第3話

 二人並んで地蔵菩薩が祀られた閻魔堂の前を通り過ぎ、母家とは反対側にある部屋へと向かった。すっかり暗くなった廊下を吊提灯の明かりがゆらゆら照らしている。


(こっちに来るのは初めてかも)


 閻魔堂の先はいつも薄暗く、部屋の障子もぴしゃりと閉じていたからか近づいてはいけない雰囲気だった。そんな部屋の前に到着すると、イッセイがすっと障子を開ける。


「ようやく二人きりになれた」


 手を引かれるまま部屋に入ると、ギョッとするほど真っ黒な布団が目に入った。二人並んで寝ても余るほどの大きさで、提灯で薄暗く照らされている様が少しだけ怖い。


「真っ黒って……」

「これもしきたりの一つだよ」


 しきたりってのは変なものが多いんだなと思いながら、布団のそばの行燈を見る。表面に描かれているのは蝶だろうか。中の火が揺れるたびに蝶が舞っているように見えた。


「それは閻魔堂の火をもらった灯りだね。閻魔様のもと、間違いなく夫婦めおとになるって意味合いがあるんだって」

「……へぇ」


 夫婦めおとという単語を聞いたからか、また胸の奥がざわついた。行燈に描かれている蝶がゆらゆらと舞うたびに心臓がドクドクと鳴る。


「さぁ、座って」

「あ、」


 優しく手を引っ張られ、真っ黒な敷布団の真ん中あたりに腰を下ろした。思わず「本当に初夜みたいだ」なんてことを思ってしまったせいでイッセイを見ることができない。そんな俺とは違い、正座したイッセイは背筋をすっと伸ばし真面目な顔をしていた。


「改めて、ようこそ花嫁殿」

「……その花嫁殿ってのはちょっと嫌だ」

「どうして? カガチは俺の花嫁だよ?」

「そうだけど」

「そっか、恥ずかしいんだ」

「……っ」


 気持ちを言い当てられて、思わずプイッと横を向いてしまった。花嫁花婿という言葉を気にしているのは俺だけなのかと思うと余計に恥ずかしくなる。


「恥ずかしがるカガチも可愛いけどね」

「可愛いとか言うな」


 たった一歳しか違わないイッセイにまで可愛いなんて言われたくない。


「俺はもう十八だ。可愛いなんて言われる年じゃない」

「八年前も可愛かったけど、いまはもっと可愛いよ」


「まだ言うか」と文句を言うためにイッセイを見た。でも言葉は出て来なかった。だって、イッセイの顔は真剣そのものだったんだ。


「やっと今日を迎えることができた。いまの世じゃ十八歳になるまで花嫁花婿にはなれないとか、そんなところばかり現代いまっぽくなっちゃって嫌になる。そもそも男同士の結婚は認められていないんだから、昔どおりのしきたりで進めればいいのにって何度思ったことか」

「しきたりなら、しょうがないだろ」

「それを言うならしきたりに年齢は関係ない。五十年前なんて十三歳の花婿に二十歳の花嫁だったんだからね」


 五十年前にも、このしきたりがちゃんと行われていたことを初めて知った。

 俺が地蔵ちくらの家にいたとき、しきたりの話なんて一度も出なかった。古い寺で檀家もたくさんいて、ほかの寺と同じように季節ごとの行事をやっているところしか見たことがない。その行事もほとんどが葬式や法事で、それ以外は寺町の一角にあるから観光客がパラパラ来るくらいだった。


「せっかく約束したのに、五歳と六歳じゃ駄目だって父さんがうるさくて」

「そういや兄さんたちも約束がどうこうって言ってたよな?」

「カガチが五歳の誕生日の日にした約束だよ。覚えてない?」


 そんなことを言われても困る。あの頃のことは思い出さないようにしてきたから、ほとんど覚えていないのだ。


「もしかして忘れた?」

「忘れたっていうか……」

「あの日、朝から江ノ島まで泳ぎに行ったよね?」


 江ノ島の海……遠出だったからか何となく思い出した。あの日は兄たちと一緒に泳ぎに行って帰りにかき氷を食べた。帰宅してから兄さんたちが作ってくれた唐揚げを食べ、最後にケーキも食べた気がする。


