軟弱な彼氏

ペンギン内閣

本編

 私は三十一歳になった。自分が恋愛市場や婚活市場において売れ残りなのではないか、という不安はある。でも、これは私が勝手に意識しているだけだ。私の職場は大企業で優秀な人が多いから、女性の結婚の有無について、下品に論じる人はいない。そんなことをすればセクハラだ。私が自主的に考え、不安になっているのだ。

 私のようなハイスペックが、低収入のさえない男性を狙うのには、二つ理由がある。

 一つ目は、私の同僚もそうだが、収入のいい男というものは大抵自分を持っている。自分とは何かという話は哲学者に任せておいて、収入のいい男の陰には、大抵若くて綺麗で抜け目ない女がいるのだ。そして、男たちは自分を自分で作り出したと思っているようだが、実際はその女の影響を露骨に受けている。男たちが処女性を求めるように、私も他の女によって作られた人格を持つ男は嫌だった。私は、これから自由に描ける真っ白な自由帳が欲しいのだ。

 もう一つは、低収入のさえない男性ならば、自由自在に制御できると思ったからだ。私は彼氏ができたことはないけれど、プライドというものがある。いくらかっこいい男でも、その取り巻きの一人の女に成り下がるのは、死んでもごめんだ。そういう女と、私は違う。

 早速、大手のマッチングアプリで男性を探し始めた。男性をこうして俯瞰でき、選び放題とは素晴らしい世の中だ。扱いやすそうなやつを探そう。

「お!」

 私はある男性にピンときた。髪はぼさっとしているし、覇気がない。友達に取ってもらった写真なのかもしれないが、画質が悪いし、若干ブレている。しかし、目が綺麗で、顔のパーツのバランスがいい。身長も百七十五か。これを磨いてやれば、良い感じになるんじゃないか?何より、十九歳。若者というものは、活気があり、好奇心に満ち溢れている。素晴らしいことじゃないか。

 私はまずまずな男性を見つけ、喜びを感じた。大学生ではなく、年収は二百万、フリーター。私の周りに高卒で働いている人はいないので、珍しい。まあ、若いから収入が低いだけで、そのうち上がるだろう。上がったら、結婚を検討してやれば良い。

 私と彼はマッチした。まずはチャットからだ。青年であっても、非常識な男は駄目だ。そして、頭でっかちな奴も駄目。若い男性らしく、素直で礼儀正しく、女性に対して無知で敬う気持ちを持っていなければ、不合格だ。チャット上での会話を一週間くらいした。全体的に気が利かない男だと思った。しかし、素直だ。お礼と謝罪ができる若い男というものは、愛おしい。

 私は、彼と会うことになった。しかし、お店選びで問題が発生した。彼がデートというものに関して、知識が欠落していたのである。このままではうるさいチェーン店で、優雅さとは対極の食事をしなければならない。私は大慌てで彼を否定し、お洒落な都内の喫茶店を選んだ。

 待ち合わせ場所に行くと、一足早く彼が着いていた。私は遠巻きから彼を見た。まず、服がダサい。サイズ大きくないか?あと、眼鏡の縁が太すぎる。似合っていない。もし付き合うんだったら、真っ先にコンタクトに変えさせよう。

 私は、彼に社会経験の格差、人生の重みの違い、そして本物の性的な魅力を見せつけるため、ありとあらゆるお洒落をした。大体、私が今まで彼氏を作らなかったのは、恋愛に力を入れてこなかっただけで、本腰を入れてやれば容易な作業だ。私にビジネスパーソンとしての才能だけではなく、女性としての美しさも与えてしまうなんて、神様は不思議な方だ。決して、高校生以来約十年ぶりのデートだから、張り切っているわけではない。私はいつだって冷静であり、彼に上下関係を突き付けるための、計画の一環だ。

