第7話 腹部の宝石
藤(ふじ)見(み)俊(しゆん)太(た)はとくに何の目的もなく、夜道を歩いていた。季節の変わり目の所為なのか、震える手をポケットの中にぐっと突っ込む。
すでに霜(そう)降(こう)を迎え、九月終盤までしぶとく声を上げていた残暑もこの頃になれば、跡形もなく浄化し、一気に冷気が流れ込む。この気温差に困惑し、一ヶ月前の残暑が幾何か恋しくなってくる。
だが、藤見がぐっと一心不乱にポケットに手を突っ込んでいるのは、単に寒さの所為だけでなく、元元藤見は小心な人間ゆえに、寒かろうが暑かろうが、両手をポケットに突っ込む癖みたいなものがあるのだ。
とくに今日に限っては、ポケットにまるで両手を押し付けるように入れており、肩を縮ませ細い棒のような見た目になってしまっている。冬と嘯(うそぶ)くには、まだ早いというのに――。
ここら辺は、コンビニや自販機すらなく、この薄暗い道を照らすのは外灯のみで、そんな中でポケットに手を入れながら、トロトロと歩いている藤見の見た目は、不審者でしかなく、さすがに警察のご厄介になりたくない藤見は、早くこんな人気のない所から離れようと若干、歩く速度を上げた。
そうして早足になり、ふと、視線を前に向けると、明らかに柄の悪そうな男がこちらを睨んで近寄ってきた――否、ただ普通に歩いているだけなのかもしれないが、明らかにヤクザみたいな風貌に加え、サングラスをしているためか、まるで今にも自分に因縁を付けてきそうなそんな雰囲気があったのだ。
まあ、別にこちらが何かをしたわけではない。だから目を合わさず、さっさと素通りするのが得策だろうと考え、藤見は目を俯かせながら、そそくさと、その男とすれ違おうとした。
だが、藤見が恐怖に戦くのはその男を横切った直後だった。なんと、その男の後ろに三十代ぐらいの女がおり、白い服を着ていた所為なのか、一瞬、幽霊かと勘違いしたが、良く見てみると、ちゃんとした生きた人間だった。だが、どちらにせよ不審であることには変わりない。その女を不審に思った藤見はそちらの方へと目をやった。
すると、女はまるで蛇のように尖った目を藤見に向けた。その恨めしそうな表情を見た藤見は、思わず「ひ!」と、吐息のような声を漏らした。
しかし、真の恐怖を目の当たりにするのは、さらに後だった。
なんと女の手には、刃物が握られており、それを月光が照らし、刃の部分が光っていたのだ。
そして、女はその刃物を持って、こちらに走ってきた。
藤見は一瞬刺されると、恐怖し、思わずぐっと目を閉じたが、女は藤見の隣を勢い良く横切り、そして、その手前にいる男に向かって行ったのだ。
「ぐ、ああぁぁぁ!」
と、男は濁った声を発した。腹部からは血が滴り、衣服を赤く染めていた。
そして男は、そのまま倒れた。
男は即死だった。
たまたま近くにいた藤見が警察と救急に連絡を入れたものの、救急車が到着した頃にはすでに、男は苦悶の表情を浮かべて、そのまま絶命したのだ。
これが男の最後だと思うと他人事とはいえ、些か虚しさを感じた。
「それでは、女が突然刃物で男を刺した――ということで宜しいんですね?」
そう事件を担当することになった竹中は、藤見に云った。藤見は深刻そうな顔で「はい、そうです」と、粛(しゆく)粛(しゆく)とした態度を貫き、答えた。藤見は事情聴取など、生まれて初めてのことであり、身構えていたのだが、想像していた重苦しいものとは違い、案外、竹中とのやりとりはあっさりと終わってしまった。
竹中は、警察手帳をぱたんと閉じ、息を吐いた。
「また何かお伺いすることになると思うので、その時はまた――」
竹中の声も事件の雰囲気に触発されてなのか、やや沈み気味であった。
「はい、判りました。あ、あと、その――」
そう云って、藤見は、困ったように両手を翳した。その手は、男の血で真っ赤に染まっている。否、手だけではない。衣服も男の血で汚れてしまっていた。
「ここら辺に何処か手を洗える場所ってないですかね? さすがにこんな手で夜道を歩くのは抵抗があるので――」
恐らく、救急や警察が来るまでずっと男の側に寄り添っていた所為であろう。あれだけ血が流れていたのだ。手だって服だって真っ赤に染まる。
「ああ、そうだなぁ。あそこの角を曲がったところに公園があったから、そこで洗えると思います」
「そうですか。どうも――」
そう藤見は、頭を下げて、踵を返した。
そして、藤見の後ろ姿を見送った竹中は、視線を男の死体の入った死体袋へと移行させた。
死体からは、死体袋越しでも臭ってきそうなほどに夥しい量の血が流れており、竹中は、慣れているとはいえ、目を伏せた。
そして、鑑識の人間が竹中のところに駆けて来て云った。
「竹中さん、これが、あの男が持っていた物ですわ」
そう、幾何か皺で塗れた顔を歪めて、その鑑識は袋を掲げた。そして、その袋の中には、財布、家の鍵、更に医者から処方されたと思われる胃腸薬が入っていた。
竹中は難しそうな顔をして、「胃を病んでいたのか?」と云った。
「そうみたいですね。一応、この医者の方にも確認を取ったほうが宜しいかと思います」
「だな――。とりあえず――」
再び、竹中は死体に目をやった。するとまるで、何かの僥(ぎよう)倖(こう)を掴むかの如き表情になり、竹中は「そうだ!」と叫んだ。
そう、死体から大量の血が流れたのだ、この男を刺した犯人にも、当然、男の血がべっとりと付着しているはずである。竹中はそう直感したのだ。なので、すぐさま手の空いている警官達を巡回させ、さらに、竹中自身も怪しい人物の目撃者がなかったか、調べることにした。
そして、意外にも早く事件は解決されるかもしれない――と、竹中は内心、意気揚揚とした気持ちでいた。
司法解剖の結果がまだ出てないから何とも云えないが、目撃者である藤見の証言及び、死体の状況から、死因は腹部の刺傷と見て間違いないのであろう。
被害者である男の名前は、小(こ)泉(いずみ)俊(とし)紀(のり)。
小泉は今は、無職であるのだが、それには深いわけがあった。
実は、小泉は三日前に出所したばかり――云ってしまえば、犯罪を犯して、今まで刑務所の中にいたのだ。
罪状は強姦で、六年間入っていたらしい。
そして、その時、強姦された被害者が、新(にい)島(じま)敦(あつ)子(こ)という女性であった。また、藤見の証言からその犯人と思しき女性の風体が、新島に似ていることから、警察は新島敦子を参考重要人として捜査を開始したのだが、時すでに遅く、新島は何処かに逃亡した後だった。
これで新島は間違いなく犯人であるか、何かしらの形で事件に関与していることが確実であった。
どうにも今回の捜査は、竹中のやることすべてが後手に回ってしまっている。幸先の悪さを直感せざるを得ない。