「いつもどおり静哉兄セイヤにいと風呂に入って、静真兄シズマにいが寝かせてくれて……じゃなかった」


 そうだ、あの日はイッセイと寝たんだ。次の日にカブトムシを捕まえようと、どこに行くか相談するために珍しくイッセイと寝ることにした。


「そうか、あのとき一緒にいようって約束したんだ」

「よかった、覚えてくれてた。もう一つ大事な約束したんだけど、そっちも覚えてる?」

「もう一つ?」


 約束したとき、眠気に襲われていた俺はずっとうつらうつらしていた気がする。それでも何かを約束して指切りをしたような気がした。


「あのとき俺は『花嫁になって』って言ったんだよ」

「……っ」


 いつの間にか近づいていたイッセイに耳元で囁かれてギョッとした。仰け反りながら囁かれた耳を手で塞ぐ。そんな俺に「ね、思い出した?」とイッセイが微笑んだ。


「思い出した……気がする」


 そうだ、あのとき「花嫁になって」と言われた俺は、花嫁になればずっと一緒にいられると思って「うん」と答えたんだ。


「約束をした場所は覚えてない?」

「場所って、イッセイか俺の部屋だろ?」


 俺の返事にイッセイが首を横に振る。


「あのときもこの部屋だったんだよ」

「この部屋?」

「大事な約束だったからね。だから閻魔様のお腹の中であるこの部屋を使った」

「閻魔様の……なんだって?」

「ここは“お胎部屋はらべや”なんだ」

「おはら部屋?」

「そう。ここは生命を育む大地のような力で人々を救う地蔵菩薩のお腹を模しているんだ。地蔵菩薩は閻魔様のことね。つまりここは閻魔様のお腹の中、子宮ってわけ」

「しきゅう、」

「閻魔様の前では決して嘘をついてはいけない。嘘をつくと地獄に落とされる。それがお腹の中からなおのことだ。この部屋でした約束は絶対に守らないといけない。そうしないと閻魔様のご不興を買ってしまう。人々を救ってもらえなくなる。あの世の門が開いてしまう」

「あの世の門、」


 物騒な言葉に体がブルッと震えた。

 いまのご時世“あの世”を信じている人がどのくらいいるかはわからない。しかし、この寺で過ごしていた俺にとって“あの世”は間違いなく存在する世界だった。小さい頃から何度も葬式を通して人の死を見てきた俺は、この世と同じくらい“あの世”を身近に感じてきた。


「まぁただの言い伝えなんだけど。でも、それを利用しても俺はカガチを花嫁にしたかったんだ」

「……おまえ、何言ってんだよ」


 微笑んでいるはずのイッセイの目は笑っていなかった。そのせいか背中がゾクッと冷たくなる。


「そうそう、この寺の場所、昔はあの世に繋がる入り口だって言われてたんだって」

「あの世の入り口?」

「うん。ここがあの世と繋がったら大変だってことで、塞ぐために寺を建てたんだ。だから本尊が閻魔様、つまり地蔵菩薩ってわけ」


 膝に乗せていた俺の手をイッセイがきゅっと握った。


「その閻魔様には妹がいてね、なんと夫婦なんだ。それで当時の人たちは閻魔様のご機嫌伺いを兼ねて、妹に見立てた美しい娘を寺に嫁入りさせることにした。もちろん本物の閻魔様はいないから、代わりに住職に嫁入りしたってわけ」

「……でも、いまは男が花嫁だよな。それって変じゃないか?」

「詳しくはわからないけど、疫病が流行ったときに年頃の娘がいなかったみたいでさ。代わりに美しい男を嫁入りさせたら疫病が治まったとかで、それ以来男の花嫁になったみたいだよ」

「そんなことで男の花嫁なんて……」

「大抵のことはそんなこと・・・・・だ。でも俺はそんなこと・・・・・すら使ってカガチを花嫁にしたかった。何が何でも花嫁にしたかった」


 俺の手を握るイッセイの力が強くなった。


「ちょっと焦りすぎて一度カガチを取り上げられちゃったけどね」

「……まさか、それが離婚の理由なのか?」

「提案したのは父さんだよ。まったく、そんなことしてもこの部屋で約束したんだから無駄なのにね」


 にこりと笑う顔が一瞬誰かわからなくなった。目の前にいるのはイッセイのはずなのに知らない人に見える。……いや、この目は八年前に家を出て行く俺を見ていたときと同じ目だ。


「そうそう、お釈迦様が入滅したあと、地蔵菩薩は弥勒菩薩が現れるまで何億年もの間待っているんだって。何億年なんて、気が遠くなるより気が触れそうだと思わない?」


 急に何を言い出すんだろう。


「それでも何億年も待ち続けるなんて、それはもう恋と同じだと思うんだ。そんな地蔵菩薩の身代わりを千年以上続けてきたせいで、そういう執念を俺たちは宿してしまった」

「は……?」

「カガチを初めて見たとき、まるでホオズキみたいだってすぐに思った。兄さんたちも同じように感じたんだろうね。だから三人でカガチの名前をカガチにしてって頼んだんだ。ほら、ホオズキは閻魔様に捧げる提灯の代わりだからさ」


「カガチはホオズキの別名だよ」と囁くイッセイに腹の底がゾクッとした。俺はいま一体誰と話しているんだろうか。


「カガチ、俺の花嫁」


 綺麗な笑顔が近づいて来る。俺は何かに縛られたように動けないまま、生まれて初めてのキスを受け入れた。

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男の花嫁 朏猫(ミカヅキネコ) @mikazuki_NECO

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