終章 合縁奇縁、縁に連るればチョコミント・アイス

終章 合縁奇縁、縁に連るればチョコミント・アイスクリーム

 ミオの新しい生活は、後見人の家でスタートを切った。

 怜佳の家は、社長宅とは思えないほど慎ましい。古い2LDKマンションに父娘ふたり暮らし。遠慮して、ミオはアパートを借りるつもりでいたが、

「後見人には養育の職務もあるの。ミオが一升飯を食べたって、食費を気にしなくていいってこと! 彩乃が残したお金は学費優先で使いなさい」

 職務というには少し違う気がしたが、とにかく甘えるばかりでは居心地が悪い。

 ミオは忙しい運送屋父娘にかわって、掃除や洗濯のほかに、食事当番の一翼も買って出た。基本的な調理は授業で経験している。シンプル料理ならどうにかなると思ってのことだった。

 結果は、なめていた。

 休みの日の軽食にパンケーキでもとチャレンジしたら、黒いフリスビーができあがった。

 砂糖と塩を間違える、料理下手定番の過失もやらかした。

 仕事で疲れているふたりに、甘めに仕上げようとした肉じゃがは、塩の量が致死量になっていた。

 凝ったことには手を出さず、簡単で間違いのない出汁パックを使ったら、実は麦茶のパックだったり。どうりで出汁にしては香ばしい匂いがすると思った……。

「失敗は誰にだってある。最初はうまくいかないもんだよ」

 怜佳は一度も怒らなかったが、七日後には「ミオひとりでの料理禁止」を言い渡された。怒っていなくても、身の安全を考えたのだと思う。

 そんな初めの頃から半年がすぎた。

 遺産がからんだトラブルは、ミオの学業に遅れを生じさせていた。

 そこを挽回すべく真面目に勉強に取り組むのだが、ミオの掃除や洗濯は要領がいいとはいえない。

 そのうえ、このところ身体の調子が今ひとつだった。

 十代で、まさかこれはないと思えることで、怜佳にも相談しづらい。身体をかばいながらこなしていると、時間がいくらあっても足りないぐらいになった。

 不慣れな掃除や洗濯当番は、彩乃に任せっきりにしていたツケだ。

 実家での家事は、もっぱら彩乃がやっていた。両親ともに外で働いているのに、どうして家の中の仕事は綾乃しかしないのか訊いたことがある。

 彩乃は困ったように笑いつつ話した。

 ——ひとりでやったほうが早く片付くのよ。

 彩乃がミオに手伝いを頼まなかったのは、家事の失敗を許容しつつこなす余裕がなかったせいだと、いまになってわかる。

「ミオひとりでの料理禁止」はまだ怜佳から許されていなかった。

 怜佳はずっと忙しい。



 洗濯物をたたんで一息つくと、不意にグウィンのことが頭をよぎり、続けてアイスも思い出した。

 半年前に<美園マンション>で別れたままだった。

 ミオや怜佳の安全が確保され、アイスとの契約は終わっている。連絡先を交換したわけでもない。ミオもその場限りのふたりだと思っていた。

 忘れられないのは、ふたりともミオがこれまで会ったことのないタイプの人間で、大きなインパクトを残していったせいだ。

 スーパーの袋をさげて歩いていそうなおばさんが、ハードカバーを凶器に変える非合法組織の人間で。視力に問題を抱えた整体師は、いざという時には白杖を得物にして守ってくれる強くて優しい人で。

 強さを誇示するところは微塵もなく、物事に執着しない飄々としたところもある。

 とりたてて用があるわけではないのだけれど、無性にもう一度会ってみたかった。

「もう関わらない方がいい」

 めずらしく早く帰宅した怜佳に話してみると、やっぱりな応えだった。

 アイスが犯罪者だから。そんな単純な理由だけではない気がする。

「気がつかないうちに、アイスに感化されるかもって思ってる?」

「ミオを護ってくれた人を悪く言いたくはないんだけど……」

「わかってる」

 ミオが目の当たりにした暴力は、<オーシロ運送>の古い社屋から脱出するときが初めてだった。

 助けようとしてくれているとわかっていても、精神的なショックで目の前が暗くなりかけた。一見、暴力とは無縁そうにみえるアイスがふるっただけに、余計にダメージが大きかったのだと思う。