あの事件の後、竹中は怪しい人物、とくに犯人の服は小泉の血で汚れていると勝手に思い込み、そういう人物が目撃されていないか――もっとも、そんな血の付着した人間が夜道でぷらぷらしていたら、目立ってしようがない――調べたが、まったく見つけることができなかった。
これは、明らかに竹中の失策である。なにせ、竹中は当初、犯人はすぐに見付かると――無論、決しておくびにも出さなかったが――高を括っていた。しかし、結局その竹中の慢心した態度が命取りになった。
だが、そんな過去をいつまでもいじいじと悔いていても始まらない。
竹中は、とにかく新島を探すことに全力を尽くすことにした。
――が、そんな混(こん)濁(だく)した時も僅か、数時間で終焉を迎えることとなった。
何と新島敦子が逃走は無理だと観念し、自首してきたのだ。
事件解決に躍起になっていた竹中は、些か蹈鞴(たたら)を踏むような思いになりつつも、表情を凝固させ、取調室で、剣呑な表情を浮かべている新島に「なぜ、あの男を殺したんだ?」と、訊いた。
「あ、あの男が――私を犯したからよ!」
新島は困惑しつつも語気を荒げた。まあ、訊いておいてなんだが、竹中もその返答を予測していた。しかし、本来なら訊かなくとも判るようなことであっても、ちゃんと動機を明確にしておかなければならなかったのだ。竹中には、刑事としてその義務があった。
竹中は辛(しん)辣(らつ)な表情を浮かべつつも、新島の不幸を重重察していた。だから、とくに新島を責める気にはなれなかった。否、むしろ、内心では良く名乗り出てくれた――と、褒めてあげたいくらいだったが、さすがにこの場でそんな言葉を吐くわけには行かず、竹中は敢えて、黙した。
そして、その沈黙に耐えきれず、新島はひくひくと泣き出してしまった。
「あの男さえ――あの男さえいなければ!」
そう、重重とした怨み節を唱える新島――。
それに対して竹中は、何も云うべき言葉が見付からず、「これから大変かもしれないが、気をしっかり持て、そうすればいつか報われる日が来る」と語っただけだった。
竹中は、あんたに何がわかるのよ――といった風な、罵声を浴びせられることを若干、覚悟していたのだが、新島のほうは至って素直で、言葉こそ吐かなかったが、こくこくと首を縦に振った。
事件は、竹中の思惑通り――とは行かなかったが、なんとか無事に解決することができた。
一応、今回、唯一の目撃者である藤見にも署まで来て貰い、「目撃した女はあの女か――」と確認した。
すると、藤見は「はい、間違いありません。あの女性です。顔は若干翳っていて、良く見えませんでしたが、それでも、輪郭や体型が良く似ています。何より、あの白い服が印象強く残っているので間違いないかと思われます」と答えた。
端で見ていた風間、そして、州崎も一時期はどうなることかと思ったが、無事、一件落着してほっと胸を撫で下ろした。
だが、そんな中で竹中は、何処か腑に落ちない部分でもあるのか、難しそうに喉を唸らせた。それを見た風間は「どうかしましたか? 先輩――」と怪訝そうに云った。
「ああ、被害者である小泉の腹からはあんなに大量の赤い血が流れていたんだ。なのに、何であの女の服には、殆ど血が付いていないんだ?」
そう、取調室で未だ、涙を拭っている新島の白い服を見て云った。
「仮に、黒や青といった暗い色の服を着ているのなら、目立たないからまだ判るんだが、あの女の着ている服は白だ――」
「犯行当時は、違う服だったんじゃないでしょうか?」
「だけど、目撃者である藤見は、あの白い服が印象強く残っていると云っていた――」
「それこそ、見間違えなんじゃないですか? 暗闇の中であれば、誰だって顔よりも白い服の方が印象に残ってしまいますよ。それに女性であれば、白い服を何着も持っている可能性だって充分に考えられます」
「そうなのかなぁ?」
竹中は、そう思案投げ首になる。
一応、竹中は、新島に対して、「犯行の後、服を着替えたか?」と質問した。それに対して、新島は、きょとんと不思議そうな顔をする。それを見て、何か変な誤解をされたのか――と取り乱した竹中は、挙動不審になりながら「決して、変な意味ではありません! あくまで捜査の一環です!」と云い訳がましく云った。
新島はとくに不信感を表すことなく、淡淡とした口調で答えた。
「いいえ。あの男を殺した時もこの白い服でした」
「だけど、小泉の死体からは大量に血が流れていました。見たところによるとその白い服はまったく汚れた様子がない。何か――例えば、その服が汚れないように、トリックのような物を用いたりは――」
「あの時は、とにかくあの男を殺すことで頭の中が充満していて――とても、そんな小説のような小細工を考えている余裕はなかったです」
「そ、そうですか――」
さすがに、この状況下で何かを隠しているとは、新島の態度から見ても考え難い。こうなってくると、その白い服に血が殆ど付着しなかったのは、単なる偶然か、と考える他なかった。
些か、釈然としない結果ではあるが、こうやって新島自らが、自分が犯人だと名乗り出たのだ。これで、この一件は終結である。
――司法解剖の結果を待つまでもなかったか――。
そう竹中は、難しそうな顔をした。
そして、事件解決とすれ違うようにして、司法解剖の結果が、竹中のところに流れ込んできた。
しかし、その結果を聞いて竹中は驚愕し、顔を青くさせた。
司法解剖の結果を伝えたのは風間だった。
しかし、その風間の表情からも動揺の色が露わになっていた。
「なんだって? 小泉の腹から?」
「はい、小泉の腹の中から、先日の事件で盗まれたダイヤが出て来たのです――」
風間の云う先日の事件とは、二週間前に街にある高級宝石店が宝石強盗に襲われた事件のことである。
犯人達は、あの暴腐爛顔負けの電光石火の犯行で、警察達もその犯人一味の所業に困惑させられていたのだが、その盗難品と思しきダイヤが、なんと小泉の腹の中から出て来たのだ。
一応、その宝石店の店員にその宝石を確認して貰ったのだが、店員達曰く、この宝石で間違いないとのことであった。
そうなると、どうやって小泉は犯行を犯したのか――一同はその方法が判らなかった。
事件が起きたのは二週間前――しかし、小泉はその時ずっと刑務所におり、完璧なアリバイが存在しているのだ。
なにせ、小泉が刑期を終え、出所したのは、三日前のことなのだ。
もし、本当に小泉が犯人の一味だとするなら、小泉は刑務所にいながら犯行を行ったことになる。
一応、当時服役していた刑務所にいる人間にも、刑務所内に小泉はちゃんといたか確認を取った。
当然、返事はイエスだ。
あの男は、トイレを除いては、とくに皆の前から姿を消さなかったし、刑務所内での作業を真面目に行っており、怪しい動きもなかったという。
