第48話 選ぶ
一人で歩けば、自然と心は自分と対話を始める。カンナもまた、その例外に漏れなかった。まだ肌寒い街を行きながら、カイの言ったいくつもの発言を反芻した。
一つ悩みを解決しても、また別の悩みが生まれる。別の悩みにかかりきりになっている間に、解決したはずの悩みが同じ顔をしてやってくる。
信じるということは泡のようで、何を拍子に弾けるか分からない。
一歩、右足を下ろす度に不安が一つ。
一歩、左足を下ろす度に不安が一つ。
全幅の信頼を寄せられる未来などありはしないとは、知っている。両親を責めることが出来ないのも分かっている。彼女だってかつての恋で、当初抱いていた気持ちの温度が無限に保持できないのは知っていた。一緒になるための理由と、一緒にいる理由は必ずしも一致しないことを分かっていた。世界が二人だけで出来ていない以上、人の心は様々な要因で少しずつ形を変え、人はそれに合わせて互いに向け合った矢印の向きを調整する。それが出来なくなった瞬間、二人はバラバラになってしまう。
だが彼女は今、今だけは、彼のことを全て認めてしまっていたから、そう出来なくなった自分が、そう出来なくなった彼が、
ショーウィンドウに映った自分の顔を見て、自身が何を恐れているのかを知る。
彼と別れることよりも、彼と別れた後、彼もまた過去の一部に過ぎなかったのだと結論づけてしまうことが、一番恐ろしかった。そしてまた陰鬱な日常に戻る。繰り返す日々の中で鮮烈な痛みでさえ鈍化して、また埋没する。
未来に希望を持とうとすればするほど、やはりそんなものはなかったのだと気付いた時の苦しみは増える。それなら、逃げてしまった日のように、今の時点で希望を打ち捨ててしまうに限る。限るのに――
鳥の群れが羽ばたく音がして、色とりどりの風船が空に舞って。吹き上がった風が彼女の前髪をさらう。
正面に引っ張られた彼女の視線の先には、いつか好きだった人に、どこか似た人。
彼女の心はほとんど揺れなかった。
母親から逃げるようにして転がり込んだ最初の相手。彼女が選んだ数少ない相手の内、最後まで愛情を抱いて接することの出来た人。彼を失ったことで物の見事に彼女は堕ちていったのに。自分を愛せなくなるまで崩れたというのに。
それほど歪んだはずなのに、その彼を恨むことはあっても、憎みきることまで出来なかった。今でも夢に現れることのある彼を、もう一度好きになるようなことはないだろうけれど、記憶のページから抜き取りたいとまでは、思えない。あれほど不完全な恋をしていたというのに。
(完全な恋を求めるのは、違うんだろうね)
彼に似た誰かは、そのまま近くの店に入って消えた。
(これからも私は間違えるんだろうな。でも、間違えないように生きようとしたら、私はもっと酷い間違いを犯すんだろう)
カンナの多くを、カイは知らない。カンナもまた、カイのほとんどを知らない。全てを知って、何もかもを受け容れて、百点満点の歩み方をしようとするなんて、彼女には無理だと思えた。
(少しでも長く一緒にいる。でもそのために無理はしない。私に出来るのは、きっとそれが限界)
未来のことを考え続けたら、未来に至るより先に壊れてしまう。今に堕することはきっと良くない考えなのだろうけれど、きっと、カイを愛したという気持ちは、終生カンナの心から消えることはないだろうから。
(私は、今日という日を、ただ重ねていよう)
過去に怯えてしゃがむでもなく、未来を恐れて逃げ出すでもなく、ただ、来る日来る日を過ごす。
(ねえ、カイ。私は今、カイといたいから、カイといるよ)
ショーウィンドウに映るカンナは、先ほどまでと変わらず不安に満ちた顔をしていたけれど、カンナが右手でその顔の上を撫でると、彼女は笑っていた。
(未来は約束出来ないけど、今日は約束出来るよ)
まるでその言葉に応えるように、左手にあった携帯が振動した。
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