飲み物と私

@medamaya666nui

飲み物と私

 水を飲む回数が多くなったと気付いたのは、意外にもつい最近だった。そういえば、以前はいつも病院に毎回氷を入れた水筒を2個は持って行っていた気がする。氷が水筒の中でカラカラと鳴るので、先生は「氷の音するね」とよくコメントしてきた。

 私は高校生から鬱病と闘っており、10年以上薬を飲み続けている。同じ病院にかかり、統合失調症を抱えながらもその医院で医療事務の仕事をしている姉によると、水を飲みたくなるのは薬の影響らしい。私のおば(母の姉)も統合失調症で、おばを常に近くでみてきた元看護士の母は「おばさんもよく水がぶがぶ飲んでたよ」と教えてくれた。

 飲む回数が増えたということは、必然的にトイレの回数も増えるということだ。最近はトイレにもよく行くので、この歳(もうすぐで三十路である)でありながら、いっそ垂れ流す用のオムツでも買おうか、と思うこともしばしばである。それか、ここで書くのもはばかれるのだが、トイレが面倒なので、ボトラー(ペットボトルにアレを溜める行為を日常的にする変態のことを指す)にでもなろうかと思ったほどだ(それは女子として、というより一人の人間としていかがなものかと思うので、さすがにやっていない。当然だ)。

 私は外で働くことが難しい自称・社会不適合者なので、家族に支えられながら家でライターの仕事を掛け持ちして何とか貯蓄しているのだが、仕事中、常に横にあるものも「飲み物」である。

 少し前はカルディで紅茶を買うことにハマっており、色々な紅茶を試していた。が、ある時ふと寄った地元(ド田舎)のごく普通のスーパーでも、紅茶が売られていたことに気づいてからは(しかも結構な種類が凄腕バイヤーにより揃えられていた)、わざわざカルディまで行って紅茶を買う必然性を感じなくなり、紅茶を飲む頻度が激減した。

 その代わり、私は母が淹れる珈琲にハマるようになっていた。

 昔私は、砂糖とミルクをどっさり投入しないと飲めないようなインスタントコーヒーしか知らなかった。それを飲めば必ずと言っていいほど、お腹がぎゅるると恥ずかしい音を出すし(しかも大抵皆が無言の時に鳴るのでマジで気まずい)、どんなに砂糖とミルクの力に頼っても飲めないほど苦手だった。しかし、珈琲好きの母が豆から淹れる本物の珈琲の美味しさに出会ってからは、いつの間にか珈琲中毒者になっていた。

 朝起きて、細菌だらけの口内にまず珈琲を一杯ぶち込み、昼頃に仕事をのろのろと始めてまた流し込み、3時くらいに眠気を振り払うかのようにまたまた流し込み、その30分後くらいについでに流し込む。それが毎日…とはいかないが、多い時は1日に数回は珈琲の苦さに喉を潤している。いわゆるカフェインのドツボにハマった訳だ。

 むろん、それが健康的な生活かはわからない。カフェインは、中毒になると少なくとも良いとは言えないだろう。私もカフェインで身体まで悪くしたくはない。しかも珈琲には頻尿効果もあると聞く。これでは私の人生の主戦場がトイレになってしまう。トイレの花子さん化する日も近いだろう。そんな風に都市伝説として自分の人生をさらされるのはごめんだ。

 と、いうことで最近は珈琲をほどほどに抑えている。ただ、仕事の時に、片手に何か飲み物があるということは、仕事への不安を常に持つ、私の支えでもある。横にチラッと映るだけで良いのだ。珈琲でも紅茶でも牛乳でもチャイでもポタージュでもおしるこでも良いのだ(ちなみに尿は駄目である。何がちなみにだ)。何もなければ、白湯でも水でも良い(世界を見れば飲める水があるだけ非常に有難いことなのだが)。

 ただただ「飲み物」がそこにある。その脇役感。その控えめさ。でありながら、生きるために基本的な部分で活躍してくれているのが、飲み物という存在なのである。

 そんな飲み物みたいな存在に、私もなりたいと思うことがある。脇にチラリと映るだけでも、誰かにとって生きる力になれることってなんだろう?基本自分のことしか考えない人間だが、最近そう想いを巡らす。

 絵?詩?手芸?洋服作り?歌を歌うこと?好きなことを並べてみたが、わからない。私の生み出すものに何の価値があるのか。一つもないように感じる。どうせXやインスタグラムに載せても、数件「いいね!」が押されるだけである(押してくれた方には悪いが、むしろ、駄目だね!を押して欲しいくらいなのだが…)。

 だが、その赤いハートマークの先に、スマホ画面をタップした生身の人間の指がある。一瞬でも、何か良さを感じられ、心を一ミリでも動かされたこと自体に、何か意味があるのではないのか?

 まあ、いいね!などは特に意味もなく付けている人がほとんどだ。なので、そこに意義や生きる価値を見出すなど、自意識過剰の何者でもない。だが、いいね!とわざわざ付けてくれた、その心そのものが私は素直に嬉しいし、感謝している。

 正直、私には価値がないと思いながら生きている。だが、価値などなくても生まれてきてしまったんだからしょうがない(命を掛けて生んでくれた母がいることは忘れてはいない)。

 主食ではなく、飲み物程度の生き方、つまり端っこで生きることしかできない、「自分」という小さい存在。だが、飲み物が救う命だってあるのだと、近頃は考えたりもしている。

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