そもそも、そんな簡単に脱走ができるのであれば、とうの昔に行っていたはずである。それなのに、刑期満了間近にして、そのような犯行に及ぶとは些か考え難い。
一難去ってまた一難――。
一件落着だと思われていた事件にとんだおまけが付いてきてしまった。
もう乗りかかった舟だ。
本来、その強盗事件は州崎が担当していたのだが、成り行きが成り行きなので、ついでに竹中もその事件に関わる羽目になってしまった。
「なんで俺まで――」
そう、竹中は苦虫を噛み潰す。
しかし、それに対して州崎は「良いじゃないか! ラーメン驕ってやるからそれくらい協力しろ」と、飄飄とした態度を取った。
面白くないと感じつつも、竹中は州崎に云われるがまま、ラーメンを驕られて、この舟に乗ってしまう。
本来、他人から驕って貰う飯は、とても美味いものなのだが、それでも、今日食べるラーメンはいつものラーメンとは違い、あまり美味く感じることができなかった。
それはやはり、今回の事件とこの一杯のラーメンの代金が明らかに割に合わないからであろう。
せめて、鰻や寿司をご馳走になったのならば、少しは竹中も捜査に対するモチベーションも上がっていたのであろうが、いつもの安いラーメンでは――店の人間に失礼な物云いだが――とても、捜査を頑張る気にはなれない。
しかし、それでも自分が刑事である以上、この事件を見て見ぬ振りもできない。だから、抵抗を覚えつつも渋渋、州崎の言葉に乗っかってしまったのだ。
だが、これでも刑事としての宿命だと思えば――。
「んで、お前の推理はどうなってるんだ?」
そう州崎はラーメンを啜りながら云った。
「推理ってほどのものでもないんだが――」
「ほう?」
竹中は「あまり当てにないでくれ」と釘を刺すが、それでも州崎は竹中の話に興味津津といった感じで目を輝かせた。
なにせ、あの藍と共に幾つもの事件を解決してきたのだ。喩え、竹中自身の力でなくとも、それなりの知識や思考力を身に付けているはずだと、州崎は踏んでいるのだ。
「まあ、仮に小泉自身に鉄壁のアリバイがあるのなら、他の人間はどうだ?」
「他の人間?」
怪訝そうに州崎は云った。
「ああ、周りにいる友人とかだ。あの男は出所した時は、ほぼ一文無しで金に困っていたはずだ。だから、もしかしたら、あの男は、友人からあの宝石を受け取ったんじゃないかと思ってな――」
「つまり、その友人があの強盗団の一味だと――?」
「ああ、そうだ」
そう得意げに竹中は云ったが、その発言を聞いた州崎は落胆したように溜息を吐いた。どうやら、その仮説は州崎も考えていたみたいだ。
しかし――。
「それはないと思うぞ?」
冷ややかに州崎は云った。それに対して、竹中は意外そうな顔で「どうしてだ?」と問うた。
「どうしてもこうしてもない。あの男に友人なんて存在は殆どいない。元元、厄介な性格であった所為か、殆どの人間は奴から離れていったんだよ。刑務所内でも奴は孤立していたらしい――」
「だ、だけど、どんな人脈があるか判らん――友人でなくとも、あの強盗団の誰かと何かしらの繋がりがあるかもしれない。もしかしたら、血縁者の可能性だって否定できないんだぞ?」
「一応、その可能性も考えて、家族の人間、そして、あの新島にも話しを聞いたんだが――」
表情に暗雲が立ち込めた。
「あの男は出所してから殆ど人との接触がなかったようだ」
「どうして、そんなことが判るんだ? 誰かが監視でもしていたのか?」
「新島だよ。あの女は小泉が出所した直後から、いつ殺してやろうかと、ずっと小泉を監視していたらしい。それこそ朝昼晩、ずっとな――」
何気に新島は執念深い女であった。その凶行に竹中は心胆を寒からしめた。
「だが、殆ど家から出たことはなく、あの晩、ようやく小泉は外に出たらしく、それを狙って新島も殺しにかかったんだそうだ。それに、あの男は出所後はずっと、実家にいた。両親もずっと部屋に籠もって、殆ど部屋から出て来なかったと証言しているよ。一度、病院に通ったそうだが、その間も、誰かとの接触は殆どなかったらしい」
その話を聞いて、竹中は州崎以上に落胆した。この事件は、明らかに自分の思考が及ぶ範囲を完全に逸(いつ)脱(だつ)してしまっている。
「じゃあ、本当にあの男は刑務所にいながら、それこそ、幽体離脱でもして、盗みに入ったとでも云うのか?」
「そうとまでは云わん。だが、確かに、今は奴が何らかの方法で、刑務所から脱走して、宝石店に何人かの人間と共に押し入ったと考える他ない」
州崎の表情はラーメンを食べているとは思えぬほどに、苦苦しく歪んでいた。竹中は大学時代、サバイバル研究会に所属しており、自給自足で三日間生活したことがあった。無論、食料も現地調達だ。その時、食う物に困ってそこら辺にいたムカデを捕って食ったことがあった。勿論、頭のほうをちゃんと切り落として、毒も抜いた。しかし、味はお世辞にも美味い物でなく、今の州崎の表情は、まさしくそのムカデを食っていた時の竹中のような表情をしていた。
因みに、ムカデを生でしかも、毒を抜かずに食うと死ぬ恐れもあるから、あまり真似をしないほうが良いであろう。
結局、幾ら思案しても、どうして、こんな摩訶不思議な出来事が起きてしまったのか、二人にはまったく想像が付かず、ラーメンを食い終わった頃には、事件のことを無理矢理に、頭の中から除外しようとしていた。
その時だ。ラーメン屋の外から、聞き覚えのある、きゅるきゅるというキャリーケースを引く音が聞こえてきた。
難事件あるところに姿ありといった感じで、颯爽――というよりも、いつものぽけぽけとした雰囲気でラーメン屋の暖簾を潜ってきた藍は、竹中と州崎の存在に気が付くと、軽く会釈をした。
「あらあら、皆さんお揃いで」
そんな藍の姿をまるで待ち焦がれていたように、二人は「どうも!」と威勢良く返した。もはや、その風体は刑事というよりも、漫才コンビにしか見えない。少なくとも、ラーメン屋の店主である田辺の目にはそう映った。
そして、藍が店内に入るや否や「どうぞどうぞ」と、漫才師顔負けのきびきびとした動きで自分達のテーブルに通した。
「あれま、ありがとうございます」
そう案内されるがままに、藍は席に着いた。
そして、藍はメニューを開くことなく、「今日は味噌バターの気分ですので――」と呟いた。すると、竹中は「田辺さーん。味噌バターラーメン一つ!」と大声でカウンターに向かって云った。
それを受けて、奥から「あいよー!」という気前の良い声が響いてきた。
「いやぁ、夏も終わり、すっかり寒くなってきましたね」
徐(おもむろ)に州崎は云った。しかし、その弛んだ口元は、明らかに何か、下心を隠している風でもあった。
