クリスマス商戦と自由恋愛の形骸化

@numazawa0903

クリスマス商戦と自由恋愛の形骸化

●はじめに


正直な話をしよう。

年末の繁忙期という、みんな経済的にも時間的にも精神的にも体力的にも余裕がない時に、クリスマスはやってくる。

そんな中、深夜帯に、精一杯お洒落をし、プレゼントを用意し、はるばる街に繰り出して、デートをしたり、ショッピングをしたり、セックスをしたりするのは、カップル達にとって大きな負担だと思う。給料日や生理周期はクリスマスに合わせて動いてはくれないからだ。

もちろん、大切な人と会うのは楽しいし、コストを気にするのは無粋だと思うかもしれない。

しかしそれは、あえてクリスマスを選ぶ理由にはならない。

・いつでもお互いが会いたい時に会う

・お互いが本当にしたい事を自由にする

・社会的な慣習や同調圧にとらわれない

…こうした自由恋愛の本質から見て、行事という口実が無ければデートすらできない日本の男女の不自由さは、際立っていると思う。

同世代(10代〜20代前半)の別れ話をいくつも聞いていると、クリスマス・バレンタインに会えない、重要な日に連絡がない、といった不和が一因としてチラホラ入ってくる。

2人だけの記念日ならいざ知らず、「恋人はクリスマスに会うものだ」といった類の強迫観念が、彼ら彼女らを不幸にしてしていたりする。

また、ご存知の通り、そうした強迫観念は、パートナーがいない人々に対する、理不尽な締め付けにもなっている。(後半で詳しく解説)

今回はクリスマスから垣間見える社会構造や男女関係の歪みについて、ざっくりおさらいしていこう。


●クリスマス文化の形成


1970年代初頭〜80年代末にかけて、それまで小売業者の独壇場だったクリスマス商戦は、都市部の飲食店、アパレル、音楽業界、宿泊業エトセトラに波及した。

これはクリスマスの主役が家族(団欒)から子供(プレゼント産業)、そして恋人(デート産業)へと変遷した軌跡でもある。

お年寄りに聞いてみると、(地域差こそあれ)60年代以前の日本家庭におけるクリスマスは、百貨店がケーキを安売りする日、一家団欒の日という程度の認識で、家によっては(宗教や家庭内不和や経済的理由ではなく)子供にクリスマスプレゼントを渡す習慣自体が無い家も珍しくなかったらしい。

60年代以降の核家族化に伴い、サンタが完全に各家庭に定着する頃には、すでにクリスマスの渋谷新宿はデートスポットになっていたものの、それは1部のミーハーの溜まり場という程度にすぎず、依然としてクリスマスは子供の日だったそう。

高度経済成長期の核家族のパパといえば、クリスマス商戦の最前線の兵隊というイメージだ。退勤後の打ち上げ文化の全盛期でもあるし、クリスマスに呑気に一家団欒する余裕は多くのパパには無かったと思う。こうしたパパ達は子供が寝静まった頃に帰宅し、枕元にプレゼントを置くくらいしか出来ない。ここにサンタというシステムがピタリとハマるのだ。日本におけるサンタ習慣は、第三次産業の増加と核家族という、60〜80年代の日本の産業と家庭の象徴と言える。

さて、

この、サンタさんにクリスマスプレゼントを貰った世代「サンタ第一世代」が成長し、恋をする年頃になったのがちょうど70年代。

この辺から、恋愛ソングを初め若者のポップカルチャーが本格的に「恋人のクリスマス」像を形成し始め、当時のメディア(TV一強)はスポンサーのクリスマス商戦を援護する形で、クリスマスの恋愛を主題にしたメロドラマや歌番組の比重を増やし、大衆を扇動する。

個人的には、この裏には70年代以降の晩婚化が絡んでいると思う。要するに親離れをしてから親になるまでの、自由恋愛の期間が長期化した事で、家庭に属さないカップルが分厚いマーケットを形成したのだ。

