第4話

「本当によかったのですか、あれで」

 休日の午後。私、鮫川冴子――今はもう桜庭さくらば冴子ね――は、喫茶店で霧島さんと向かい合っていた。夫……元夫の康太との離婚は先日無事に成立した、裁判を経ることなく。

 今日は霧島さんに改めてお礼をしようと思い、こうしてお茶の席を設けたのだ。

 先ほどの霧島さんの質問に、私は少し間を空けてから答えた。

「よかったんです、あれで」

 あの日、彼がクローゼットの中から撮影した、康太との一部始終を収めたビデオ。あれを持って警察に行けば、康太の罪を問うことも十分にできたらしい。けれど、私は康太を刑務所に送りたかったわけじゃない。離婚できればそれでよかった。

「康太の不倫……私にも少なからず責任があったと思いますから」

 私は未だ左手の薬指にはめている指輪に目を落とす。

 結婚したばかりの頃は夫婦円満だった。少なくとも、大きな問題が浮き彫りになることはなかった。

 けれど、いつからか二人の歯車が上手く噛み合っていないことに気づいた。私は何とか修復を試みた。私に女としての魅力が足りないのかと思って、テレビで美容について学んだり、香水も試してみたりした。

 だが、どうにもならなかった。結局康太が不倫をやめることはなかった。不倫について私に全く非がなかったとは言えないだろう。

 けれど、私の返答を聞いた霧島さんは、

「それは違います」

 私の考えを一蹴した。

「悪いのは全面的に鮫川さんです。あなたは一切悪くありません。一から十まで被害者です。不倫は、不倫するほうがすべて悪いのです。これは絶対です」

「……どうして、そんなことが言えるんですか?」

 私の問いに、彼ははっきりした口調で言った。

「不倫は、絶対的な悪だからです」

 答えになっていないと思ったが、彼の口調にはそれ以上有無を言わせない、ある種の迫力があった。

「名刺を渡すのを失念していました」

 彼は胸ポケットから一枚の名刺を取り出し、テーブルに置いた。

「……『不倫成敗人』?」

 見慣れない肩書に、私は首を傾げる。

「不倫をこの日本からなくすこと。それが私の使命です」

 彼の目は真剣で、冗談で言っているようには見えなかった。

「探偵事務所の人じゃなかったってことですか?」

「探偵事務所の人です。と言っても、勤めているのは私だけですが。不倫を専門にした探偵事務所だとお考え下さい」

 なるほど……?

「私の依頼を受けてくれたのも、不倫だったからですか?」

「はい」

 あの日、康太の不倫現場を撮影した後、霧島さんと私は二手に別れた。

 霧島さんは私から受け取った家の鍵でマンションの部屋に入り、クローゼットに身を潜めていた。康太が帰宅したとき、すでに霧島さんは部屋にいて、康太の様子を窺っていたわけだ。

 一方で私は、撮影した不倫現場の写真をコンビニで印刷して、近くの喫茶店で時間を潰していた。夕方、部屋にいる霧島さんから康太の帰宅をメールで知らされたものの、中々帰宅する勇気が持てず、帰ると決断するまで時間を要してしまったが、気持ちを奮い立たせて帰路に就いた。

 玄関のチャイムを鳴らすとき、鍵をなくしたという私の発言に康太が疑問を抱かないのかは、一つの賭けだった。

 家の鍵をなくす――それは防犯上かなり危険な失態である。怒り狂った康太に、「鍵が見つかるまで帰ってくるな」と一喝される可能性もあった。

 幸いにも、康太は私の不倫疑惑のことで頭がいっぱいで、すんなりと家に通してくれたが、もし家に入れてくれなかった場合は、マンションの廊下で私が大声で子供のように駄々をこねる計画になっていた。……恥ずかしい思いをしなくて本当によかった。

 多少乱暴だが、これらはすべて、離婚を成立させるために霧島さんが立ててくれた計画だった。

 康太が私に襲い掛かっているところを撮影するのはどうかと提案したのも、彼だった。康太が離婚を渋ったときに脅しに使えるとの理由で。

 帰宅後、私は敢えて康太を挑発するような発言を心掛けた。どんなに口で酷いことを言っても、康太が私を襲うはずがない――康太を信じたいという気持ちもあって、彼の作戦に乗ることにした。

 結局、康太は私に包丁を向け、首を絞めてきたけれど……。

 私は自分の首筋に手を当てた。

 首を絞められたときの感触が、今でも残っている気がする。

 向かいの席に座る霧島さんは、自分で注文しておきながら、コーヒーをひどくまずそうに啜っている。変わった人だ。

「どうして不倫を専門にした探偵になろうと思われたんですか?」

「昔、私の元妻が不倫をしたからです」

 元妻の不倫。

 人によっては口にしづらい話題だろうに、彼は躊躇う風なく告げた。先ほど不倫を「絶対的な悪」だと言い切ったのも、元妻との不倫が関係しているのかもしれない。

「それは、何と言ったらいいか……」

 思わず彼を慰めようとしている自分がいた。不倫をされたのは私も同じなのに。

 つい笑みが零れた。

「……どうかしましたか?」

 と、霧島さんが不思議そうな顔をして訊いてくる。

「いえ、ただちょっとおかしくなってしまって……」

 笑うと少し気持ちが楽になった。

 私は注文していた紅茶をぐいと飲み干して、

「今回は本当にお世話になりました」

 と、頭を下げた。

「お礼は不要です。仕事なので」

 彼はそう言ってテーブルにあった会計伝票を手に取ると、席を立つ。

「あ、支払いは私が」

 先日のお礼にと彼を誘ったのは私だ。支払いは当然私がするべきだろう。

 けれど、彼は言う。

「依頼者のアフターフォローも仕事のうちですから」

 ……本当に、変わった人ね。

 私はくすりと笑って、薬指の指輪を外した。

 喫茶店を出た。私たちは小道を並んで歩く。

 少し歩いたところにあったゴミ箱に、私は指輪を捨てた。

「……さようなら」

 涙は出なかった。

「霧島さん、一つ訊いてもいいですか?」

「……何ですか?」

 彼は何とも言えない表情を浮かべている。

「私を探偵事務所で雇ってくれませんか?」

 予想していた質問とは違っていたようで、彼は少し目を見開いた。

「正気ですか?」

「正気です」

「……少し考えさせてください」

「はい!」

 ――今付き合っている彼女はいるんですか?

 その質問は、もう少し先にとっておくことにしよう。

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不倫の疑惑 まにゅあ @novel_no_bell

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