しかし、藍はそんな州崎の心中には、まったく気が付かずに「そうですねぇ」と穏やかな口調で返した。
だが、州崎はまだ藍との付き合いが浅いため、どうやって、この件を切り出して良いのか判らず、隣に座る竹中に、トンと、わざを肘を当てた。そして、それを受けた竹中は苦苦しい顔で州崎を見る。
恐らく、あの件を切り出してくれ――ということなのだろうが、毎度毎度世話になっている身であるため、竹中とてそう易易とは切り出すことができない。
だが、それでも竹中も今回の事件で、藍の知恵を借りたい気持ちは多多ある。だから、ここは州崎と竹中、同時に切り出してはどうかと竹中は提案した。
そして、その案を承諾した州崎は危惧した表情になりながら、首を縦に振った。
「あの!」
二人は同時に、まるで迫るような勢いで言葉を発した。しかし――。
「いやぁ、この前は大変でした。今度はたまたま宝石強盗に出会しまして――」
と、まるで二人の心を読み取ったかのように、例の事件のことを語り出した。藍は本当に犯罪と縁がある。
そして、それを聞いて、二人の表情が一気に晴れた。
「いやぁ! それは大変でしたな!」
と、竹中。その表情は藍を労っているわけではなさそうだ。
「ええ、とてもとても――ところで、その事件は――」
「僕が担当することになったのですよ」
と、州崎。意気揚揚としているが、内心は、いつ、この話を切り出そうかと思案している。
「そうでしたか――」
――まずい、このままではこの話題が終わってしまう。
そう、危惧した州崎は、慌てて、宝石強盗の話題で繋ぐ。
「それでなのですが、藍さん!」
まるで、お見合いのように畏(かしこ)まった話し方をする州崎。緊張の所為か、若干、声が裏返ってしまっている。
「藍さんから見て、その宝石強盗は一体、どういった印象を受けましたか?」
「どういった――と、云いますと?」
ひょんと藍は、頭上に疑問符を乗っけた。
州崎はまだ、藍とはあまり話したことがないためか、いまいち空気を掴むことができず、困惑している様子だった。
その様子を見て、竹中は内心、やった――と思いつつフォローをするために、例の事件のことを話し出した。そしてそんな竹中の饒(じよう)舌(ぜつ)さを目の当たりにし、ぐぬぬぬ――と、悔しそうに静かに喉を鳴らす州崎。
「あぁ、そんなことがあったのですね? ですが、残念ながら、顔は覆面で隠れていたため、良く見えなかったんですよ」
藍は残念そうに云った。まあ、確かに、藍が犯人の顔――否、せめて、小泉のような風体の人間を見たのであれば、話は早かったのだが、やはり、藍も小泉のような風体の男がいたかどうかは、判断できないと云っていた。
まあ、確かに、過去に例の暴腐爛の事件を暴いたとはいえ、そこまで都合良くことが運べるとはさすがに思っていなかった。
「しかし、おかしな話ですね。刑務所にいながらにして、宝石強盗をやってしまう方がいらっしゃるとは――」
「まだ、決まったわけではありませんよ。だけど、現状だと――」
そう州崎が云った。
「はい、確かに現状を見るとどうしても、そのような非現実的――それこそ、小泉さんの幽霊が、なんてことを考えてしまいますね」
云われて、州崎が「ええ」と困惑したように相槌を打った。
「ですが、私は幾らお金に困っていたからといっても、小泉さんが強盗を行ったとはどうしても思えないのです」
「それは、やはり、完璧なアリバイがあるからですか?」
怪訝そうに竹中は云った。
「確かにそれもあるのですが、私が一番、不審に感じているのは、その男の人が、なんで、わざわざ宝石をお腹の中に隠したのか――ということなのです」
「――? 何か、不思議な点がありますかな? 犯行の発覚を恐れているのですから、絶対に見付からない場所に隠すというのは当然のことのように思えるのですが――」
「確かに、推理小説やドラマの中だけでなく、現実の世界でも盗んだ宝石などを自分のお腹の中に隠すという手法はよく用いられます。しかし、その方法の一番のメリットというのは、やはり、他の人間に絶対に明るみにならないことです。どんなに部屋など自分の身の回りを探したとしても、さすがに体内までは探せません」
「まあ、そうですね」
「ですが、この場合、明らかに警察の嫌疑などが掛かっている人間やることではないでしょうか? 少なくとも、あの時点で完璧なアリバイのある男の人には、嫌疑は及んでません。恐らく、警察もその男の人はまったくの対象外であったと思います」
「そうですね。我我もまさか、あんなことが起きなければ、小泉を疑ったりはしなかったでしょう」
そう州崎は、未だにあの出来事が信じられないのか、困惑したように云った。
「そうです。ゆえに、体内に隠すなんていう必要性がないのです。仮に何らかの手を使って、その宝石を手に入れたのであれば、そんな体内で保管などしていないで、早く何処かに売り払ってしまえば良いのです。事件がまだまだ広がっていない今、そうしたほうが安全に大金を手にできます」
藍の話を聞いて竹中と州崎は「なるほど」と頷いた。そして、藍の話はさらに続く。
「あと、竹中さんのお話では、その男の人は、医者から処方された胃薬を持っていたということでしたね?」
「え、ええ、そうですね。恐らく胃を病んでいたのだと思いますが――」
「ということは、その人は、少なからず医者に掛かったはずです。しかも、病気の内容によっては、レントゲン――或いは内視鏡なども使ったのではないでしょうか?」
「その可能性は充分にあり得ますね」
「もし、医者に行った日時などが判れば、その男の人がいつ宝石を飲み込んだのかも判ります。さすがに宝石を体内に入れたまま、レントゲンを撮ったりする人間はいませんから――」
「なるほど――」
州崎が唸った。
「ですが、やはり、私はそうなってくると、ますますその男の人が自ら進んで宝石を飲み込んだとは考え難いのです。警察から必要以上に嫌疑が掛かってもいないのに、胃を病んでいる人間が、好き好んで、異物を飲み込むでしょうか? その所為で病気が悪化する可能性だってあるのです」
「確かにそうですね」
そう、小泉は胃を病んでいたのだ。そんな人間が、果たして胃の中に宝石を入れるなどといった暴挙にも似た行動を取るのか――それは、恐らく否だ。藍も恐らくは、その点を一番不審に思っていたのであろう。
そして、州崎は勢い良く立ち上がった。
「とにかく――一度、その小泉の通っていた病院に聞き込みをしようかと思います。何か判るかもしれません」
「そうですか、頑張って下さい」
そう藍は頭を下げた。それと同時に田辺が藍の下に味噌バターラーメンを持ってきた。
白く雪のように染まった頭をボールペンでぽりぽりと掻きながら、医師は云った。