…ここまでが歴史のおさらいになるが、正直僕らの親が生まれるより前に完結している物語なので、セピア色に霞んでいてよく分からないというのが正直なところ。



●「親ごっこ」としての恋愛


ここからが本題なのだけど、前述した「サンタ第一世代」が年頃になった時、クリスマスデートをするようになった理由には、社会構造以上に、もっと根深い男女の依存構造がある。

親離れをした若者は、しばらくは友人関係や兄弟姉妹、先輩後輩など共同体に依存する。

共同体に馴染めなかった人、またこれらがカバーし切れない愛着障害的な傾向を持つ人ほど、恋人に父性や母性を求める傾向が強く表出する(真の親離れはできていない)。

そうでなくても、一人暮らしの孤独感、競争社会・過剰包摂社会におけるストレスや人間不信にそれぞれが追い詰められるライフステージにおいて、親のような包容力のある異性は引く手あまたとなる。

またそれを理解する巧みな男女は、母性や父性を必死に演出しようと振る舞う。

こうした「親ごっこ」としての恋愛において、料理を振る舞う、頭を撫でるといった行為と並んで、クリスマスを祝う行為は、幼少期の親の庇護を彷彿とさせ、子供になったような安心感を擬似的に体験できる、または親になったような支配感を擬似的に体験できる、美味しいイベントとなる。

本当はそんな所に父性や母性の本質など無いのだが、盲目的なカップルにそれを理解する脳はなく、また必要性もない。

要するに、子供時代のサンタのプレゼントと恋人のクリスマスデートは地続きなのである。

その手のカップルが結婚し出産して親になった時、循環が完成する。



●サンタをめぐる親子の欺瞞合戦


子供がサンタの正体に気付く日は、親がサンタをやめる日よりずっと早い。

しかし子供は黙っている。

半分はプレゼントを貰えなくなるかも…という打算、もう半分は親への気遣いだ。

親とてそれくらい分かっている。

分かっていても、「サンタクロースのプレゼントを喜ぶ子供」という家庭像が幸福の象徴となっている以上は、親としての面子と責任にかけてサンタを守らねばならない。

また「幸福な家庭を維持している」「子供に正しく愛を注いでいる」という自負と安心感を得るためにも、親にとってサンタは必要な儀式となる。

これは、自分がもらう側だった幼少期の思い出が、前述したカップル間の親子ごっこによって補強・美化されるせいでもある。

子供から男女へ、男女から親へ、親から子へ…

ゆりかごから墓場まで、クリスマスは全てのライフステージに寄生し、循環していく。





●「クリぼっち」概念


2010年代以降に普及した「クリぼっち」は、今や他者からの蔑称ではなく自虐的な自称として使われるのが一般的になった。

「クリスマスは恋人で過ごすもの」という偏見に加え、「恋人がいない=孤独」という偏見、カップルへのルサンチマンや過度な憧れは、それ自体が飯の種となり、アダルトコンテンツ市場、もしくはマッチングアプリ市場への単なる誘導スキームと化している。

つまり市場のカモになったのは親とカップルだけでなく、独身者も含めた全員なのである。

また、クリスマスには、パートナーのいない者同士で連帯し友達を作るため、また友達間の抜け駆けを暗に牽制する目的で、カップルへのルサンチマンを煽る言説が流布される。

これによってフリーの人達が必要以上に孤独感や劣等感を植え付けられたり、カップルがフリーの人達を1括りに嘲笑する状況が発生する。

毎年の恒例行事となりつつある「革命的非モテ同盟」によるクリスマス粉砕デモなどは、笑い事ではなく(笑い事ではなく)、そうした呪いのような構造の表出と言える。

ただの年末の24、25日を1人で穏やかに過ごす事の何がいけないのか、なぜこれほどの劣等感を人々が抱かなければならないのか、なぜカップルとフリーが対立しなければならないのか…

本当にクリスマス粉砕を叫ぶべきなのは非モテではなく、カップルの側ではないのか。



●日本人の束縛体質


「イブに1人でいるべきではない」のような強迫観念から見えてくるのは、現代の日本人が抱える束縛体質そのものだ。

恋人だからクリスマスに会わなければ、恋人だからすぐに返信しなければ、恋人だから浮気は許されない、恋人だから隠し事はするな、といった「○○なら○○すべき」という義務化は、能動性の魅力を奪ってしまう。

