第49話 名前を呼んで
「ねえ、もう一回海行かない?」
迎えに来た車に乗り込んですぐ、カンナはそう聞いた。カーナビを操作しようとしていたカイの指は、タッチパネルの僅か手前でお預けを食らった。
「俺、こんな格好なんだけど」
彼はわざとらしく襟元を指した。
「良いから、行って。そこら辺で良いから。あ、別に砂浜は行かなくて良いよ」
「はぁ」
謎の要求の意図するところは行かなければ分からないのだろうと感じて、カイは自身の指に方針転換の旨を告げると、彼のよく知る海岸へ車を走らせた。
僅かな駐車スペースが設けられたそこは、見晴らしの良い高台だった。夕景は確かに綺麗だが、カンナがそれを望んだわけではないのは何となく察せた。古びた望遠鏡はお世辞にも使いたいとは思わせない見た目で、十数年前に設置されたらしい案内板は、この場所の由緒をたった独りで、けれど堂々と語っているように見えた。
「早く帰らなくて良いのか? 明日もバイトあるんだろ?」
「あのね、カイ」
夕陽が彼女の左頬を紅く染める。潮風にさらわれた髪がなびけば、カイは改めてカンナをカンナとして認識した。この世に二人といない、たった一人の女性として。
「前に教えてくれたでしょ、カイって漢字だとどう書くのか」
「ああ、そうだな」
「せっかく海で教えてもらったから、私も海で教えてあげよう、って思って」
彼はすぐに隠された目的語を読み取ったが、驚いたふりをするでもなく疑問符を浮かべるでもなく、「じゃあ、教えてくれ」とだけ返した。
「私、
彼が復唱するより先に、彼女は言葉を続けた。彼が決して、その名を呼ばないように。
「皮肉な名前でしょ? 愛されてほしいから、って付けたんだろうけど、一番愛してくれるはずの二人はあっさり離婚して、ママは私を邪魔に思うだけ。ちゃんと人を好きでいる方法も、好きになってもらう方法も分からなくなって、こんな私の出来上がり。私の名前は、そんな不幸の象徴だから、口にするのもされるのも、大嫌いだった」
彼女の瞳が潤みはじめて、彼は支えるように後頭部をやさしくさすった。伝えようとしている気持ちに、少しでも応えられるように。
「でも――やっぱりちゃんと伝えなきゃダメだな、って思うようにはなってた。好きな人に嘘吐いたままなのはダメだって、分かってたから。早く言わなきゃ、言わなきゃ、って思ってた。だけど、そのっ……ごめん、上手く喋れなくて」
いよいよ彼女の言葉は溢れ出した涙に遮られた。残った言葉は、彼が補った。
「だけど、カンナって呼ばれんのが好きだったんだろ?」
彼女は何度も頷いた。思えば、カンナと呼ばれる度、彼女はどこかとても嬉しそうだったようにも感じる。それこそが、彼女にとっての愛を受ける名前だったのかもしれない。
「小学校にカンナちゃん、って子がいたの。みんなに愛されてて、私も同じカンナなのに、って思ったことがあって」
「それで、父方の姓をみんなに呼ばせてたんだな」
再び彼女は首を縦に振った。頬を伝った涙を、カイが指ですくう。
「名前って、どうあっても自分と切り離せないもんな。変えたくても、変えられない。お前に比べたらしょーもない理由だけど、今でも時々、海って漢字で書く時にはペン先が震えてガタつくことはあるんだよ。だから、そうだな、お前が呼ばれたい名前で、俺も呼びたい。どうする? カンナと――愛と」
本当の名前を呼ばれた瞬間、彼女の肩はびくっとはねた。嫌悪感が身体の動きにまで現れるほど、彼女の名前に対してのコンプレックスは入り組んでしまったのだと感じれば、答えは明白だと思えてならない。それでも、彼は「カンナで良い」とは言わなかった。
彼女は欄干に手を置くと、大きく息を吸った。目を瞑ったまま顔を少しだけ上げると、もう一筋涙が流れた。膨らんだ胸元をそのままに、彼女は口元をきゅっと結んで、カイを見た。先に目が開かれ、唇が続いた。
「カンナが良いな。だってね――」
カンナはカイのジャケットを掴むと、バランスを崩して前のめりになった彼の唇に口付けた。ほんの刹那の触れ合いの後、彼女は満面の笑みを浮かべた。夕陽が下睫毛に残った雫に反射して輝く。
「愛は、カイの中にもうあるんだもん。K、A、Iでしょ? だから、私はカンナが良い。ねえ、カイ、愛を込めて、私の名前を呼んで」
愛を込めて名前を口にする。意識するのは、これが初めてだった。
「カンナ」
「うん」
カを意識した下がり調子の声に、もう一度涙が溢れる。
「カンナ」
「うん!」
ナを意識した上がり調子の声に、歯を見せて答える。
「カンナ!」
「うんっ! カイ! 私今、幸せだよ!」
三つの文字全てに、愛を込めれば、夕焼けは二人を黒く塗りつぶした。二人だけの幸せを、他の誰も見ることが出来ないように。
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