「ああ、間違いないね。確かにあの男を見たのは私だ」
医師は、小泉の写真に視線を落とし、そして、手に取った。
「その時、小泉の胃の中を見ましたか?」
州崎は剣呑とした表情で医師を見た。それを見た医師はまるで尋問でもされているかのような錯覚に陥ったのか、訝しそうに云う。
「因みに、その例の事件にまさか、私が関わっているとかおたくらは考えているのかね?」
「い、いえそんな!」
そう、隣にいた竹中は、動揺した風に云った。別に州崎は尋問や詰問をするためにここにいるわけではない。単純に小泉の当時の様子を伺いに来ているだけなのだが、早く事件を解決したい州崎の熱意が、相手に歪(わい)曲(きよく)した形で伝わってしまっているのだ。
まあ、確かに刑事にこんな風に凄まれたら、誰でも、もしかしたら、自分は疑われているのか――という錯覚に陥るのも無理はない。
竹中は苦笑しながら、冷静になれ――と、自分の肘で州崎の脇腹を叩いた。それを受けて、州崎も正気を取り戻す。
「す、すみません。決してそのようなつもりはなかったのですが――誤解を与えてしまったようで――」
再度、州崎は「すみません」と謝罪した。そう、あくまで二人は、小泉の当時の状況を訊きに来ただけ、別に目の前の医師がどうこうという話しではないのだ。
その州崎の弛緩した態度を見た医師は、訝しさは払拭できていないが、なんとか納得だけはして貰えたらしく、溜息を交え、話し始めた。
「確かに、小泉という男の体内をレントゲンで見た――。しかし、君達の云うような、宝石などまったく発見できなかったし、仮にもし、そんな物が胃の中に入っていて、尚且つそれを見逃したとなれば、医師失格だ。今すぐにでも辞職する」
その医師の熱い言葉は、刑事という役職にプライドを持っている二人を妙に奮え立たせた。恐らく、自分達が刑事という仕事にプライドを賭けているのに対して、この男も医者という仕事に己のプライドを賭けているのだろう。二人はそう思った。
だから、この男がそんな胃の中の宝石を見逃すなどといった陳腐なミスは犯さないであろうと、二人は感じた。
因みに、小泉がこの医者に掛かったのは小泉が刺された日の昼間であった。つまり、もし、小泉が宝石を飲んだのだとしたら、そのすぐ後ということになるのだが――。
「因みに、小泉の病気はなんだったのでしょう? 胃薬を処方されていたみたいですが――」
「ストレス性の胃炎だよ。彼は刑務所を出たばかりだと云っていたね?」
「はい、そうです。恐らくここを訪れる三日前に、出所したと見られます」
「ならば、まあ、それが原因でしょうな。刑務所の中はストレスの山だろうしね」
「まあ、確かにそうでしょうな」
州崎は細くなった自分の目を丸くした。まあ、どちらにせよ、あの男が刑務所に入ったのは自業自得であり、同情する余地などないのだが――。
「まあ、いずれにせよ、本当に酷いようなら、出所したばかりの彼には、些か酷かもしれなかったが、入院して食事制限をしてもらう予定だった」
「そうでしたか――」
確かに、出所して、色色美味い物を食べまくろうといった時に、入院して、しかも、食事制限まで課せられるのは酷だ。
だが、結局死んでしまっては、元も子もないのだが――。
「因みに、ストレス性胃炎は医者の目から見て、そんなに辛いものなのでしょうか?」
と、竹中。
そう、本当に胃がきりきりと痛んでしようがなかったのであれば、宝石をわざわざ飲み込むなどといった行動は本当に暴挙だ。疑われてもいないのにそのような行動に出ること自体、やはり、不信感を抱いてしまうのだ。
「まあ、実際、出所したばかりだったから、油っぽい食べ物や甘ったるいデザートなどといった物の誘惑に負けて、胃が痛んでいたとはいえ、暴飲暴食をしてしまう可能性は考慮できるし、その気持ちも判らんでもない。けど、本当に酷い人間はその食欲も削がれてゲンナリしてしまうからね」
「そうですか――。では、そんな胃を病んでいた小泉が、宝石を飲み込んだといった行為は、やはり医者の貴方から見たら、異常ですか?」
竹中は医師としての意見を仰いだ。医師は溜息を漏らし、目を瞑った。
「それも、状況によると思うがね。仮に、彼に嫌疑が及んでいて、家宅捜査一歩手前であったのなら、不思議ではない。しかし、まあ、病気の酷さにもよるかもしれんが、嫌疑も受けていない人間が胃の痛みを堪えてまで宝石のような異物を進んで飲むというのは――うーん、あまり考えられないね。胃炎の痛みだって相当のはずだしね」
「そうですか」
「私だったら、何処か見付からなそうな場所を見つけてそこに隠すがね。正直、胃を病んでいるにも関わらず、宝石を飲み込もうとは思わんよ」
そう医師は困惑したように云った。
それを聞いて、竹中と州崎は腰を上げ、「今日はどうも有り難う御座いました」と頭を下げた。
あの医師の言葉を聞いて、ますます小泉が自らの意思で、宝石を飲み込んだとは思えなくなっていた。胃を病んで尚且つ殆ど嫌疑も掛かっていないのに、そのようなことをするだろうか?
百歩譲って、何かしら――小泉を疑うような手掛かりをこちらが掴んでいたのであれば、納得はできる。そして、そんな険悪な雰囲気を小泉自身が察知していたのであれば、家宅捜査をされる前に、先手を打つということもあったであろう。
しかし、今回、あの男はそんなことをせずとも、刑務所にいたという鉄壁のアリバイが存在し、それが小泉を守ってくれている。胃を病んでいるのにも関わらず、宝石を飲み込むなどといった暴挙に出る必要性があの男にはないのだ。
「まったく、次から次へと事態がややこしくなってきやがる」
そう州崎は、苦虫を噛み潰し、自販機のボタンを押した。
今、二人がいるのは、病院から少し離れた公園だった。
別にとくに目的があったわけではない。ただ、ぷらぷらと二人肩を並べて歩いていた時に、竹中が珈琲を飲みたいと云い出したので、たまたま近くにあった公園に立ち寄ることにしたのだ。煙草も吸いたかったし、辺りに人もいないので、ゆっくりと落ち着けると思ったのだ。
二人は缶珈琲を手に持ち、子供達が散散荒らして、滅茶苦茶になった砂場に目をやった。
「最初、別別に思えた二つの事件が意外なところで、結び付いたと思ったら、さらに色色な謎を生み出してくる」
まず、どうやって、小泉が刑務所にいながらにして、宝石強盗をやることができたのか、もっとも強盗に入ったのは、小泉のみならず、複数の人間達であったから、意図的にそいつらも小泉の脱走の手助けをしたのだろうが――。
だがなぜ、そんな脱走を企ててまで宝石店を襲わなければならなかったのだろうか?
それも理解できない。刑期満了まであと、一週間と少しであったはずだ。それまで、待つことはできなかったのだろうか?
