【4】
蜂須賀が口火を切る。
「運用試験は今日を持って中止とする。被験者がいなければ、この試験の存在意義はない。きみはただちに撤収の準備に入りなさい」
不安な様子で天童が訊く。
「文月美鈴はどういたしましょう?緊急手配の要請をするべきでしょうか?」
蜂須賀は視線をまっすぐ前に向けて答えた。
「それは、こちらでなんとかする。きみが考える必要はない。さあ、もう行きなさい。秘匿捜査が大衆に知れたら大ごとだ」
「はい。承知いたしました。失礼します」
天童が松葉づえをつきながら部屋を出て行く。その姿を一瞥した蜂須賀は独り言を述べた。
「命は神からの借りもの・・。真田猛、最後の最後にやってくれたな・・・」
眉を顰めた蜂須賀は自席に腰掛け、固定電話の受話器を取った。番号を押して相手が出るのを待つ。何度かの呼び出し音がしたあと、その相手が出た。蜂須賀が口を開く。
「
翌日、教会で発見された損壊遺体の身元が判明した。松梨秋江(まつなしあきえ)、三十五歳。デザイン事務所に勤めるフラワーコーディネーターの女だった。数日前に秋江の両親が、行方不明者届を最寄りの所轄署に提出していたため、署員が所在を調べていた。秋江もほかの被害者と同様、SNSで自らの身体の悩みに加え、冗談半分の文面で「死んでしまいたい」と書き込んでいた。
その後の捜査の結果、純が一連の殺人遺体損壊遺棄事件の犯人であることが断定された。チェーンソーに付着していた指紋が純のものと一致したことや、純の自宅の床下収納から事件で使われた毒物や注射器など、犯行を示す証拠が多数発見されたこと。そして、冷蔵庫の中から血痕が検出され、その血痕が秋江のDNAと一致したことから、そう結論付けられた。どうやら純は、損壊した遺体の部位を水族館の冷凍庫に保存できなくなったため、自宅の冷蔵庫に入れて保存していたらしい。それを証するように、冷蔵庫の中はがらんどうであった。
警視庁捜査一課のフロアでは、安永が教会での出来事について、上司である係長の
「これ以上捜査しないってどういうことですか!?」
安永が上島の机の上を両手でバンと叩いた。
「捜査しないんじゃない。担当が警察庁に移っただけだ」
ずんぐりとした体格の上島は席を立ち、どこかへ行こうと歩き出した。安永は納得いかず、後をついて行く。
「なんで警察庁なんです?これは殺しですよ。俺たち一課の
安永が苦情を言い立てる。
「俺に訊くなよ。ったく、バラバラ殺人が解決したばっかりだってのに。俺は
聞く耳持たずといった姿勢の上島に対し、安永は疑問をぶつける。
「指紋の件だってそうです。鑑識の岡本は、指紋がふたり分あったと言っていました。でも書類上は、真田の指紋しか検出されなかったと記載されていました。どういうことです?もうひとりの指紋は?」
「書類のとおりだ。真田の指紋しか出なかった。岡本が勘違いしたんだろ」
「あいつがそんな凡ミスしません。係長だって知ってるでしょう」
「だが、それが事実だ。もういいか?これから会議があるんだ。まさかお前、会議室までついて来る気か?」
そこで安永は足を止めた。苦虫を噛み潰したような表情で、遠ざかる上島の背中を見つめる。自分の知らない大きななにかが、影で糸を引き、うごめいている。絶対そうだ。安永はそう感じた。
一週間後、美鈴は沖縄にいた。かつては真田の妻だった桂木千恵子を頼ったのだ。千恵子は元精神科医で、現役の頃は都内の病院に勤めていたが、現在は医師を辞めて沖縄に移り住み、果樹園を営んでいた。真田は美鈴の身柄を保護してもらおうと、千恵子に要望していたのだった。元とは言っても知識や技術は衰えていない。医師免許も保有したままなので、能力は健在だ。そのため、美鈴の症状もすぐに理解し、快く引き受けた。
果物が栽培されているビニールハウスの中。フランネルのシャツの上にダウンベスト、下にはチノパンツを着用し、黒い髪を後ろに束ねた女が声をかける。千恵子だった。三十代半ばである千恵子は、柔和そうに見える半面、大人な印象を与える美人であった。
「どう?ちょっとは慣れた?」
その相手は美鈴だった。小さなベンチに座る美鈴は、厚手のプルパーカーにジーンズを身に着けているが、注目すべきは、長かったロングヘアをバッサリと切り、いわゆるショートボブの髪型になっていたことだ。さすがに顔を整形することはしなかったようだが、ヘアスタイルが違うだけで、外見も様変わりしていた。
「はい」
美鈴は笑顔で答えた。千恵子が隣に座る。美鈴は治療も兼ね、果樹園で千恵子の手伝いをしていた。教会で純と対峙して以来、カナトは現れていない。人格は元の美鈴のままだ。
「千恵子さん。あの・・・」
パーカーのポケットから指輪を二個取り出した美鈴が、千恵子にそれを見せて差し出した。
「これ、渡しそびれちゃって。真田さんから頼まれてたんです。千恵子さんに渡してくれって」
指輪は汚れひとつなかった。美鈴は血が付着したままだと、千恵子の心が痛むだろうと思い、あらかじめ拭いておいたのだった。美鈴の手のひらにある指輪を千恵子が手に取る。
「あいつ、まだこんな物持ってたんだ」
千恵子が独り言のように呟いた。
「それ、なんの指輪なんですか?」
美鈴がそれとなく訊いた。
「結婚指輪。猛のことだから、とっくに捨てたか売ったかしてたと思ってた」
あの男にはまだ、自分への愛情が残っていたのか。千恵子は身にしみて深く感じた。
「警察の証拠品にしたくなかったのかもね。だから、これを美鈴ちゃんに託した。ありがと。渡してくれて」
千恵子は礼を述べた。美鈴の口から真田の死を知らされたとき、頭によぎったのは「やっぱり」だった。いずれそうなるのではないかと。この指輪を見てから改めて認識した。すでにあの男は、この世にはいないということを。
「ねえ、美鈴ちゃん」
千恵子は指輪をベストのポケットにしまうと、美鈴に問いかけた。
「猛と会ってみて、どんな奴だと思った?」
「どんな奴・・・」
少し考えた美鈴が答えた。
「とても怖い面がありました。でも、優しい面もありました。私みたいなのに気を遣ってくれて。根はいい人なのかもって思いました」
「そっか。確かに昔はあいつ、いい人だった」
千恵子は真田との馴れ初めについて話し始めた。
「あれはもう、十五年以上前かなあ。私ね、ひったくりに遭ったことがあるの。バッグ盗られちゃってね。そのとき偶然通りかかった警官が犯人を捕まえて、バッグを取り返してくれたの。そいつが猛。あの頃のあいつは、まだ交番勤務の警官だった。真面目で優しくて、かっこよかった。それがきっかけで私たちは付き合い始めて、一年後に結婚した。猛が捜査一課の刑事になったあとも、幸せな生活は変わらなかった。でも五年前、ひとりの女の子が亡くなってから、生活が一変した」
「女の子?」
美鈴が聞き返す。千恵子は当時を打ち明けた。
「
千恵子の表情が暗くなっていくのが美鈴にもわかった。
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