 彼は驚きと関心を持って、私を見つめた。私は失礼だと感じたが、同時に私が魅力的であるから仕方ないかと考え、満悦した。私が彼に微笑みかけると、彼はハッとした。近くで見るとそこまで悪い印象ではなく、むしろ良かった。彼は写真写りが悪いのかもしれない。私は彼を喫茶店へ連れて行った。彼は新入社員のように緊張していた。

久美田くみた めぐみさん」

「はい」

「僕は、三園みその 浩二こうじです」

「三園?」

「ええ。珍しい苗字でして…」

 私たちは、まず名前の確認をした。仕事でも名刺を交換するわけで、男女の交際でもきっと同じだろう。調べてみたが、デートの段取りの共通規格はなかったし。

「久美田さんは、どんなお仕事を」

「コンサルです。といっても、監査法人のアドバイザリー部門ですが」

 私はここでコーヒーを飲んだ。彼が感嘆の声を流すのを聞いて、笑いそうになったが抑える。私は練習したとおりに、自然にそれでいて印象的に言うことができた。

「すごい!どんなことをされるんですか?」

 彼は飛行機を見る男児のように、目を輝かせて言った。もちろん、私は職業柄、色んな人に求められてきた。でもそれは、私の立場が好きなのだ。私が無職になり、何の権限もなくなれば、誰も私の話に関心を示そうとしない。金になる人物かどうかで、態度や関係性は打算的に決められる。だが、私の人生の経験をこんなにも目を輝かせた異性が求めてくるというのは、心地良いものだった。

 そこで私は、経営戦略の話、SWOT分析や財務三表について話してやった。同業者にこんな話を最もらしくしようものなら、笑われる。でも、彼が分かるよう表面的な話に徹し、難解なところはお茶を濁した。彼は口を挟まず傾聴し、時々うなずき、また理解できずに頭を抱えた。

「どうして、私とマッチしたんですか?」

「一目見た時から、美人だと思って」

「見た目で選んだの?」

「いや、プロフィールを見た時にしっかりした方だったからです。趣味が合いそうでしたし」

「そう。一人を選ぶなんて、実直な方なんですね?あなたは」

「え?あ、はい…」

 マッチングアプリで一人だけをを選ぶわけがないだろうということだが、ドツボにハマった彼は縮こまっていた。彼にいたずらするのは楽しかった。工業的な礼儀の下、利害の駆け引きが行われる商談より、自然で混沌としていた。

「嘘です。色んな人に送ったんですけど、マッチできたのあなただけでした」

「そうでしたか」

「でも!美人だなって思ったのは本当ですよ!」

「ありがとう」

 このようにして初デートは終わった。退屈だったらここでブロックし、代用の男を探さないといけないと思っていたが、案外楽しめた。彼の話は意外にも起承転結がしっかりしていたからである。また、彼は馬鹿だったが、裏表がなく、感情が手に取るように分かった。あれでは隠れて浮気なんて、絶対にできないだろうな。M&Aの意味が分からない彼の無学さは、私を不安にさせたが。

 二日目の遊園地デート、そして二週間ほど経って、三回目のデート。彼が告白してくると、私は確信していた。彼女ができたことない彼は、恋愛を何も知らない。どうせ、セオリー通りに来る。人の気持ちを考える意思はあっても、工夫できる頭を持ち合わせた人間ではないのだ。私たちが都内の夜景を見て、帰ろうとなり始めた二十時ほどに、彼は告白してきた。最初は顔を紅潮させたまま、言いかけたりそれをやめたり、私のことを見たり露骨にそらしたり、この時点でもうサプライズではなくなった。一回言いかけた後やめて、また言い直した。「好きです。付き合って下さい」。私は「いいよ。付き合おう」と応じた。ときめかなかったけれど、まあこんなもの。私が彼を選んだ時点で恋の熱さを経験することはないと、予想出来ていた。これは美しい文庫本ではなく、何もない自由帳なのだから。