そして、強盗を終えた小泉はなぜ、わざわざ、そのまま逃走せずに、刑務所に戻ってきたのであろうか? そのまま脱走したのであれば、戻ってくる必要性はないように思える。下手したら、戻ってきた時点で、脱走などの罪で、刑期が延びていた可能性だってあるのだ。
確実なアリバイを確保するためでも、リスクが大きすぎる。
ならば、小泉が脱走した後に、誰かからその宝石を受け取った可能性だが――。これも正直考え難い。
小泉を刺した新島の話では、いつ殺してやろうかと、その時期をずっと伺っていたが、殆ど奴は家から出ることがなく、あの日、医者に出掛けた時も、こっそりと後を追ったが、そのような誰かとの接触はなく、小泉はそのまま家に戻ったという。
あの刺された夜も同じでとくに誰かとの接触はなく、目的もなく、ぷらぷらしている様子であったという。
つまり、出所してから刺されるまでの三日間、誰とも話さなかったし、接することもなかったというが――。
「ったく、どうなっているんだ」
そう、この二(に)進(つち)も三(さ)進(つち)も行かない状況に州崎は嘆くように云った。
「胃を病んだ男が盗まれた宝石を飲んで、しかも、その男には鉄壁のアリバイがあって、盗む暇はなく、そして、最後には刺し殺されて――」
無論、小泉が殺された事件はすでに、決着がついているため、わざわざこんなところで、話す意味はない。
「小泉は本当に誰とも接触はなかったのか?」
そう、訝しそうに竹中は云う。それに対して、州崎は疲れたように云った。
「あの新島という女がそう証言しているだろう? 小泉の家族だって、誰とも会ってなかったと云っているし、間違いない」
「本当にそうか? なんつーか、そこら辺がどうにも怪しいんだよな」
「どういうことだ?」
州崎は訝しそうに云った。
「殆どが新島目線であったり、小泉の家族目線であったりで、実際、そいつらが、小泉の行動を細部分まで、隅隅と監視していたのかと云われたら、果たして、はい――と云えるか?」
「それは――」
州崎はどもった。確かに竹中の云った通りだ。小泉が何処で何をしていたか――周辺にいた人間達が全部を見ていたかと云われれば、肯定できない。
だが、それでも、新島の小泉への復讐心は相当のものだったはずだ。そして、その執念に燃えた新島の張り込みもそれ相応のものだったと思える。
だから、彼女が少しもそんな節はなかったと云えば、やはりその通りのような気もするのだが――。
「確かに、新島自身も小泉が胃を病んでいたことは知っていたらしい。しかし、それでも、どのような病気だったかは判らなかったみたいだが――」
竹中は煙草に火を点した。
「だが、どちらもあり得ないとなると――」
そう、云い掛けたところで竹中は眦を決した。
「おい――確か、新島は小泉の詳しい病名は判らなかったと云ったな?」
竹中の凝固した顔を見た州崎は、訝しそうに「ああ、そうだが?」と返した。それを受けた竹中はまるで何かを掴んだような表情になり、腰掛けていたベンチから勢い良く立ち上がった。
「一人いるじゃないか、周りに気が付かれずにしかも、堂堂と接触できた人間が――」
「そ、それは一体――」
困惑する州崎。それを見て、竹中は得意げに云った。
「あの医者だ。あいつが、もしかしたら、小泉に宝石を託したのかもしれない」
「あ、あの医者って――どうしてそんな」
さすがに、そんな竹中の頓(とん)珍(ちん)漢(かん)な推理に仰天したのか、唖然とした表情になる州崎。
「あの医者が、新島の監視も及ばない場所で堂堂と小泉に接触することができたからさ。確かに、新島の監視下では、小泉に近づいた人間はいなかったかもしれないが、しかし、あの女の監視外のところで一人だけ、接触した人物がいた。それが、あの医者だ」
「確かに、接触はしたが、それはただ単に検査を受けていただけで――」
「だが、あの医者なら堂堂と宝石を小泉に渡すことができたと思わないか?」
「まあ、確かにその可能性も否定できないが――しかし、どうして」
確かに、竹中の云う通り、あの医者であれば、小泉に人目を憚ることなく、宝石を渡すことができたかもしれない。
しかし、それでも――幾ら、現状での解決が難しいからと云って、竹中の云っていることはやはり、州崎からしたら信じられない。
「どうする? 一度、あの医者徹底的に洗ってみないか?」
「――いや――」
流石にそれはないであろう――とは、口に出すことができなかった。竹中は、こうと思ったら一直線に行く男だ。
だが、やはり、竹中の推理には穴が多すぎる。単純に、あの医師が小泉に接触したという理由だけで、竹中は、あの医師を容疑者にしているに過ぎない。それはあまりにも暴論。そんなことを云ったら、あの医師のみでなく、小泉の家族――強いては、新島だってもしかしたら、接触した可能性があるのだ。
――やはり、この推理はないな――。
そう州崎は、内心で苦笑し、竹中を促そうと口を開いたその時だ――。
「あら、奇遇ですね?」
と、聞き慣れたキャリーケースを引く音が二人の耳朶に流れ込んできた。そして、その姿を見た竹中が、まるで何かを待ちわびていたかの如き、喜喜とした声を発した。
「藍さん!」
「どうも、えっと――」
しかし、そんな竹中に反して、なぜか、藍の表情には、暗雲が漂う。そして、口調を重くして、藍は云った。
「もしかして――リストラですか?」
「違います!」
そんな藍の言葉に対して、二人は声を揃えて云った。まあ確かに、男二人が公園のベンチの上で、難しい顔をして考え込んでいるのを見たら、そういう思考に至ってしまうのも判らなくはないが――。
「事件のことを考えていたのです」
その州崎の言葉にピンときたのか、一気に表情が柔らかくなった。
「ああ、そうだったのですね? 私も摩訶不思議な事件だったので、色色考えていましたが――」
「それなんですが――聞いて下さいよ! 藍さん!」
まるで鬼の首でも獲ったかのような自信に満ちた表情で竹中は云った。それを横目で見て、州崎はやれやれといった風に溜息を吐いた。
そして、竹中は自分の考えを滔(とう)滔(とう)とした口調で語る。その様子を見て、州崎は藍が内心で嗤笑していないか、心配になったが、藍から出て来た言葉は非常に意外なものだった。
「あれま、奇遇ですね。実は、私も同じことを考えていたんですよ?」
そう藍は嬉しそうな表情で、ぽんっと手と手を合わせた。
「ほ、本当ですか?」
「ええ。確かに、突然、胃の中に宝石が沸いて出るなんてことは絶対にありません。かと云って、小泉さんが盗んだ――とも考えられません。刑務所にいたという鉄壁のアリバイがありますしね」
州崎は危うい表情になる。無論、藍の云うことが全て正しいというわけではないのは、百も承知だが、それでも、藍は常に自分達の予測の遙か上を行った推論を、その頭脳で導き出してきた。
そして、そんな藍が竹中の推理に同調するようなことを云っている。別に、竹中に同調すること自体、そこまで悪いわけではないのだが、よりにもよって、あの藍が、竹中のこの暴論に同調するなどとは夢にも思わなかったのだ。