本来なら、会いたいから会う、話したいから話す、浮気はしたくない、秘密を打ち明けたい、といった、「したいからする」意欲の一致によって成り立っているはずの恋愛関係が、義務を守るための契約関係になる事の危うさ。

それはパートナーへの不信の表れでもある。(本当に契約がしたいなら結婚すれば良い)

これは恋愛以外にも言える。先述の親子関係の話もそうで、親だからサンタを演じなければ、子供はサンタを信じなければ、という関係には能動性がなく、どこか不気味になる。

非モテの連帯に関してもそうだ。非モテならカップルを攻撃すべき、という連帯でお互いを結びつける事のいびつさ。

ほかにも、芸能人なら誹謗中傷には耐えなければとか、女なら男なら、とかも基本的に同じ体質と言えよう。



●世界のZ世代との比較


先進諸国のZ世代の間では、多かれ少なかれ、無気力化、低消費化の流れが見られる。

アメリカのドゥーマー(DOOMER)主義、もしくはドゥーマー世代と呼ばれる層は、世界の終焉を願い、悲観的・消極的な振る舞いをする事で知られる。また中国の「タンピン族」(寝そべり族)と呼ばれる若年層を中心とした大規模なムーブメントは、最低限の消費で生活し、競争をせず、恋愛もしない生活を推奨している。

みんな競争と消費のむなしさに気付き始め、自分達でその流れを制御しようとし始めている(コロナ自粛が良いヒントになったのかもしれない)。

そうした中で見ると、日本のクリスマスは最も狂信的な消費デーであり、日本の若者文化の未熟さが際立っているようにも見える。

高度経済成長期のまま化石のように旧態依然として、日本の若者は消費社会と競争と恋愛の奴隷であり続けている。



●性的自由について


「したいからする」 (あるいはしない)の尊重ができないカップルには、性的自由もない。

冷静に考えてみてほしい。

「デートをすべき日」「セックスをすべき日」が必要なカップルなんて、どう見てもカップルとして終わっている。

本来いつでもお互いの気が向いた時に自由にできるはずの行為に、なぜクリスマスという口実が必要なのか。それは一方がひょっとしたら乗り気でない可能性が、頭の片隅にあるからではないのか。

拘束力がないと応じられない営みに、果たして性的自由はあるのか。それは本当に能動的な合意なのか、疑問がよぎる。




●さいごに


クリスマスに翻弄されるカップル、親子、非モテのそれぞれに共通することがある。

それは自分の幸せを自分で定義する能力の欠如。


クリスマスに会えないカップルは不幸なのか

クリスマスに恋人がいない人は不幸なのか

サンタクロースがいない家庭は不幸なのか

それは誰が決めることなのか


幸福の雛形を外部に委ねた人は不幸になる。


本来、カップルの数だけ、家庭の数だけ、人の数だけ幸せの形は違って良いし、自分達だけの幸福のあり方をクリエイトして良いはずだ。

それぞれが1人の時間を大切にする日もあって良いし、会える距離でもあえて会わずに手紙を出してみるのも良い。

デートよりゲーム通話している時間が幸せだというカップルもいる。

映画を一緒に観るカップルもいれば、個別に観てきて後日食事をしながら感想戦をするカップルがいても良い。

クリスマスでも誕生日でもない日にいきなり子供にプレゼントを渡す親がいても良いし、逆に高校生くらいになって突然サンタのプレゼントが枕元に置かれる日があっても良い。

仮に、ホールケーキを買えない貧乏一家がパンケーキを焼いて皆でつついていたとしても、寒空の下ホームレスがワンカップで祝杯をあげていたとしても、

消費的に劣るそれを「劣った幸福だ」と定義する権利は社会にはない。当人達が楽しければ立派な幸福たりえるはずだ。


幸福を定義する権利を、1人ひとりが取り戻していく必要がある。

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