 私は純白の紙に土台を書き始めた。これから、何を書くにしろ必要なことだ。まずは眼鏡を止めさせた。彼は嫌がり、コンタクトレンズは怖いと言っていたが、何度か言えば従わせることができた。次に、髪をまともな美容室で切らすことにした。彼のファッションも、私の指示で差し替え、シャンプーも私が好みの匂いのものに変えさせた。段々と、私の示教の意図を汲み取り思い通りに動く彼のことを、下に見るようになった。彼の前では、恋愛経験豊富な女を演じていたけれど、私にとっても初彼氏だったのだ。結局、人間関係の本質は従属関係だ。仕事と違い明示されないが、友情もどちらが上でどちらが下かが、漠然と存在している。未知だった恋というものも、所詮は上下関係そのものだ、と私は少しがっかりした。

 私たちは付き合ってから半年デートを重ねた。最初の頃は一週間に一度だったが、途中から私の仕事の関係で二週間になった。私は彼の表面的な要素のほとんどを把握した。靴のサイズは二十六センチ、服のサイズは本来Lなんだけど、彼はやせ型なのでMがちょうどいい。あんこは好きなのに、クリームは嫌い。また、虫は触れるみたい。ゴキブリは嫌だと言っていたが。早起きは苦手の夜型で、デートは休日でも午後や夜が多かった。食べ方は綺麗じゃない。そこも教育しないといけない。

 私は、あるデートの時、彼に尋ねた。

「浩二は、どうして高卒で働こうと思ったの?」

「本当は大学に行きたかった。父が亡くなり、お金がなくなってしまったから」

「預金が尽きたってこと?」

「父は残してくれたのに、母親が貢いで」

 何となく事情を察した。

「働きながら行こうかと思ったけど、流石にキツすぎたよ。あれができる人は、本当にすごい。そもそも論、僕は頭が悪くて受かりそうになかったし」

「それで、働き出したわけか」

「地元の家を出て、姉のいる東京へ行きました。やっぱり、仕事の数も給与も全然違う。地元には、何もないので」

「あ、お姉さんいるの?」

「ええ。良い人ですよ。頭も良くて。彼女の存在がばれたら、会わせろって絶対言われる…」

「ところで、恵さんの家族って…」

「私は、東京生まれ東京育ち。二十三区内のマンションにずっと住んでいたから」

「いいなあ。どんな感じだったの?」

「そんないいものでもない。教育ママで、幼い頃から好きでもないのにヴァイオリンを習わされてね。毎日、毎日、何をしたか、そして次は何をするべきか言われた。母親は私という子供を、気に掛けた」

「気に掛けてくれたのに、辛かったんですか?」

「過干渉ってやつでしょう。母親は私のことを、意思のない自由帳としか思っていなかった。そこに、自分の思い思いの学歴と性格と趣味を書き込んだだけ。すべての人間関係は支配するか、されるか、の二択だから。あんな人じゃなければ、私はもっと大人になれていたかもしれないのに」

「そう?人間関係ってそんなものじゃないの?友達同士でもどこか、あるものでしょう」

「何というか、似た者同士ですね、僕たち」

「は?」

 私は彼の予想外の台詞に、困惑を隠せなかった。彼は現状を正しく認識できていないのだろうか。私と彼は根本的に違う立場であるのに。

 ちょうど、次のデートのお店は居酒屋だった。私は大人に対して漠然とした憧れを持つ青臭い彼のために、連れて行ってやったのだ。もし大学に行っていれば、先輩がその役割だ。だが、この歳で働かなければならなくなった彼の周りには、パチンコや風俗の話をするおじさんしかいなかった。彼は、案の定お酒を飲むことを固辞した。彼らしい真面目さだった。彼が陽気な大学生になることは、ありえないだろうと感じた。

