第3話
夕方。家に帰ると、冴子はまだ帰ってきていなかった。今も霧島と最高級のラブホテルでお楽しみ中なのかと思うと、腸が煮えくり返る。
新婚旅行の写真が入った写真立て、結婚祝いにもらった掛け時計、結婚して一年を祝って買ったお揃いのグラス――家中の色んな物を、怒りに任せて手当たり次第に壊していく。
「はあ、はあ、はあ――」
動き回って息が切れた。
天井の電灯を見上げながら呟く。
「いつまでも調子に乗れると思うなよ」
不倫がバレたときの冴子の狼狽えた顔を想像しながら、俺は舌舐めずりをした。
冴子が帰ってきたのは、十八時を回った頃だった。
俺が居間でくつろいでいると、玄関のチャイムが鳴った。冴子は家の鍵をどこかでなくしてドアを自力で開けられないと言った。ドジな女だ。無視してドアの外に放置しておくことも考えたが、彼女に話もある。
俺は仕方なく玄関ドアの鍵を開けにいった。
「ただいま」
そう言う冴子に背を向けて、俺はわざと大きな足音を立てながら居間に戻った。
少しして冴子も居間にやってきた。
居間の惨状を目にした冴子は、一瞬言葉を失った様子だったが、
「……どうしたのよ、これ」
「ちょっと運動したくなっただけだ」
俺は椅子にふんぞり返り、にやにやと笑いながら答えた。
冴子はこれ見よがしに大きなため息をついてから、床に両膝をつく。
四つん這いになって片づけを始めようとする彼女に、俺は言った。
「今日はどこに行ってたんだ?」
冴子は俺の質問に束の間手を止めて、
「……別に。買い物に行ってただけよ」
そう言って、部屋の片づけを再開する。
「しらばっくれるな!」
俺はテーブルを拳でドンっと叩いた。
大きな音が鳴って、冴子が体をびくりと震わせた。
冴子の反応を楽しみながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「お前、男と会ってただろ」
「……何の話?」
「だから、しらばっくれるなと言ってるだろうが!」
再び俺の怒号が居間を震わせた。
「証拠は挙がってるんだよ!」
俺は胸ポケットから一枚の写真を取り出し、床に這いつくばっている冴子のもとに放り投げた。投げた写真は冴子の目の前の床に着地した。
「これを見ても、まだしらばっくれる気か?」
冴子が霧島とラブホテルに入っていくところを撮影した写真だった。帰宅する前にコンビニで印刷しておいたのだ。
さあ冴子、もう言い逃れできないだろ。
「彼とは何もないわ。歩いていて気分が悪くなったから、少し休憩するために寄っただけ」
この期に及んでも冴子は霧島との関係を認めようとしなかった。
俺は再度テーブルを拳で力強く叩いた。
「ラブホテルだぞ! そんな言い訳が通用するわけがないだろ!」
「近くで休めるところがそこしかなかったのよ。あの辺りにそういったホテルしかないのは、あなたもよく知っているでしょう。仕方がなかったの」
舌の回る女だ。俺の収入に頼らないと生活できない寄生虫のくせに。
俺は立ち上がって椅子を蹴飛ばした。
椅子は大きな音を立てて床に倒れた。
「ちょっと、何するのよ」
「人が温厚に話をしてやってるからって、いい気になってんじゃねえぞ!」
俺は前もって隠し持っていた包丁を冴子に向けた。
「本当のことを言え! 不倫だろ! 俺に黙ってその男とイチャコラしてたんだろ! 他にも不倫相手はいるのか? 何人だ! 何人の男と寝た!」
けれど冴子は怯まず、俺の目をまっすぐに見て言った。
「不倫をしているのは、あなたのほうでしょう?」
「……は?」
俺は一瞬言葉を失った。
「な、何を言ってる! 俺が不倫? 馬鹿なことを言ってんじゃねえぞ! 撤回しろ!」
俺は包丁を持って冴子に近づいた。脅すつもりだったが、冴子は引かなかった。
「手、震えてるわよ。図星なんでしょ」
「う、うるせえ!」
俺は唾を飛ばしながら大声を出した。
それでも冴子が怯えている様子はない。
「証拠があるのよ」
彼女はそう言って、手提げ鞄の中から二枚の写真を床に置いた。
一枚は俺と美佐子――会社の部下――がラブホテルに入ろうとしている写真。もう一枚は俺と美佐子がラブホテルから出てきたところを撮った写真だった。
「……なんで、お前がこんなものを……」
不倫を認めたも同然の発言だったが、このときの俺には取り繕う余裕がなかった。
「お前はあの時間、霧島とよろしくやってたはずだろうが!」
二枚の写真は、今日撮られたものだったのだ。写真の右下に日時が記載されている。一枚目は十一時八分、二枚目が十五時三十三分。俺は今日夕方に帰宅するまで、美佐子とラブホテルで会っていたのだ。
写真に写る俺たちの様子は、俺の記憶とも合致している。日時を改竄したわけではなさそうだ。
「あなたの尾行にはとっくに気がついていたの。私と霧島さんはラブホテルに入るフリをして、あの後すぐに引き返したのよ。意気揚々と不倫相手に会いにいくあなたを尾行するためにね」
そんな、馬鹿な……。
「なんで俺が美佐子に会いにいくと分かった!?」