藍の表情はいつも通り、ぽけっと間の抜けたものだが、それでも冗談を云っている雰囲気ではない。
「そうとなれば、やはり、宝石を誰か託された――と考えるのが必然です」
「まあ、確かにそうですが――」
州崎はやはり、釈然としない様子である。
「ですが、そうなってくると今度は、なぜ、小泉さんが宝石を飲み込んだのか――という疑念が湧きます。誰かに委託されたにせよ、飲む理由はまったくないわけです」
「まあ、確かに嫌疑が掛かっておりませんからね」
それはあの医師も不審に思っていたみたいである。
「ですから、結局どちらに転んでも、疑念は拭えないわけです」
そう――だから、二人は苦戦しているのだ。
「ですが――」
藍の口調がやや低くなった恐らくこれからが本番なのであろう。
怪訝に思いつつも、州崎は固唾を呑んだ。しかし――。
「とりあえず――お茶にしませんか?」
藍はにこりと笑った。まあ、もうお約束となっていたため、大して驚きはしなかったが、それでもどこか肩すかしを食らったような感じだった。
公園に設置されている木製のテーブルに座って、三人は、いつもの洒落たティーカップを手に持ち、然もこれから優雅な談笑が展開されるかのような、そんな悠悠とした雰囲気を放っていたが、残念ながら、これからするのはそんな和やかな話しではない。
ティーカップの中に注がれた液体は青く、別に危険な液体ではないのであろうが、その毒毒しい色が、どうにも二人を躊躇させた。
「これは――一体?」
「マロウブルーです」
「まあ、確かに、見た目通りの名前ですが――」
怪訝そうにカップに視線を落とす州崎。だが、香りそのものは悪くなく、すっきりとしたフローラルな香りであった。
一見して絵の具のようだが、その香りはやはり信用に値するもので、まあ、飲んでも吐きはしないだろうと、思った二人は、恐る恐る口を付けた。
「ああ、悪くないですね。あっさりとしていて飲みやすい」
「ええ、マロウブルーはその色から身構えてしまう人がいるのですが、比較的、ハーブの中では飲みやすい部類に入る物なのです」
そう二人の様子を見た藍は、笑顔で云い、自分も口を付けて、ほっと息を吐いた。
「ですが、マロウブルーの一番の特徴はこの色なのです」
「この色――ですか?」
きょとんとした顔になる竹中。それを受けて「ええ」と相槌を打つ。
「カップの中を見て下さい。先程まで青かったのが――」
「あ、どんどん紫色に変色している!」
と、州崎は叫ぶように云った。
「これは、空気中に含まれる酸素の影響によるもので、時間が経つにつれて、徐徐に色が紫色に変わって行く特性を持っているのです」
そう、藍は紫色に変色したマロウブルーを美味そうに啜った。
そして、藍は「それだけではありませんよ?」と、キャリーケースの中から、がさごそと何かを取り出した。
それはスーパーなどに売っているレモン汁だった。
「良く見ていて下さいね?」
藍はまるでこれから、奇術を演出するような喜喜とした表情を浮かべ、レモン汁をマロウブルーの中にぽたぽたと数滴垂らした。
すると、先程まで紫色だった液体は、レモン汁が混ざったと同時に、桃色の変化し、さらに二人をあっと驚愕させた。二人は、奇術を見ているような感覚になった。
「まあ本来、食べ物や飲み物で遊ぶなどといった行為は、あまり褒められたことではないのかもしれませんが、マロウブルーはこういう風に視覚的に楽しむこともできる非常に特殊なハーブティーで、サプライズティーとも呼ばれているのです」
「確かに、これは凄い――」
竹中と州崎は、食い入るように桃色に変色した液体を覗き込んだ。
「勿論、視覚的に楽しむだけでなく、ちゃんとハーブティーとしての効能も携えております。主に鎮静――これはどのハーブにも見られるものですが、このハーブは、せきや気管支炎、さらには、呼吸器系の症状にも効果があるハーブなのです。風邪の時など、あとは、煙草の吸い過ぎで喉を病んでしまった場合にも効果があります。なので、喫煙者の方方にもお勧めのハーブなのです」
先程、竹中と州崎は、考え事をしながら、ずっと煙草を吸っていた。それゆえ、このハーブティーの存在はありがたかった。まあ、藍の話しを聞いた後だから、単なるプラシーボ効果なのかもしれないが、少し、喉の調子が良くなったように感じた。
「このマロウブルーは全体的に精神面よりも喉に対しての働きがメインであり、喉の病気を和らげる以外にも、喉や胃の粘膜を保護する働きもあり、胃炎や腸炎などの消化器系の症状にも役立ちます」
「なるほど、喉以外にも、胃の病気で悩んでいる人間も効果的というわけですね?」
「はい、そうですね。あと、マロウブルーはこの香りに反して、味はあまりありません。ですので、他のハーブ――例えば、オレンジブロッサムやレモンバームなどのブレンドも良いですし、あと、私のお勧めは、この中に蜂蜜を入れることです。そうすることによって、程よい甘さを出すこともでき、格段に美味しくなります」
藍はそう頬笑みながら云った。
何というかその説明はどこか皮肉めいたものを感じたが、竹中も州崎も深くは考えなかった。
「それで――藍さん。実際、自分の推理は正しいのでしょうか?」
と、竹中は眉をハの字に曲げて云った。いつもの藍のハーブに関する蘊(うん)蓄(ちく)が収まったのを見計らった絶妙なタイミングであった。
「良い線まで行っているとは思いますが、多分、竹中さんの云う医師の方が宝石強盗の一味というわけではありません。あの医師は今回の事件にはまったく関与していません」
「では――一体、誰が小泉に宝石を託したのですか? やはり、家族――それとも、新島ですか?」
「いいえ、その方方も白です。喩え、そうだったとしても、小泉さん自身が宝石を飲み込む意味はありません」
「じゃあ、一体――」
州崎は目を蛇のように吊り上げて云った。
「私が思うに――恐らく、小泉さんは宝石を飲んでもいないと思います。それどころか、あの宝石強盗にはまったくと云って良いほど、関与はしていないのです。ただ単に罪を擦り付けられただけの哀れな羊です」
「そ、そんな馬鹿な! な、なんで飲んでもいないのに、腹の中から宝石が出て来たのですか? そもそもまったく関与していないなんて――罪を擦り付けられただけだなんて」
そう声を荒げる竹中。そして、横の州崎もまるで埴(はに)輪(わ)のように唖然とした表情を浮かべる。
「仮に、小泉のズボンのポケット或いは、財布の中、強いては部屋の中から見付かったというのであれば、まだ判ります。しかし、宝石は小泉の腹の中から発見されたのです。そんな状況で、誰かに罪を擦り付けられたなんて――。物理的に考えても不可能だ。小泉が自発的に飲み込んだとしか考えられない」
竹中の口調はやや錯乱気味だった。しかし、それでも藍は至って冷静沈着な姿勢を崩さない。
「確かに、竹中さんの意見もごもっともです。しかし、一人だけ小泉さんの意思に反して、自分の思うように小泉さんのお腹の中に宝石を入れられた――罪を擦り付けられた人間がいるのです」