 私はお酒が進むと、どの人文サークルにも一人いる色気のある女先輩を演じてやった。ウーロン茶をちびりちびり飲む、辛気臭い彼のために服をはだけさせ、屈みあるいは足を延ばして、彼が色恋沙汰に対して無菌状態にいたことを激しく糾弾した。彼は見えそうになるたびに、ウーロン茶の飲む量とその頻度を急激に増やした。そして、気になってしょうがないくせに、私が話しかけると神妙な顔つきで、枝豆を食べ始めるのだ。私は心の中から漏れ出す大笑いをこらえるのに、必死だった!どんな喜劇よりも、滑稽で笑える。

 お店から出ると、彼は不安定になっていた。饒舌に話し出したかと思えば、急に黙って「何も考えていないよ」と言わんばかりに夜の大都会を眺めた。彼が何かを切り出そうとしているのは、明らかだった。私はその正体に当然気が付いていたから、ありとあらゆるからかいをぶつけた。彼は我を忘れて、大きな声で反応した。耳の先まで、夕陽のような真っ赤にさせて。ラブホテルであたふたする彼に、私はもう一度笑った。

 主導権が自分にあるセックスほど、面白いものはない。彼は部屋に入るなり、てんぱった様子で私をベッドに座らせ、脱がせようとした。「これでは、駄目だ」と私は呆れて、「まずはシャワーを浴びましょう」と言ってあげた。彼は常時、不安げであった。名誉ある教授たちに実験の意義を問われる大学院生のように、恐怖の中、慎重に進んでいった。彼は下手なくせに、一人前を気取って愛の言葉を囁いた。

 それからというもの、ぽつぽつと彼は私の身体を求めるようになった。許可を得ると、彼は秘密基地で宝物を触るように、胸や太ももをさすったり押したりした。私はこんな脂肪の塊に一セントの価値も見いだせない。ともあれ、性犯罪的ではなく、私の許可というフレームワークの下、身体を求められることに対して、悪い気はしなかった。私はそれらの男性の甘えを許した。「いい女」という言葉は、私を賛美するためにある。私は寛大で慈悲深く、それでいて男性との架け橋になれるような、そういう尊い存在に感じた。

 私は自分の部屋で一人、テレビを見ていた。そんな時、ワイドショーの子育てに関するところで、赤ちゃんの授乳シーンが出てきた。私は新しい自由帳への落書きですっかり忘れていたが、そろそろ結婚を考えなければならない年齢なのだ。必然的に、私の彼氏である三園 浩二が浮かんだ。彼が私の夫になる。すると突然、彼に関する様々なもの、特に目をそらしてきた部分が浮かんできた。彼はまず収入が低い。それでいて学歴も高くない。彼がどんどん、しがない男に感じてきた。そして何よりも、彼が私の胸を求めている点にも、激しい違和感を感じた。男性が女性の胸を求めるのは既知の話だが、あそこまで求めるだろうか?愛しているから?愛しているからって、あんな何度も脂肪の塊に執着する?こんなにも私の胸を求めるのは、彼がマザコンだからではないか。

 一度生まれた疑念は、もう二度と消えなかった。ちょうど、仕事量も増えていて、それが私を余計に不機嫌にさせた。異変に気が付いた彼は「困っているなら、話を聞きたい。力になりたい」と言ってきたが、あんな馬鹿で頼りない男に仕事の難解な話をしても、どうせ理解出ないし何の役にも立たないだろうと思った。彼は私に膝枕をしたり、手荷物を持ったり、ハグの頻度を増やした。あるいはまたどこかの情報を鵜のみにしたのだろう、「生理にはレバーがいい」と買ってきて、私のために作り、お腹を温めるように撫でた。しかし、彼が頼りない男である限り、この問題は決して解決しないのだ。だから、それらの優しさはずれているように私は感じた。

