こんな私にも家族がいました

@kikurindayo

第1話


「黙祷やめ」

少し低い女性のアナウンスが沢山の人が立っている駅前の広場に響き渡る。今日は太平洋戦争(大東亜戦争)終結から40年がたった1985年8月15日だ。

「おじいさん!」

「なんだね、坊ちゃん。」

見知らぬ子が話しかけてきた。私は少し不思議な趣を感じた。

「おじいさんは戦争に行っていたの?」

純朴そうな子はそう言った。

「あぁ、行ったさ。」

あの忌まわしい記憶を遡りながらそう答えた。すると子供はこう言った。

「会ったことはないけど、僕のおじいちゃんも行っていたんだ。」

子供がそう言うと、私は汗が額に落ちるのを感じた。同時に何故か寒気がした。そう41年前と同じように。

「坊ちゃん、きみのおじいさんの名前わかるかい?」

何故か淡い期待と不快感を覚えながら尋ねた。子供は一瞬考え答えた。

「えっとー、きむら、よ、よしお!きむらよしお!」

頭が一瞬真っ白になった。

「ありがとう。」

子供はきょとんとした顔をこちらに向けた。私は子供の頭をポンッと撫でて500円を渡しその場を去った。家への帰り道、私は頭から木村義男の名前が離れなかった。あぁ、昔の記憶が蘇っていく。


私は逃げるように家に帰ってきた。帰ってくると妻が昼ごはんを作っていた。

「あなたおかえりなさい。」

「ただいま、もう40年か。」

「そうですねぇ、平和な世の中になりましたねぇ。」

妻に苛立ちを覚えた。私は常にこう思っている。平和とは戦争と戦争の間にある一瞬の楽園でしかない。過去人類は幾度もなく戦争の過ちを犯してきた。その度に人類の文明は発展し、進化した。またいつか戦争は起きるだろう。口から出そうになったが、やめておいた。その方が身のためだろう。妻は怖い。

「今日古い友人の孫にあったんだ。」

「あらそうなのですか、だれです?」

「古い友人だよ。古い、、、。」

妻はすこしためて

「そうですか。」

と言った。妻は知らない。あの日のことを。

私の名前は國松貞男、69歳だ。今はもう退職して趣味の釣りに没頭している。妻とは終戦後35歳の時に結婚した。私は旧海軍の元パイロットだった。この手でアメリカ軍の兵士何100人も殺した。今でも夢にでてくる。記憶から消してしまいたい。あの4年間を。でも、今日だけはあの4年間をあの日のことを思い出して飲もうと思った。今日だけは戦友のことを、愛した者たちのことを、家族のことを、思い出そう。


時は1941年11月26日、私は大日本帝国海軍の零戦に搭乗するパイロット、階級は少尉だ。少しだけ私の経歴を話そう。私は兵庫県明石市出身で1932(昭和7)年に海軍飛行予科練習生(予科練)に第3期生として入隊した。同期は157人いた。入隊の日周りの同期の屈強さに圧倒されながら横須賀の門をくぐった。予科練生の1日はとにかく早い。午前5時になると起床ラッパと共に当直の練習生が

「総員起こーし」

と号令をかける。今日の当直は芦田正男。同郷の友だ。同郷はこの芦田以外にももう1人いる。木村義男だ。特にこの2人とは切磋琢磨し合い仲が良かった。予科練は全国各地から10000人を超える応募がありその中から選ばれた157人が訓練の日々を送っている。もちろん嫌なやつもいた。良い奴が多かったが特に北海道出身の田島雄太には毎回腹が立った。いつも寂しそうだった。本当に色んなやつがいた。喧嘩もたくさんした。毎日がしんどかった。しかし楽しかった。同期の絆は固く一生の仲間だと思った。こうして1935(昭和10)年5月予科練を卒業した。各々各地域の航空隊に配属された。私は館山海軍航空隊に配属となった。田島雄太も同じだった。

「田島これからもよろしくな。」

「おう」

冷たい奴だ。しかし何か訳があるのかもしれない。またいつか聞こうと思った。

私が乗っている航空機は九六式艦上戦闘機だった。と言ってもすぐに乗らさしてもらった訳ではない。練習機などを経て1936(昭和11)年に正式に九六艦戦に搭乗した。

1936年2月25日私は帝都、東京にいた。海軍省に行く用事があったためだった。書類などを整理し明後日には帰ろうと思っていた。私はその日の夜少し東京の街を歩いていた。23日には大雪だったので積もっていた。なんだか物静かな街だった。嵐が来る前のようだった。宿に帰りすぐに寝た。5時に目が覚めた。外がなんだか騒がしい大勢が走る音がする。外を見ると陸軍の部隊が展開している。何事かと思った。宿は靖国にも近く侍従長官邸が近くにあった。5時10分頃侍従長官邸の方から銃声が聞こえた。その時理解した。陸軍が決起したと、その頃の日本では陸軍、海軍どちらも派閥に分かれ激しい争いがあった。陸軍は四つに分かれていた。

1.宇垣派

2.満州派

3.皇道派

4.統制派

大正時代末期主流だった宇垣派は軍縮を通し軍備の近代化を図り支那及び英米とは協調を目指した。満州派は石原莞爾陸軍中将や板垣征四郎陸軍少将などで構成されており満洲派は親支那・反ソ連であった。皇道派は北一輝に影響された反宇垣派である真崎甚三郎陸軍大将や荒木貞夫陸軍大将などで構成されており天皇親政の下での国家改造(昭和維新)対外的には対ソ連を志向していた。統制派は東條英機陸軍大将、永田鉄山陸軍大将らが率いており陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指していた。海軍では艦隊派と条約派で対立していた。まぁそれはいい。特に皇道派と統制派が対立しており両派の対立は1934年11月の士官学校事件、1935年7月の林銑十郎陸相による皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭、同年8月、その更迭の推進者と目された永田鉄山軍務局長が相沢三郎中佐に白昼斬殺された相沢事件などが挙げられる。そしてそこに皇道派青年将校の牙城である第一師団の満州派遣が決定されたため、青年将校たちは武力蜂起を決意したのであった。

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