼との会話は終わりだと思ったのに。
「呼ばないよ、大滝君」
かすれた声で言い返せば、すかさず返ってくる言葉。
「だって司は名前呼びじゃん?」
近い顔は若干拗ねているようだった。確かに司は名前で呼んでいるけど、長い付き合いだからだ。それだって散々言い聞かされて根負けしたから。
本当は、女子に人気のバスケ部のメンバーを名前で呼びたくない。女子に恨まれるから。
でも『悠花はそんな小さなことを気にするんだ』、と司に呆れたように言われて、それが悔しくて諦めた。
この上、彼まで名前で呼んだらどうなるか。
「これで話は終わり、でしょ」
からかわないで、よくわからないけど言いたいことは終わりで、興味はもうないでしょと。腕を振り払えば、あっさりと外れる。
「――“姫”と“悠花”とどちらがいい? 呼ばれるの」
彼に背を向け、温室の入口のビニールをあげて悠花は固まった。
「あ、もちろん。悠花って呼び捨てね。俺はそっちでもいいかも」
「どっちもいや!」
悠花は急いでビニールをくぐった。顔が赤いのは熱気のこもった温室だったから、そうじゃなきゃからかわれたことを認めてしまうようで嫌だった。
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