 ある日、ちょうど一年くらいたったころのデートの帰り道。私の友人が結婚したという話から、私たちの結婚に関する話になった。

「男ならちゃんと私のことを引っ張ってよ」

「確かに、恵さんに頼りっきりだし。今、転職の話があって、正社員にな…」

「でしょう?大体、収入が低くてカッコ悪いから三十代と付き合っているのね。若い女性から相手にされず、妥協なんて情けないこと極まりない」

 彼は珍しくムッとした。

「僕は年齢じゃなくて、恵さんを愛しているから、付き合っているんだ。なんで彼女をそんな風に言われなきゃいけないんだ」

「そう思うんだったら。私に相応しいと思うなら、男らしくなりなさい」

「恵さんは、そういう性別の役割を嫌がっていたよ」

「うるさい。私に役割を求めておきながら、自分だけフリーライドしようなんてね!」

 あんなに私の女性を堪能しておきながら、あんたは男としての役割を果たさないつもりか。ふざけるな。

「僕には、恵さんが何を考えているかさっぱりわからない。どうしていいかも」

「男として未熟だからでしょう」

「そんな言い方ないだろ」

「私は意気地なしと結婚したくないって言っているの、二百万の男の妻になるなんて!」

「今、僕の収入は関係ない。僕だって…」

「いいえ、関係ある!だって、この社会は貨幣でできている」

 彼は唇を強くかんだ。心当たりがあったのだろう。労働は、社会においてどれだけ価値があるか、お金というシステムで冷徹に可視化される。その労働が、どれだけ素晴らしく道徳的なものだと言っても、市場経済の前では無力なのだ。そして、それらの摂理を無理に捻じ曲げようとした計画経済が、どのような末路を辿ったか、歴史を学べばすぐに理解できる。

「あんたみたいな軟弱な男は、社会で生きていけない。私はそう言っている」

 私は、彼と付き合っていた自分が、愚かだと糾弾した。

「私とあなたじゃあ、住む世界が違った。ほら、一時の気の迷いや遊びと言うでしょう。私のことは忘れて、身の丈に合った相手を探したほうがいい」

 彼は、もはや敵意のない、泣きそうな思い悩んだ顔をした。私は振り返り、駅のほうへ歩き出し、彼の顔をもう一度見ようとは思えなかった。

「お金で買えないものだってあるはずだ!きっと!」

 彼の声は、私を責め立てるというよりも、悲壮な声だった。懇願に近く、ないものねだりをするスーパーの子供のようだ。でも、彼の祈りは届かないだろう、と私は確信していた。それは私が彼を憎んでいるからではなく、お金のない人間に対して、大衆や社会がどれだけ無関心で無慈悲か、よく理解していたからである。恋愛市場において、スペックという枠組みの下、罪に近いような扱いを受ける。愛は金で買えないものではなく、金の別の形にすぎない。

 ひ弱な彼と別れた私は、久しぶりの身軽さに酔いしれていた。書き始めは心躍るのに、段々と黒くなって描くスペースが減り、その自由帳固有の問題が見えてくると嫌になる。事実、彼の収入や天性の消極性を変えてやるには、あまりにも教育コストが大きすぎた。私はもう少し結婚を前提としたプランを練っておくべきだったと後悔した。

 さて、今年で三十二になったわけで、変化が欲しいと思っていた。ちょうど、上司がある案件のプロジェクトリーダーをやらないかと、持ち掛けた。私は承諾し、新しい仕事が始まった。それは非常に気持ちが高揚するもので、毎日刺激的なことを味わった。私は元カレや恋のことをすっかり忘れて、半年間熱中し、走り切った。

 プロジェクトが終幕を迎えようとした頃、飲み会に行くことになった。そこに見覚えのない二十代後半の男性がいた。今回の顧客の大手商社から独立した経営者のようだったが、いまいち何を生業にしているのか分からない人物だった。しかし、私は洗練された彼を一目見た途端、新しい恋を感じた。私はどの男性よりも上になりたいという願望があったのに、自分より下の男性を見ると無意識のうちに侮蔑を感じ、恋ができない堂々巡りに悩まされていた。彼を完全だと信じてしまいたかった。