「普段は慎重だけど、あなたは怒ると後先考えずに行動する癖がある。私の不倫現場を目撃したら、あなたなら絶対に自分の不倫相手に会おうとすると思ったの、行き場のない感情を解消するためにね。怒りに身を任せたときのあなたの行動はひどく単純で分かりやすいから。まるで幼稚な子どもみたいにね」
怒りで気が狂いそうになったが、必死に堪えた。
「……前から俺の不倫に気づいてたってことか?」
「ええ、一年ほど前からね」
俺が美佐子と付き合い始めた頃だ。冴子は最初から俺の不倫に感づいていたのか。
「仕事だと言って帰りが遅くなるときは、たいてい彼女と会っていたのでしょう?」
図星だった。ここのところは仕事帰りに毎晩のように美佐子に会いに行っていた。昨夜もそうだった。
「……よく分かったな」
「何となくね。決定的な証拠はなかったけど。普段のあなたはとても慎重……悪く言えばひどく臆病だったから」
「臆病だと! 馬鹿にしてるのか!」
だが冴子の言う通り、普段の俺が美佐子との不倫が周りにバレないように気をつけていたのは事実である。会うときは仕事場や自宅から離れた場所にしたり、ホテルに行くときは別々に部屋に入るようにしたりしていた。
「あなたの不倫は中々に尻尾が掴めなかった」
けれど、今日だけは違った。仕事中の美佐子を電話で無理やり早退させて呼びつけ、ホテルのそばで会ってしまった。あのときの俺は、冴子が不倫していると思い込み、頭に血が上って、冷静な判断ができなくなっていた。
冴子は続けて言った。
「不倫の明確な証拠を掴むために、私は探偵事務所に相談することにしたの」
「……それが霧島か」
冴子は頷いた。
昨夜、俺が霧島と会ったのは偶然ではなかったのだ。
霧島が電車で俺の向かいの席に座っていたのも、スマホを座席に置き忘れたのも、電車を降りる前に俺が声を掛けたのに反応がなかったことも、すべてわざとだった。冴子とのツーショット写真を俺に見せ、不倫の疑惑を抱かせるのが目的だったのだ。
「不倫を疑った俺が、今日お前の後をつけることもお見通しだったってわけか?」
「ええ。あなたは自分が不倫をするのはオーケーでも、私が不倫をするのは許せない――そういう自分勝手な人だから。きっと私の不倫現場を押さえようとするに違いないと思ったの」
俺は冴子と霧島の手のひらでまんまと踊らされていたってわけか。
不倫の現場を押さえるつもりが、まさか逆に押さえられてしまうとはな……。
冴子は鞄の中から一枚の紙を取り出した。
「サインして頂戴」
離婚届だった。冴子の名前の欄は記入済みである。
「これ以上、一緒にいられないわ」
冴子の目は本気だった。
俺は離婚届を受け取った。
ほっとする冴子の目の前で、俺は離婚届を真っ二つに引き裂いた。
「却下だ」
唖然とした表情を浮かべる冴子に、俺は言う。
「お前は俺のものだ。一生俺のもとで生きるんだ、奴隷のようにな」
「……こっちには不倫現場の写真があるわ。裁判に持ち込むこともできるのよ」
「俺を脅すつもりか。お前も随分生意気になったな」
冴子は黙ったままで、俺に憐憫の目を向けてきた。
その眼差しが癪に障り、我慢の限界を超えた。
俺は手に持っていた包丁を振りかぶった。
離婚を諦めるまで、たっぷりと可愛がってやる。
これから冴子の苦悶の表情が見られると思うと、胸がすっとした。
だが、俺の思い通りにはならなかった。
突然に背後でバンっと大きな音がしたかと思うと、クローゼットから勢いよく人影が飛び出してきた。
そいつは俺に向かって突進してくる。俺は包丁を構えながら、そいつの名前を呼んだ。
「――霧島ぁあああっ!」
現れたのは霧島だった。霧島は黒いジャケットに、黒のジーパンを履いていた。
包丁で斬りかかろうとするが、霧島のほうが早かった。
霧島は素早く腕を振るって、俺の手首に裏拳を放つ。
「ぐっ!」
俺は痛みで包丁を床に取り落としてしまう。
慌てて拾おうとしたが、近くにいた冴子が手で包丁を遠くへと払ってしまう。
「冴子ぉおおお! 貴様ぁあああ!」
怒りで視界が真っ赤に染まった。両手を突き出して冴子に向けて駆け出す。
冴子の首を両手で掴み、思い切り締め上げる。
冴子の口から苦悶の声が漏れる。
「はは! ははは!」
脳内でドーパミンが分泌されている感覚があった。俺はハイになっていた。
だが、その快楽も一瞬だった。
側頭部に衝撃があった。
視界が揺れて、全身から力が抜けた。
気づいたときには、俺は床に転がっていた。
「軽い脳震盪です。命に別状はありません」
頭上から霧島の声が聞こえた。目だけで彼の姿を探す。
「冴子さんへの暴言や先ほどの暴行、すべて録画しています。裁判を起こせば、間違いなく鮫川さん、あなたに不利な証拠となるでしょう。不倫以外の件でも罪を背負うことになるかもしれませんね」
霧島は小型のビデオカメラを掲げた。クローゼットに隠れていたときから撮影していたのだろう。
「どうしますか、離婚届」
破れた離婚届を、霧島が俺の眼前に突きつける。
「サインしますか?」
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