天使パラダイス

Cessna

天使パラダイス

 ――――変態だ。


 私は即座にそう思った。

 光よりも速く、まだこの地球上で発見されていない未知の物質が私の脳内にしきりに囁きかけていた。

 目を逸らして逃げろ。今、すぐにだ。

 だが、私はその声に逆らって、アパートのベランダに直立する変態を凝視し続けた。


「僕は天使です」


 変態は正面約3メートルの距離から、私を真っ直ぐに見据えて、にこやかに続けた。


「僕は第50013天使のアブニャエル。君を迎えに来たんだよ」


 変態天使は、裸体にパンツと靴下だけを身に付けていた。

 パンツと靴下の詳細な記述は省こう。ブリーフとくるぶし丈とだけ述べる。

 私は彼が紛れもなくただのオッサンであり、単なる露出狂の類だとすでに判断を下していた。

 私は彼の股間に視線を落とした。

 なだらかな丘のように隆起したそのブリーフはひどく黄ばんでいて、生理的嫌悪感を覚えた。

 叫ぼうか?

 だが、それはできない選択だった。

 私はもう死んでいたからだ。



 変態天使は締まりのない笑顔を浮かべて、私を見守り続けていた。

 背中の翼は確かに美しかった。いかなる大聖堂に描かれたものよりも、遥かに本物らしく、清らかなオーラが空気中に撒き散らされていた。一目でこの世のものではないとわかった。

 では、あるが。

 私はぜい肉のついた天使の上半身を眺めやって、思いきり眉を顰めた。

 天国では食事の管理がされていないのか? それとも、この変態にとっての天国とは、ジャンクフードとアルコールに包まれたフードコートのことなのか?

 天国とはつまるところ、欲望の国なのか。

 ともあれ私はそのような場所には絶対に行きたくなかったので、こう宣言した。


「来るな、死ね」


 だが、変態は怯まなかった。



 むしろ相手は、私を憐れむように見て語りかけてきた。


「怯えないで。最初はみんなそう言うんだよ」

「怯えてない。ていうか、きめぇんだよ、デブ。消えろ」

「ノン、汚い言葉を使っちゃいけないよ」

「うっぜぇ。大体お前、何で素っ裸なんだよ? せめて靴下を脱げよ。着るか着ないか、どちらかにしろよ」

「この際僕の格好はどうでもいいことさ。それより僕は、君に危機が迫っていることを伝えなくちゃいけないんだ」

「はぁ?」

「君、あと一秒で地獄に落ちるから」



 呆気にとられる間もなく、気付いた時にはもう私は地獄の穴を真っ逆さまに落ちていた。

 ヒュー、というどこか間の抜けた風音が、私の耳に抜けていった。

 私は叫び声を上げ続けていたが、それさえも、底なしの闇にぐんぐん吸い込まれて行くようだった。

 どこまでもどこまでも続く無限の大穴。

 いつまで経っても底に着かないので、私は段々落ち着いてきた。

 そうしてふと横を振り向いてみると、ティンカーベルサイズになった変態が、そこにふんわり浮いていた。


「…………何してんだ?」


 おずおず私が尋ねてみると、変態は春めいた調子で答えた。


「僕は君を救うためにやって来た天使なんだよ」


 変態のゆるんだパンツから何かがはみ出していたけれど、私は無意識にそれが何か理解することを拒否していた。

 天使は事もなげに続けた。


「だから、君を助けることができるんだ。君は天国に行きたいかい?」

「…………」


 私は欲望渦巻く天の国を一瞬思い浮かべて、軽蔑し、最終的には無言で頷いた。

 正直な話、もう一度タバコが吸えるならどこでもよかった。タバコを吸うには地上にいるしかなさそうだったからいただけなのだ。

 変態は嬉しそうに一度大きく両手足を広げて見せると(リスがしたならかわいい動作だったろう)、元気いっぱいに、とんでもないことを言った。


「じゃあ、聖なる僕のパンツを食べるんだ! 靴下でもいい!」


 私は深く落下していった。



 私は靴下を食べた。

 そして天国に行った。

 だが私にはやはりわからない。

 オッサンの靴下を食らって辿り着いた土地が本当に天国なのかどうかという話ではない。

 自分が天国(喫煙分国)に来てからどれくらいの時間が経ったのかもう定かではないのだが、それでも連綿と続く心安らかな日々を過ぎしながら、思うことがあるのだった。

 私は清潔なビーズクッションに埋まり、くゆらせた煙草の煙がさらに天高くまで昇って行くのをぼんやりと眺めつつ、あの黄ばんだブリーフの変態のことを考えていた。

 時間の無駄?

 いいや、ここは天国。時間の使い方にエコもクソもない楽園。百年テレビ見続けていたって誰にも文句を言われないし、オンラインゲームだって、メンテ中以外は昼夜問わずプレイし放題。

 だからこそ、私はしみじみ考えるのだった。

 あの変態はどうして、今も働き続けるのだろう。

 奇怪な恰好のことは最早どうでもよかった。

 ヤツだけではなく、ここにいると、同様の奇行に走るヤツがあまりにも多いことも気になった。

 働いて働いて、無気力人間をどしどし天国へ送って、一体何がしたいのか。

 善意か。

 天使か。

 私は人生で自分以外の者のために一度も働いたことがなかったが、ここへ来て、ちょっと興味が湧いてきていた。


 終

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天使パラダイス Cessna @Cessna

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