【5】

 千恵子はそのまま語を継いだ。

「警察の知り合いから聞いた話だから、詳しくは知らないんだけど、自宅でテーブルの角に頭をぶつけたのが死因らしいわ。その件を担当したのが、皮肉にも猛だった。あいつはそのとき、紗雪さんの実状を目の当たりにした。ほかの刑事が事故だと決め込むなかで、猛だけは傷害致死だと主張して、さっき言った再婚相手を疑った。現場にも疑わしい点があったみたい。でも警察の上の人は、一方的に事故で片づけてしまった。それを受け入れようとしなかった猛は、自分で勝手に調べ始めた。そうしたらわかったの。その再婚相手は、警察幹部の天下り先になってる会社の社長だったのよ。つまりは警察が便宜を図ったってこと。それ以来、あいつは変わっちゃった。紗雪さんの辛い気持ちに気づけなかった自分を責めてた。それに、誇りにしてた警察の裏の顔を見たことで、心に穴が開いたのかもしれない。私との関係もギクシャクし出して、結局は離婚しちゃった。そのあと、しばらくしてからかなあ、猛の悪い噂を聞くようになったのは・・・」

真田の過去を初めて知った美鈴は、胸が詰まる思いがした。以前、天童は真田のことを「腐敗した悪徳刑事」と話していた。だが、そんな経緯があったとは。

「猛の奴、美鈴ちゃんを紗雪さんと重ねてた・・・」

千恵子がふと呟いた。

「え?」

美鈴にはそれが聞こえなかった。千恵子は遠い目で、物悲しげな笑みを浮かべる。

「あいつが言ってたのよ。美鈴ちゃんが紗雪さんに似てるって。顔とか雰囲気とかじゃなくて、生きてきた境遇がね。だから助けたいって。あなたを紗雪さんのようにはしたくなかったんでしょうね」

真田の本心を汲み取った美鈴に向かい、千恵子の笑みが優しく変わった。

「美鈴ちゃんは、これからどうするの?パスポートもあるみたいだし、どこか海外にでも行く?」

そう問いかけた千恵子は付け足した。

「ずっとここにいてくれてもいいわよ。私としては、そっちのほうが助かるんだけどねえ」

美鈴は曖昧な答え方をした。

「まだ決めてません。迷ってるんです。ここにはいたい気持ちはあるんですけど、もしものことがあったら、千恵子さんに迷惑かけちゃいますし、どうしようかなって」

自分は逃亡中の身だ。警察に見つかったら、千恵子も逮捕される。それが美鈴にとっての不安材料だった。そんな美鈴の背中を、千恵子はポンと叩いた。

「心配しなくていいから。私はとっくに覚悟ができてる。じゃなきゃ、あなたを預かったりしない。大丈夫。ここにいる間は、私が美鈴ちゃんを守る」

千恵子はニコリと笑顔を見せた。その気丈な振る舞いに励まされたのか、美鈴の硬い表情が解けた。


 同じ頃、極秘捜査が行われていた施設内に、蜂須賀と天童がいた。独房もない。設備もない。あるのはコンクリートのみの空虚であり、閑散としていた。

「ご覧のとおり、撤収作業はすべて完了しました」

天童が報告した。

「ああ」

蜂須賀はスマートフォンの画面をスクロールしながら生返事をした。画面にはネットニュースの記事が表示されている。四年前の連続殺人で服役中の受刑者が、医療刑務所内で病死したという内容だった。記事を読む一方で、天童に確認する。

