星は水底

沖ノキリ

ほしはみなそこ

 NASAの宇宙飛行士が開発した。確か、そんな触れ込みだったと記憶する。


 蓋すらない大きな球形の水槽に、ぽつんと一匹の小魚がいる様は、あまりにも静謐で完成された姿に見えた。


 事実、完全な生態系を維持し続ける水槽構成を「パーフェクトアクアリウム」と呼称するらしい。

 密閉されたガラスの球体の中には満たされた水と藻と生体が一匹。

 光で酸素が生成され、繁殖する藻を生体が餌とする閉ざされた循環世界。太陽光以外の外界からの干渉をすべて排除した、完結し独立した生態系だと説明にはあった。 

 なんて素晴らしい発明だと、子どもだった私と友人たちは雑誌を囲んで興奮したものだ。


 あれから数十年、私は空を見ず小さな画面ばかりを眺めている。

 かつてあこがれた透明な人工世界の魚は上手く循環したとて数年、軌道上に打ち上げられたクドリャフカは数時間で、死んでいたと知る。

 そんなことは永久に知らないままでよかった。




 スマートフォンの画面に表示された色のついた球を動かしていた私は、ふとその「生命球」という商品を思い出していた。

 窓の下にある緊急外来出入口に、また救急車が入ってくる。赤色灯の光から目を反らし、私はパズルゲームに続けた。何本かの試験管の中に入っている四色の球を、色ごとに並べ替えるだけのパズルだ。

 

 外は小さな雨で、この大きな病院では今、母が手術を受けている。

 

 がらんとした広い待合室に、手術の立ち会いだという三人家族が入ってきた。彼らは聞いてもいないのに、ひとしきり手術内容について私に語る。ついでに自分たちの病歴もだ。どうして病院では、やけに自分の病気について語りたがる人が多いのだろう。


 私は穏やかにそうですかとうなずいて、病の話を聞き流した。

 ステージ末期、悪性、再発。

 耳から肩へと降りた苦味を帯びた言葉は、背を滑り脚を伝って地に達する。持ちきれない言葉や感情は、星に受け止めてもらえばいい。私が持つ必要もない。

 大人にだって、苦いものを避ける権利はある。


 家族連れが出て行って、わたしはまたパズルゲームに戻った。

 パズルは短い時間で、人間の脳に特異な影響を与える。テトリスにはまったときなど、やり込むにつれどんどん脳と目が最適化され、異常な対応速度が身についたものだ。


 息つく間もなく降り注ぐブロックや無機質なボールは、直視したくない現実や記憶を塗り込めるには丁度いい。私はあの家族想いな三人とは違い、病気のことや手術中の母のことをあまり考えたくなかった。


 こんな私の性格を、母は時折あなたは優しくないと責めたものだ。共感力は確かに低い。冷淡で無関心、どっちでもいいし間違ってもいない。しかし、今日手術に立ち会っているのは私ひとり。

 優しい人が耐えられないことに簡単に耐えられる。ならば適役、それで十分だろう。


 暖かいものと冷たいものが衝突し混じりあって、大気や水はこの星を巡っている。きっと人だってそうだ。

 



 母の病気は、わかった時にはもう手遅れだった。

 不要不急、という言葉が強く言われていた時期。かかりつけ医で体調不良を訴える母の検査は簡易なものに限られ、結局外出先で倒れて救急車で運ばれて、ようやく病名が判明した。


 ぎりぎりだが手術出来ると医師は言った。治ることはない。しかし、手術しなければ即余命の話となる。そんな状態だった。

 何度かの検査と話し合いと説得の末、病変部の切除手術を受けることとなった。私は沢山の書類を読んでは書き、様々な公的機関に電話して、書類のやり取りを繰り返した。

 やるべきことがあるうちは、不思議と動揺はなかった。

 



 予定時間を大きく超えても、手術は終わらない。

 小雨は段々と粒を大きくして、窓ガラスを叩き始めた。私は延々と脳裡を原色の小さな球で埋め続ける。待合室には四時間おきに現れて、その都度数十分、自分の病状について電話相手に語る中年女性がいた。


 彼女は何度も「わからない」と口にする。病状の説明も検査結果の数値も検査の意味。これから自分がどうなるかも、全部わからないのだと。

 わからないのか、わかりたくないのか。


 コロナ制限下の病院とあって、付き添いや面会も厳しく制限されていた。顔を見ることすらままならぬ日々の中、声の大きな彼女は四時間毎に外と繋がることで、自分を保っていたのかもしれない。

 


 

 ――あの巨大なガラス球に閉じ込められた小魚は、孤独だったのだろうか。

 それとも、外敵の不在に安らいでいたのだろうか。

 


 アクアリウムは小洒落た趣味に見えるが、実際は日々繁茂する苔の除去に追われ、水はこまめに入れ替えなければならず、エアレーション音は案外耳障りなものだ。しかし、どれほど小まめにphを計測し水質や温度管理をし気を配っても、一度弱った魚はいとも簡単に死ぬ。

 過酷な自然から脱した理想の人工環境。完全で完璧な循環系など存在しないと、もう人類は知っている。


 飼っている魚が死ぬことを、アクアリストは「星になる」という。

 死んだばかりの魚は底に沈むのに、星になるとは少しばかり皮肉でロマンチックな表現だ。しかし、それほどに水槽で死は身近なもの、病院ここと一緒だ。




 鈍い灰色の窓が重い黒に塗り込められて、ようやく手術の終わりが告げられた。

 乗用車が通れるほどに巨大な手術室の扉の奥から運び出された意識のない母。私はお疲れさまとマスク越しに小さく言った。


 手術時間は想定の数倍かかり、十時間を超えた。汚れた手袋の医師に提示された切除部位は、素人目に見ても端々まで病変に侵されているのが明白で、再発すると直感的に理解できた。


 やはり、冷たい人間でよかったと思う。

 正面玄関はとうに閉ざされていた。薄暗い廊下を抜けた先にある緊急出入り口で、私は手術が無事に終わったと父に伝えた。嘘は言っていない。


 私は、母が望んだようないただきには至れなかった。優しい人間にすらなれなかった。

 ワイパーが役に立たないほどの大雨の中、車を走らせる。星も月もなく、雨雲だけが黒々と空に被さっていた。



 だが、輝かずとも星はみな、そこに在る。

 





 

 あれから二年、母の癌が再発した。


 ボールソートゲームは多分、もう必要ない。

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