「そ、それは一体――?」
と、州崎。藍の推理は竹中以上に無茶苦茶だが、それでも耳を傾けずにはいられない。
「それは――あの事件の第一発見者である藤見俊太さんという男性です。あの方が宝石を盗み、そしてそれを小泉さんのお腹の中に入れた犯人なのです」
「そ、そんな馬鹿な! だってあの男は第一発見者で、小泉ともあの時が初対面だったはずだ!」
「はい、確かにあの時が小泉さんとの初対面であり、殆ど会ったこともないのでしょう」
「そ、そんな男がどうして――どうして、小泉の腹の中に宝石を入れることができたんですか! 否、そもそもなんで、そんなことをしたのですか?」
もう、何が何だか判らない状態で、竹中と州崎は、頭を抱えるばかりだった。
「藤見さんは非常に臆病な人間であったと伺っております。恐らくそれが原因で、あんな奇行に及んだのでしょう。仲間と宝石強盗を犯し、それで宝石を上手く盗めたことまでは良かったのです。しかし、それからが大変だったのです。その強盗事件は恐らく津津浦浦にまで知れ渡っているであろうと藤見さんは思いました」
「まあ、小心者ですから当然でしょうな」
と、竹中は鼻息を漏らす。
「そして、それが藤見さんに恐怖を植え付けたのです。そういう疑心暗鬼が邪魔して、宝石を売る勇気が出なかったのです。かと云って、無闇に捨てるわけには行かない。今度はその宝石から足が付くことを恐れたのです。ですが、ぐずぐずしていて、捜査の手が自分のところに及んでしまったら、今度は確実に家宅捜査になるでしょう。そうすれば、宝石が見付かるのは時間の問題です」
「そうですな、確かにそれは充分に考えられる」
「そして、あの夜――」
恐らく、小泉が殺された夜だ。ようやく本番に差し掛かったため、二人は固唾を呑み耳を傾けた。
「宝石をどうしようかと、ポケットの中に宝石を隠し持ちながら途方に暮れていた藤見さんの眼前であの事件が起きたのです」
「ええ、確かに、あれは藤見自身も酷く驚愕したことでしょう。なにせ、眼前であのような光景が繰り広げられたのですから――」
「確かに驚愕し、恐怖したことでしょう」
そう藍は桃色に染まった液体に視線を落とした。水面には自分の切なそうな顔が映った。
「しかし、それと同時に藤見さんにはある名案が浮かんだのです」
「名案ですか?」
「はい、それは、この宝石を小泉さんの中にこっそりと隠し、小泉さんに罪を擦り付けてしまおうという計画です」
「で、ですが、先程も云いましたが、どうやって、藤見は小泉の腹の中に宝石を? まさか、口の中から入れたなんてことはないですよね? そんなことは絶対に不可能だ。腹の中まで送り込めない。多分、喉に詰まらせて終わりだ」
「ええ、確かに、普通にお口の中から入れたのでは、州崎さんの云うように、喉に詰まらせて終わりです。しかし、藤見さんが考え出したのはもっと大胆な方法だったのです」
「大胆な方法?」
「小泉さんは、お腹を刃物で刺されて亡くなりました」
「ええ、そうです。死因は腹部の刺傷です。それが一体?」
一瞬、竹中の脳裏にあの時の悲惨な光景が浮かんだ。ゆえに、せっかくのハーブティーがあまり美味く感じられない。まあ、若干冷めてしまった所為もあるのだろうが――。
「傷と云うと判り難いですね。云い換えてしまえば、あの時、小泉さんのお腹には、刃物が刺さって、小さな穴が空いていたのです」
「ま、まさか――」
その藍の言葉を聞いた二人は声を同時に上げた。そして、藍の云わんとすることを直感的に理解してしまった。そのおぞましき真実に――。
「はい、藤見さんは、その傷口から小泉さんのお腹の中に宝石を入れたのです」
藍の口から出てくる言葉は大体予想していた。なのにも関わらず、いざ、藍の口から真相を告げられるとやはり、驚愕せずにはいられなかった。
そして、こうなってくると二人は言葉を失い、この場は藍の独壇場となってしまう。
「そう考えると、小泉さんを殺した新島さんの服にはなぜ、血痕が殆ど付着していなかったのかも説明が付きます。あんなに死体からは、大量の血が流れていたのにも関わらず――」
「何故ですか?」
驚愕のあまり、州崎は短く返すのがやっとだった。
「新島さんが小泉さんを刺した時には、そこまで出血していなかったのです。それは、刺さった刃物が栓の役割をしていて、出血を抑えていたからなのです」
「なるほど――」
と、竹中。どうやら、竹中もこの状況に返す言葉が殆どないようだ。もはや、注がれたハーブティーは半分飲んだところで、殆ど冷めてしまっており、あまり美味そうには見えない。
「ですが、それに対して、側で寄り添っていた藤見さんの服や手などはどうだったでしょうか?」
「どうだったって――」
あの時の様子を再び、竹中は思い出した。
あの男は、犯人である新島とは相反して、手を真っ赤に染め、しかも服も汚していた。それを思った竹中ははっとした表情を浮かべる。
「そうです。藤見さんが、宝石を小泉さんのお腹の中に入れるために、刃物を抜いたのです。その所為で、抑えられていた血は一気に洪水のように流れてしまい、あの出血量に加えて、藤見さんの手や服を必要以上に汚してしまったのです。そして、宝石をお腹の中に入れたら、再び刃物を刺さっていた位置に戻したのです」
これで、あの時竹中が感じていた疑念が払拭された。確かにこうなると、全ての筋が通ってくる。
「しかし、そんな藤見さん自身も罪を擦り付けた相手が、まさか、三日前まで刑務所に入っていたなどとは、夢にも思わなかったでしょうし、胃を病んでいたなんてことも知らなかったでしょう。もし、それを知っていたなら、計画を止めるかどうかは置いておいて、恐らく保留にしたはずです」
「まあ、確かに、明らかに不信感を持たれますしね」
「ええ、ですから、このような摩訶不思議な現象が起きてしまったのです。小泉さんは、鉄壁のアリバイがあるのにも関わらず、宝石を盗み出し、胃を病んでいるにも関わらず、宝石を飲んだなんてことになってしまいました。そして、その事実が捜査を攪乱(かくらん)しました」
「ええ、さすがに今回の事件――我我も頭を抱えてしまいました」
「ですが、これはすべて小泉さんの意思ではないと思うと、まるで面白いように謎が解けました。そうです。刑務所にいる人間が宝石強盗などできるはずはありませんし、胃を病んでいる人間が好き好んで異物を飲みたがるわけがありませんからね」
藍はそう最後の一口を一気に飲み干し、それに合わせるようにして、二人も冷めたハーブティーをぐっと飲み干した。
さすがに藍が自分達のために入れてくれた茶を残すのは心苦しかったのだ。
「おい、竹中。藤見の奴が自供した。これで、あの強盗共も一(いち)網(もう)打(だ)尽(じん)だ!」
「おお、そうか!」
この時、ようやく竹中と州崎の表情に笑顔が戻った。
そして、それから数日で強盗団は全員、刑務所の中に送り込まれたという。
藍愛子のお茶会 風宮雷真 @kazamiya1212
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