「もう一度訊くが、文月美鈴や、もうひとつの人格の口から洩れるようなことはないんだな?」

「はい。文月美鈴もカナトも、運用試験を暴露しようといった考えはありません。仮にそうなったとしても、こちらで情報操作が可能なので、その点はご心配なく」

「そうか。ここの予約は埋まってる。ウチの警備局が使いたいと言ってきてるからなあ」

スマートフォンを上着にしまう蜂須賀に、天童が問いかけた。

「あの・・、本当に文月美鈴を捜索しなくてよろしいのですか?」

「しなくていい。すでに存在しない人間を追ってもしょうがないだろう」

「はい?」

その言葉の意味がわからず、天童は聞き返した。そこへ、スーツ姿の男が入ってきた。蜂須賀のもとまで来ると、重々しい声を出す。

「刑事局長。先ほど連絡がありまして、国家公安委員会の荒川様がお越しになられたそうです。局長とお話がしたいとのことで。今、局長室でお待ちしていただいております」

「わかった。これから伺う」

蜂須賀が答えると、スーツの男は一礼して踵を返す。

「天童君、戸締りはしっかりと頼むよ」

怪訝な表情の天童にひと声かけた蜂須賀は、施設を出て行った。


 蜂須賀は黒塗りの車の後部座席に乗り込んだ。そして、独り言を囁く。

「文月美鈴、きみは抹消された・・・」


 その日の夜、千恵子の自宅である古民家。寝間着姿の美鈴は、ひとり床に就こうとした瞬間、突然と目がくらみ、畳に敷かれた布団の上にうつ伏せで倒れてしまった。これは、人格が切り替わる前兆であった。


 上には青い空、下には緑の芝生。それぞれが一面に広がっている。そして美鈴の目の前に、ひとりの青年が立て膝の姿勢で座っていた。その青年は白いシャツに黒いズボンを身に着け、大学生くらいの年頃だろうか、額と耳が隠れるほどに伸ばした黒い髪に、切れ長の目、細い鼻筋、薄い唇と、全体的にシャープな顔つきであった。だが、この青年もこの場所も全く記憶にない。青年はこちらに向かって笑いかけ、なにやら話しているが、その声は聞こえない。しかし、会話をしている様子だった。青年はときおり、うなずいたり、首を振ったりしていたからだ。さながら、音の出ていない主観映像を見ているかのようだ。青年はシャツの胸ポケットからなにかを取り出し、正面にかざした。美鈴はそれに見覚えがあった。小さい頃、手に入れられなかったペンダントだった。青いガラスをハート型に成形した飾りのペンダント。青年はそのペンダントを前に差し出した。それを受け取る右手が見えた。誰の手だろう。疑問が湧きあがる。青年はおもむろに立ち上がり、後退りながら、微笑みを浮かべて大きく手を振っている。まるで「さようなら」とでも言うように。そして青年が背を向けたとき、視界がぼやけ、途端に暗くなった。


 美鈴はゆっくりと瞳を開いた。今の情景はなんだったのか。夢だったのか。現実と虚構が交錯したような不思議な感覚だった。うつ伏せの体勢のまま、ついと手元を見る。右手が拳を握っていた。開いて見るが、なにもない。まさか、ペンダントを受け取っていた手は自分なのか。そこで気づき、上体が飛び起きた。人格が切り替わっていない。いつもならば、闇の中でカナトの声と物音が聞こえている状態なのに。症状を示さずに目が覚めている。緩和されているのか。それに、ついさっきの幻のようなのは一体なんだ。理解に苦しみ、思考にとらわれたとき、直感が働いた。あの青年はきっとカナトだ。様子からして、自分に別れを告げに現れたのかもしれない。ペンダントは、せめてもの餞別せんべつのつもりで送ったのだろう。東京を出てからこれまで、人格は一度も変わっていない。だからカナトは、離れてしまう自分のもとへ最後に会いに来たのだと。


 あくまで美鈴の空想だ。根拠がない。実際はただの夢であった。そちらのほうが道理に合う。しかし、美鈴の脳内神経は特殊だ。判明されていない点も少なからずある。もしかすると、頭の中で可視化されたカナトが美鈴の前に姿を現した。その可能性は、必ずしも否定できない。


 月明かりが地上を照らすなか、美鈴は布団に入っていた。薄暗い天井の一点を見つめている。

「カナト・・。あなたはもういないの・・・?」

美鈴が小さな声で問いかけた。当然なにも返ってはこない。なにか大切なもの失ったかのような寂しげな表情になる。今夜はすぐに眠れそうにない。時間だけが静かに過ぎていくのだった。

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暗闇の追及者 Ito Masafumi @MasafumiIto

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