 そんなミオだったのに、何度か危ない場面を経験し、屋上に追い詰められたときには変わっていた。

 膝に震えがでない——。暴力の場面に慣れてきていた。

 逃げるためにはいいことなのだが、悪い面も意識せずにはいられない。暴力に鈍くなっているんだろうかと。

 マグカップにお茶を注ぎながら怜佳が訊いてきた。

「ディオゴと世帯を同じにしてから<ABP倉庫>の人間と関わるようになったんだけど、わたしがいちばん怖いと感じたのは誰だと思う?」

 一太や、がっちりした身体つきの黒スーツの男、何人かを思い浮かべた。

「誰がいちばんっていう感じじゃないなあ。どの人もそれなりに怖いんだけど」

「わたしは初めて顔を合わせたときから、誰よりもアイスが怖かった。ミオは感じなかった?」

「特には。道ですれ違っても二分後には忘れてしまいそうな、どこにでもいる中年女性って感じなだけで。護ってもらってからは、そんなふうには……あ、そういうことか!」

 見た目で判断できないと知ってはいても、実際は第一印象に左右されてしまう。

「意図してのことなのか無意識なのかわからないけど、アイスがいつも笑んでいるのは、相手のガードを下げさせる手段。歳を重ねてよかったと思うのは、人を見てわかることなんて、ほんの一部分だって経験で覚えたことなんだよね」

「優しそうな人ほど怒らせたら恐いってやつ?」

「ちょっと違うかな。アイスが<ABP倉庫>の〝実働〟だなんて予想もつかなかった。そういう底が見えない感じがね……。だから直接なにかされるわけでないにしても、関わらない方がいいだろうなって」

「だからわたしも?」

「住む世界が違う人と会うことは刺激になっていいけど、そこは相手の世界や関わる深さによる。そこのところの判断がむずかしい。ミオには勉強ができるって意味じゃない頭の良さがあるけど、ここから先に踏み込んだらヤバいとか判断できるカンっていうのかな……そういうのが育ってない。まだ距離をとっておいたほうがいいと思う」

「わたしも何がなんでも会いたいってわけじゃないから……」

 ミオはおとなしく引き下がった。怜佳が反対する理由が理解できた。

 ただ、アイスの人となりの答えは、グウィンが見せてくれたように思えた。

 仕事柄、安易につながりを持たないであろうアイスが、グウィンには白杖の〝実用的〟アイデアを与え、身体のケアを任せていた。

 簡単には他人を信用しないであろう人が、グウィンには助けを求めることがあった。

 声を出すことがないアイスの笑みは、グウィンには通用しない。アイスのうわべに惑わされることなくアイスを見ている。その応えが、危険を冒してでもアイスを助けようとしていたことではないのか。

 ミオもすでにアイスへの答えを出していた。

 屋上からアイスが堕ちたとき。外壁の配管にしがみつくアイスの位置を確かめたミオは、突き動かされたように猛然と走り出していた。

 死なせたくなかった。

 エレベーターではなく階段を使って駆け下り、廊下を走り、ランドリールームに飛び込んだ。初めて入る階なのに、なぜだかこの部屋がアイスにいちばん近いという確証があった。

 そして窓を開け、アイスを見つけた。

 しかしこの窓、以前から故障していて開けられなくなっていたのだと、あとから小耳に挟んだ。

 アイスを助けたい一心ではあっても、鍛冶場の馬鹿力が出たわけではない。窓はすんなり開いた。

 なぜミオに開けられたのか。

 そして、迷うことなくランドリールに飛び込めたのはなぜか。

 覚えているのは、ランドリールームのドアを開ける直前、湿った木材を折ったような音が聞こえたことだった。

 そのときは音を気にしている余裕がなかったが、出るときに目をやったドアに壊れていそうな箇所はなかった。木の扉というわけでもなかったし、音がしたタイミングからして、勢い余ってドアを傷めてしまったということもないはずで……