 私は彼と話が盛り上がり、プライベートでの連絡先を交換してしまった。彼からメッセージが来て、デートの約束が決まった。本当に素晴らしいデートだった。私は何も考えなくて良かった。彼がドラマチックなプランを考え、金を出し、外車でドライブしてくれた。私は身を任せ、とろけそうな夢を見ているだけでいいのだ。幾度のデートでも彼はボロを出さず、完ぺきだった。二度目の肉体関係を結んだ後、私はこんなチャンス二度と来ないと、彼に結婚を迫った。彼は「分かるよ。俺も真剣に考えている。でも、もう少しお互いを知ろうよ」と、爽やかに笑った。それから数日後、連絡が取れなくなった。

 私はどうかしている。普段の私はもっと、抜け目なく男性を見れただろう。事実、仕事でもそうやってこれた。弱みを見せず、下手に出ず、相手に対してしっかりと洞察し、自分の利益を最大化する。ちょっと顔が良かった程度で、間抜けな失敗をするわけがない。これは何かの間違いだと私は自分に言い聞かせた。私はベッドに横になると、あの時の嬌声が聞こえてきて、耳をふさいだ。

 一か月後、業界人の風の便りで彼が若い女性と結婚したと、知った。私は彼との関係を暴露してやろうかと思った。でも、性交の同意は明らかにあったし、幾度かはむしろ私から望んで行った。それは私が彼氏と深く交わり、心の奥底にあるものを愛と共に共有したかったからだ。そこで、彼が私を彼女と一度も呼ばなかったことに気が付いた。いつだって彼は冷淡で、甘味料的な甘さを提供するだけだった。私はそれをクールだと勘違いしていたわけだ。私は復讐心よりも自己に対する羞恥心が打ち勝った。

 私はそこから数日体調が悪かった。異常に重く、何かに縛られているかのようだった。私はまさかと思い、コウノトリがやってきたか調べた。話が変わってくる、それがあるならば、私と彼は必ず結ばれる。自由帳!彼も自由帳!しかし、陰性だった。熱があり、単なる秋風邪だった。私は数年来、風邪なんてひいたことがなく、すっかり忘れていた。

 私はお風呂に入れなくて、汗で服がくっつく中、惨めな気持ちで寝続けた。私は、お金で世の中のほとんどのものが買えると思っていた。買えないものは狭義的な人権くらいだろうと。優しさとお金というものは完全に同じ軸に存在するのではない。寒くて暑いこの異常な不愉快さが、私の凝り固まった自信を破壊した。私の手を握って隣に座ることを労働にしたら、きっとゴミみたいな賃金になるだろうけど、その優しさが私にとって、とてつもなく価値がある。私は目の前にあった当たり前の事実を、ずっと見落としていた。

 風邪は治ったが、もう一方の病は治らなかった。私はもう一年弱、気にしていなかった三園 浩二に連絡をした。まず、元カレに「久しぶりに会わない?」と送った。でも、返事が来ない。私はどうせ照れているだけと思ったけれど、待てど暮らせど変化なし。若いだけが取り柄であったくせに!私よりも劣っていたことが、唯一の魅力であったくせに!段々と、私の方が限界になり、彼への暴言を謝罪しだした。「軟弱な男なんて言ってごめん。もう一度、やり直そう」と。直接話せば分かってもらえると通話したが、不在着信を使われた。一か月後、画面には私からのメッセージで埋め尽くされていた。もはや、私の謝罪を受け入れてくれるだけが望みだった。

 ある日、突然彼から電話が出た。私は逃さぬよう、直ぐに出ると女性の声がした。私は寒気がしたが、すぐに驚きに変わった。

「三園 浩二の姉です。浩二は亡くなりました」

 彼はナイフを使い、これから先の人生を自らの手で放棄した。葬式に行くと、彼の姉がいた。私は初対面の人間と、儀式的な会話から始めた。

 姉は弟の棺を眺め、彼の頭をなでるように手を動かした。慈しみの表情をして、現実ではないどこかを回想していた。

「お悔やみ申し上げます。浩二さんは優しい男性でした」

「優しいって何?」

「え?」

「そうやって、軟弱な男を使い潰したの?」

 私は怨恨を含んだ彼女の視線を、苦々しい気持ちで受け止めた。私はあの切羽詰まった感情的な長文メッセージや大量の不在着信を、彼の姉に読まれてしまったと気が付いた。それで、取り返しのつかない恥ずかしさに襲われた。

