第50話 愛の香


「だから言ってんだろ、勝手に触るなって」

「いーじゃん! そんなこと言ってたらいつまでも荷ほどき終わんないよ!」

「良いか、改めて言うぞ、お互い尊重し合う気持ちが大事なんだよ。守るべきとこちゃんと守れよ?」

「え、めんどくさい……」

「あのなぁ……」

 彼は引っ越し先の真っ新な柱に手を突いて、大きな溜め息を吐いた。かつてのアパートは二人でずっといるにはやはり狭く、一年勤めたカンナが無事正社員に登用されたことをきっかけに、マンションの一室に移ることにしたのだった。

「たとえば俺がお前の化粧品適当に列べたらどうだ? 怒るだろ?」

「そんなことで怒んないよぉ」

「お前、この前怒ってただろうが。俺がぶつけて落とした奴を元あったところに戻さなかったって」

「見つかんなくて危うく遅刻するとこだったんだから! そりゃ怒るでしょ!」

「それと一緒だろうがよ」

「全然違う! 違いますね!」

 カイは腕を組みながら、「カンナ、お前、俺と上手くやっていく気、あるか?」と冗談めかして聞いた。

「一年過ごしてまだ分かんない?」

 カンナもわざとらしく唇を尖らせて首を傾げた。

「ああ、分かんないねえ、言ってもらっても?」

 負けじと左の口角を上げて聞き返せば、彼女は「大ありに決まってんじゃーん」と歯を見せて、イーッと笑ってみせた。

 それが随分と子供っぽい振る舞いに映って、カイはプッと噴き出した。

「何やってんだ、俺ら。こんな下んねえやりとりなんかして」

「ね。でも楽しいよ?」

「だな。さ、荷ほどき頑張るか。ってカンナ! だから何度言わせんだ! 俺のから手を付けんのやめろ!」


 日が少しだけ傾いた頃、ようやく二人はだいたいの作業を完了させた。春の陽気でほどよくあたためられたフローリングに背中を預けながら、二人はぼーっとしていた。

「何かまだ不思議な感じがする。お前と一緒にいるとか」

「えー、一年半も一緒にいてー?」

 彼は天井を見上げたまま、「だってあれだぞ? 一晩だけ泊めて? って突然言ってきたような奴だぞ、お前」と口にした。彼は今もなお、昨日のことのように思い出すことが出来た。

「あれはまさに、運命の出逢い……」

「いや、無理あんだろ」

「でも運命の出逢いでしょ?」

 ごろん、とカンナは右の脇腹を床に付けてカイを見た。カイは頭だけを彼女に向けた。

「運命の出逢いだったなあ。でも俺、よくお前を拒否しなかったな。確か脅してきたんだよな? 声上げるとか言って」

「エー、オボエテナイナー」

「ロボットみたいな声出てんぞ」

 彼は今日に至るまでのあれこれを静かに思い出した。

〝言われた通りに泊めてやったぞ。さっさと出ていってくれ〟

〝分かった。泊めてくれてありがとう。凄く感謝してる〟

 それで終わると思っていたのに、

〝やっぱり優しいんだ〟

 図書館で偶然にも再会して、

〝どうしても、ダメ……?〟

 美羽にそっくりなお願いをされて、なし崩しに許してしまって。

〝朝ごはん作ってるの〟

 気が付けば心まで許してしまっていた。そこからはずるずると関係が続いて、最初は女子高生が来ているとは分からないように工夫をしろだなんて言っていたはずなのにそれもゆるゆるになって、カンナがやってくるのが日常の一部に変わっていた。

〝あ! おかえり!〟

 そして、カンナがいてくれるのがあたたかくて、嬉しくなっていた。彼がそれを実感するのは、随分と後になってからのことだったけれど。

〝じゃあ、私が許してあげる〟

 その言葉が、決定的だったのかもしれない。砕けた心に、愛の香りを感じてしまったのかもしれない。

〝俺の名前――カイってのは、海って書くんだ〟

 だからこそ、自分の抱えていた弱さを、全部伝えていた。

 けれど、それは一方的でしかなくて。カンナは突然いなくなってしまった。彼の側に、彼女を受け容れる場所が整っていなかったから。

 失って初めて気付くなんて、そんな有り触れた歌詞みたいな経験を本当にして、ようやく彼は自身の気持ちに気付いた。

〝俺はお前といるのが楽しかったらしい〟

 酷い回り道だった、と今なら笑い飛ばせるけれど。どの瞬間も、二人はそれぞれに必死だったろう。それぞれが抱える不幸せから逃げることだけを何より考え、最短距離を探しては遠回りばかりしていた。

〝行かない、行かないよ、私。こんなにもカイのことが好きなんだもん……〟

 それは、夢の中で会ったカンナが言っていたのか、現実のカンナが耳元で囁いたのか、カイにはハッキリしなかった。

 再び分かり合えたかのように思えても、まだ二人の道のりは真っ平らにはならなかった。石橋を叩いて渡るような日々の連続だった。いや、それはきっと、これからも同じだろう。何も考えないで生きていけるほど、二人は器用ではないから。

 それでも、彼は確信していた。

 彼女となら――きっと。

〝ねえ、カイ、愛を込めて、私の名前を呼んで〟

「なあ、カンナ」

「何、カイ」

 きっと、不器用ながらに、一緒に歩んでいけるだろうと。

「愛してる」

 初めての言葉に、彼女は照れくさそうにはにかんで。

「私も、愛してる」

 その名を冠した気持ちを、彼に返した。

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砕けた心に愛の香を 杏珠るる @Lelou_Ange

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