銀色の紫煙は、海月のように消えて行く

間川 レイ

第1話

 カチカチ、と。


 手元は暗く、吐く息も白く煙る中、オイルライターの火打石を何度か擦る。シュボッという音と共にとても小さく、頼りなげな炎が立ちのぼる。相変わらず小さな火だ。安物なのが悪いのかな。そんな微かな苛立ちと共に、咥えた煙草の先端を近づけ軽く息を吸いながら火をつける。


 ふわりと口内に広がる香ばしい香り。肺に含むと、煙に含まれるニコチンが血中を駆け巡り、脳裏をチリチリくすぐるような感覚と共に、神経が鋭敏になり、視界が明晰になったような感覚にとらわれる。ささくれだっていた気持ちも落ち着きを取り戻す。


 何度体験しても、この感覚はさながらトリップだよな。そんなことを脳裏を蕩かすような、どことなく酩酊したような、奇妙に落ち着いた気持ちで考える。そう、トリップだ。そんなことをぼんやりと。


 全ての喫煙者がこんな感覚を味わっているのかは知らない。あるいははたまた、たっぷり呑んだアルコールのせいかも知れない。たくさんの酒精と、たくさんのニコチン。その二つの相乗効果が、何かしら脳に悪さをしているのかも知れない、なんて。そんなことを考える。あたかも、うつ病対策の精神安定剤と、たくさんのアルコールを同時に摂取した時、世界の色がほつれ、世界が虹色に輝いて見えるように。


 こんな煙草の吸い方をしていると友達にバレたら、また叱られるかも知れないな、なんて。それこそたっぷりの精神安定剤と、たくさんのアルコールを同時に飲んでいることがバレた時のように。絶対危ないって。脳みそぐちゃぐちゃになって死にたいの?普段温厚な彼女。そんなあの子が珍しく語気を強めて言った言葉だ。


 脳みそがめちゃくちゃになって死ぬのは嫌だな。そう言った私に、だったら二度としないでと言った彼女。この煙草の件がバレたらきっと怒るだろう。そんなドラッグで遊ぶような真似はやめてと言われるかも知れない。


 でも私は、精神安定剤にせよ煙草にせよ、止めるつもりはなかった。虹色に溶けた世界はため息が出そうなほど美しかったし、煙草とアルコールに酔う世界には、生きていていいと思わせる何かがあった。


 何より、そんな遊び方をしていたら死ぬかも知れない。脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回されて、発狂して死ぬかも知れない。そんな想像は恐ろしくもあったけれど、何処となく甘美でもあった。脳みそが破壊されれば、きっと何も感じられなくなる。辛いことも嫌なことも忘れて、酩酊と至福の中で死を迎えることができる。そんな想像は、私にゾクゾクと性感にもにた甘い快感をもたらしてくれた。


 私には、私を傷つける為の武器が必要だった。親からもらった大事な身体、一度しかない大切な人生とやらを、ズタズタに引き裂く為の武器が必要だった。


 私は、幼い頃から親というものが大嫌いだった。父親も、義理の母親も。呪われてしまえと思うぐらい大嫌いだった。


 きっかけ。そんなものはもう覚えていない。保育園で友達と大喧嘩をして、家にまで注意の電話がかかって来た時。電話越しにぺこぺこと頭を下げていた母親が、電話が終わるなり鬼の形相で、家に恥をかかせやがってと引っ叩いてきたからかも知れない。あるいは、小学校の時、60点の算数のテストを持って帰ったら、なんでこんな簡単なテストで満点が取れないと父親にぶん殴られたからかも知れない。


 あるいはそもそも、幼い頃私の産みのお母さんをみすみす癌で死なせておきながら、平然と医者を続け、あまつさえ再婚までした父親に対する怒りかも知れないし、今日から私をママと呼んでねと現れた見知らぬ女に対する憎しみがあったのかも知れない。


 兎に角、私は物心ついた頃から両親が嫌いだった。その両親から生まれた妹のことも嫌いだったけれど、それ以上に両親を憎んでいた。そしてその憎しみに比例するように、両親との仲は悪かった。


 父親が、私の日常生活の態度や成績について、叱責と称して私を殴るのなんて当たり前。殴るに飽き足らず、しばしば暴言を吐いた。この屑、出来損ない、気違い、ゴミ。殴られない日か暴言を吐かれなかった日なんて、1日たりとも記憶にない。いつだって怒鳴られているか殴られているかする毎日だった。


 殴ると言ってもただぺチンとビンタするぐらいではない。趣味で続けているトライアスロンなどで培った筋力を総動員して私を怒りのままに殴るのだ。しばしば弾きとばされたし、息が止まるような勢いで殴られるのはザラだった。いやらしいのは、殴るときは絶対に顔を狙わないこと。跡が残り児童相談所に通報されるのを危惧したのかも知れない。


 その代わり、しばしば私の髪の毛を鷲掴みにして引き摺り回した。私の数少ない自慢できる部分である、黒々として艶やかな髪。それを乱暴に引き摺り回され、プチプチと自慢の髪の毛が千切れる感触が伝わるのは屈辱だった。それが嫌で、ショートカットにせざるを得なかった。