「私は、彼のママではありません」

「だったら!女を見せるのはやめて。自分からやりたい放題、焚きつけておきながら…!」

 彼女は自分を落ち着かせた。私を一瞥し、葬儀の準備を理由に離れていった。初めて会った彼女との会話は、心労極まりなく、重圧感を感じた。そして、もう二度と私と彼女は分かり合えず、会うこともないだろうと確信した。

 私が愁傷をもって彼の棺を見ていると、髪がぼさっと荒れた男性が近づいてきた。彼に何となく似ていて、同類のにおいがした。なんだろうと見ていると、話しかけられた。

「すみません。浩二の交際相手の方ですか?」

「ええ。あなたは?」

「高校時代の同級生です」

「浩二さんのこと、お悔やみ申し上げます」

「こちらこそ」

「あの、彼にいったい何があったんですか?」

 私は実行犯が警察に通報するような罪悪感を、心の片隅に置いた。彼は渋ったような顔をして、耳を貸すよう言ってきた。

「遺書がないので、詳しいことは分からないんですが。多分、仕事関係です。転職先はノルマが大変だったみたいで。それで心を壊してしまったんだと思います」

「そうでしたか。私も心配になって、連絡したりしたんですが」

「それは難しいと思います。亡くなる間際、ちょっとおかしかったので」

「おかしい?」

「あいつ、教養はなかったけど、話は面白かったんですよ。なのに、意味不明なことばかり言うようになって、意識がどこか別の場所にある感じでした」

「そうなの」

「だから、誰かから連絡が来ていても、返事を書ける状況になかったんじゃないかな」

 私はもう二度と会えない、謝罪できない、彼のことを考えた。彼の可愛げがあり、真っ直ぐな笑顔が強く思い出された。デートの時、私を見つけると嬉しそうに近づいてきたけれど、永遠にそれはありえないのだ。

「どうか、気に病まないでください。あなたと付き合えて、浩二は幸せだったと思いますよ」

「そう言っていたんですか?彼が」

「ええ。初彼女だったので、はしゃいでましたよ。酷い時にはずーっと、その話を聞かされました。まあ、モテる感じではないじゃないですか?あいつ」

 彼は泣く代わりに、息を吐きだしながら、無理に笑う。私は何も言わずに苦笑いをした。

「『僕にはもったいないくらいの美人だ』って、意気揚々としていましてね。あの頃はあんなに元気だったのに。転職だけで、こうも変わってしまうものなのか」

「別れた後というか、私と別れたことについて、何かおっしゃっていたことはありますか?」

「なんて言ってたかなあ。仕事の関係ですれ違いがあった、みたいなこと言ってました」

 彼の厚意なのか、あるいはプライドなのか分からないが、私のひどい暴言は言っていないみたいだ。愛する女性からの残酷な宣告を、彼は受け入れられなかったのかもしれない。

 寂しい葬式が始まった。彼の遺体はやせ焦げ、痛ましかった。暖かく思い入れのある彼が、冷たく資本主義的な社会の荒波にのまれ、必死にあがいたのだと感じた。その時、私は清々しい気分でリーダーをやり、間抜けな女になっていたことを思い出し、気分が悪くなった。彼が単に経済的な理由だけではなく、都合の良いものを押し付ける自分勝手な女に殺されたのだと察した。

 彼の葬式中は、聖者を気取れた。自分のためではなく、純粋に死を悼める人間になれた気がした。終わると、いつもの私が戻ってきた。

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