 結局、わからないままになっている。

 ただこの迷いのない行動で、ミオを追ってきた一太と十二村も、アイスが堕ちるより早く引き上げることができた。

<美園マンション>にまつわる不思議な話は怖いものばかりだった。だからこれは、そういった類のことではなく、アイスがもつ悪運——もとい強運なのかもしれない。

 グウィンという無二の存在を得たことも。

 血縁でも職縁でもない。地縁とも違う。グウィンとアイスの関係をもう少し知りたかった。

 家族を亡くしたミオは、人のつながりのロールモデルを求めていた。

 もっとも、怜佳に余計な心配をかけてまでのことはしたくない。いったんは忘れることにする。

 たたんだ洗濯物を収納するため、立ちあがろうとしたところで、

「痛っ」

 腰に痛みがはしった。いつもより強い。グウィンのことを急に思い出したのも、これの予兆だったのかも。

 大きな声をあげたつもりはなかったのに、怜佳に気づかれてしまった。

「やっぱり腰なのね。いつから?」

「別にたいしたこと……え、知ってたの?」

「やっぱり調子悪かったんだ。ミオは腰痛になるきっかけが普段からあったから」

「わたしまだ二〇歳にもなってないんだよ?」

「十代だからって腰痛にならないってことないんだよ? ミオは身長を気にして、ずっと猫背気味だったんだし」

「そんなんでなるの?」

「猫背がダメっていうのは、見た目だけの問題じゃないからね。あと姿勢のほかにも、精神的な疲労で腰痛になることもあるよ。わたしも大学時代、レポートの追い込みかけたあとに腰痛くなってたっけ。ミオは悪い姿勢で腰に負担をかけてるところに、ここ最近は休みの日も机に座りっぱなしだったでしょ」

「授業の遅れを取り戻すのに仕方なかったんだよ」

「寝る前にストレッチして、ほぐしときなさいって言ったよね? さぼったのも仕方ない?」

「うっ……反省します」

「整体受けてみる? 腰痛で事務仕事にまわってた従業員さんが、運転手復帰したって話したでしょ」

「うん、熊沢さんだっけ」

「駒沢さん」

「あ、ごめん。だってご本人に会ったら、『子馬』っていうより『クマ』なんだもん」

「体重三ケタだから、わからなくはないけどね」

 怜佳が小さく笑って続けた。

「で、まだ完治とまではいってないんだけど、整体院で施術を受けてよくなったの。腕は間違いないみたいだから今度聞いておくよ」

「ちょっと待って! 駒沢さんの腰を治した人に、わたしも……?」

「怖いの?」

「百キロ超えの男の人の腰を治した人だよ? 痛くされない?」

「さあ?」

「そんな無責任な」

「整体って受けたことないから、どんなのか知らないのよ。痛くても治るんならいいじゃない。その整体師さん、少し目が不自由らしいけど、かえってそれで悪いところがわかるんじゃないかって熊沢さん言ってた。それに受付の人の愛想がよくて、整体院の雰囲気もよかったって」

 目が不自由な整体師と聞くと、思い出す人がいる。ミオは遠慮がちに訊いた。

「駒沢さんを治した人……グウィンっていうことない?」

「名前は聞いてないから……」

 怜佳の複雑な表情はすぐに消えた。

「でも、グウィンは出張施術でやってたから違うんじゃない? 整体師の数は多いから、かぶる人の一人や二人はいるよ」

 怜佳の言うとおりではある。

「どうする? 受けるだけ受けてみない? 駒沢さんから聞いた感じじゃ、華奢な子ども相手に無茶な施術するようなことないと思う」

「そだね。場所聞いてもらっていい?」

「かしこまり。ということで、台所ちょっと手伝って。腰が痛くない範囲でいいからさ」

 ミオは、飲み干したカップを流しにおく背中にむけて提案してみた。

「わたしがつくって——」

「て・つ・だ・って」

「そんな即行で断らなくたって……」

「ミオの腰が治ったら、肉じゃがのリベンジやらしてあげる。塩と砂糖を間違えないコツも教えるから」

「容器を変えるとか?」

「考えときなさい。ミオ流の方法が見つかるかも」

 ミオはゆっくり立ち上がった。エプロンを取りにいく。ちょっとした手伝いでも服を汚してしまうことがあった。

 今度こそ肉じゃがを成功させる。それにはまず腰を治さないと。

 怜佳と同じく、ミオも整体なんて受けたことがない。

 怖さはまだあるものの、初めての体験に少しだけ好奇心が騒ぎ出していた。



 最初は足を踏み入れることすらイヤだった、いわくある地の複合ビルで数日を過ごした。

 犯罪組織に追いかけられ、幽霊より人間が怖かった怪談を体験した。

 廊下で発砲まであったのに、野次馬が集まってこなかったし、ニュースになった様子もない。異次元スポットに入り込んでいたような気すらしている。

 けれど、そこから助けてくれたのも、また人で。

 怖い目に遭いながら、優しい体験もさせてくれたのは、悪の巣窟みたいな誤解が残る<美園マンション>で。

 本来なら交わることなどないだろう場所で、ふたりと一時的にでもつながったことが不思議だった。

 それから、チョコミント・アイスクリームが好きな、悪者だった人に会えたことも。

                               了

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アイス・スチール;チョコミント 栗岡志百 @kurioka

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