 母親だって碌でもなかった。母親はしばしば私を罵倒した。それも私のコンプレックスを刺激するような、多様な語彙をもって。そこまで頭が悪いのは才能だよねだとか、あんまり家に恥をかかせないでくれる?だとか。特に後者に関してはどの口が家名を語るのかと非常に憤った記憶がある。また、しばしば妹に向かって私の悪口を吹き込んだ。愚痴に見せかけた私の悪口を。お姉ちゃんみたいになったらダメよが母親の口癖だった。私はしばしばトイレに篭って泣いた。家の中で唯一鍵をかけられるのはトイレだけだったから。


 歳が長ずるにつれ、両親とは度々ぶつかるようになった。成績のこと、進路のこと。衝突は容易に激化した。えずくような勢いで殴られたり、真冬の夜に薄着一枚で外に追い出されたり。私の分の料理だけが用意されていなかったことさえある。そんな家が、私の家だった。


 だからこそ家を離れた遠方の大学の合格通知を受け取った時など、これで家を出られると涙が浮かぶぐらい嬉しかったし、本当に実家を離れたときなど二度と家の敷居をまたぐものかと心に誓ったものだった。そして大学を卒業し、はじめて独力で生計を立てられるようになった時は、これからはもう学費を払っているんだから顔を見せにこいだだとか遺産の相続放棄をしろだとか、そんな要求にももう従わなくてもよいのだと思うとようやく自由になれた気がしたものだった。これでやっと、自由になれると。


 そう、思っていたのに。私は煙を月に向かって吹きかける。今朝方届いた1通のLINEが私を悩ませる。年に1、2回しか届かない母親からのLINE。そこには父親が脳出血で倒れたこと、長くはもたなそうなこと、父親が私に会いたがっていることが書かれていた。最後に一目会いたいと。


 確かに父親に死んでしまえと思った事はある。私を甚ぶった分、同じような痛みと苦しみを味わいながら死んでいけと。とことんまで苦しみ抜いて死んでいけとさえ思ったこともある。何なら殺してやろうかと思ったことさえも。私が父親に殺される、その前に。在らん限りの苦痛と苦しみを持って殺してやる。そう思いすらしたことがある。


 そんな父親が、今、死のうとしている。きっと父親が死ぬのは私が殺すときか、私と相打ちになって死ぬのだと考えていたのに。そんな父親が、私とは全く関係のないところで、私とは無関係にその命を終わらそうとしている。全くそんな素振りはなかったのに。前に会ったときは、嫌になるぐらい健康体だった、あの父親が。あっけなく、死のうとしている。こうして私が無意味に煙草を吹かしているこの瞬間も今、まさに死のうとしているのだ。


 こんなときどんな顔をすれば良いのだろう。私は黙々と煙草を吹かす。何度も月に向かって煙を吹きかける。喜べば良いのか、悲しめばいいのかわからなかった。確かに私の父親はろくでなしだった。何度も私を殴った。私を傷つけた。それが嫌で、自ら命を断とうとする程度には。私の手首を走る傷跡は、もっぱら父親のせいだ。


 それに父親は、心に消えない傷を残した。今でも他人の腕が不意に動くと飛び退きたくなる。他人の肘が上に動くと頭を庇いたくなる。そして何より、他人が苦手になった。他人の温度を感じるのが不快になった。付き合ったとしても、いずれ彼氏も父親のようになると思うと深い関係になるのが憚られた。そして自分が将来的に父親のようにならないか不安でならなかった。いつか我が子に手をあげるのではと。そんなことになったら私は私を許せない。だから、意図的に他人と恋愛関係になるのを避けて来た。


 だけど。だけど。そう悪いところばかりでもなかったのだ。今になってそう思う。学費の高い私立の進学校に通わせてくれた。大揉めに揉めたけれど家元を離れて遠方の大学に通うことも許してくれた。何だかんだ言って、学費もきちんと納めてくれた。そして何より、学業にはお金を惜しまなかった。塾、予備校、参考書。望んで手に入らないものはなかった。


 私は思う。父親がろくでなしである事は間違いない。今でも父親は大嫌いだ。死ぬというのならば死ねばいい。だけど同時に思うのだ。父親は別段、圧倒的な専制君主などではなかった。いつかは死ぬ、一人の人間に過ぎなかったのだ。


 そんな人間が今まさに死のうとしている。法律上ではなく、血のつながりという点では唯一の肉親が。大嫌いで、憎たらしい私の父親。私を産んでくれた、こんな世界に産み落とした私の父親。そんな人間が死のうとしている。私とは無関係に。


 私はため息を一つ。煙草を携帯灰皿にねじ込み大きく息を吐く。トトトっとスマホを操作して母親に返信を送る。送るのはたった一文。帰るよ、と。私の送ったLINEに既読がつくのを確認すると、アプリを閉じる。ついでに電源も落とす。


「ああ、くそ」


 私はぼやく。きっと私はこの選択を後悔する。でもきっと、帰らなければもっと後悔するだろうから。そうわかってはいるものの、帰るのはやっぱり億劫で。舌打ちを一つ。


 もう一本煙草を取り出し火をつける。吐いた白い煙が、月に向かって解けて消えていく。それはさながら、銀色の海月のようで。フワフワと何者にも縛られず消えて行く。その様が何となく羨ましかった。


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銀色の紫煙は、海月のように消えて行く 間川 レイ @tsuyomasu0418

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