ハシモト氏より愛を込めて
yaasan
第1話 ハシモト氏より愛を込めて
さして広くもないワンルームの部屋。そのほぼ中央にある白いテーブルの上には拳銃が置いてあった。
本物だろうか?
なぜ、こんなところに拳銃が?
それにここは……。
色々な疑問が頭の中を駆け巡る中で、俺は重大なことに気がついた。
……何も覚えていない?
ここがどこなのか。
なぜ自分がここにいるのか。
どうやってここに来たのか。
何も思い出せなかった。
自分の名前は……。
俺の名前は……。
そう。ハシモト……歳は三十五歳。
どうやら俺が自身のことを覚えているのはそれだけのようだった。頭の中のどこを探しても、他にそれ以上の個人的な情報が見つからない。
……記憶喪失。
そんな言葉が俺の頭に浮かび上がってくる。何せ名前と年齢以外は何も思い出せないのだ。その言葉が自分の中で、しっくりと当てはまってしまうのを俺は感じていた。
混乱して焦る気持ちを辛うじて押さえつけながら、俺はテーブルの上にある拳銃に手を伸ばした。本物かどうかを触って確かめてみようと思ったのだ。
もちろん、本物の銃を触った記憶なんてあるはずもない。だが、案外プラスチックのような物でできた精巧なオモチャの類いかもしれないと思ったのだ。
手にしてみると、何だかずっしりとした重みがある。
……多分、本物だ。本物なんてしらんけど。
今、自分が部屋にいる理由も分からない。分かっているのはハシモトという名前と年齢だけ。しかも、目の前には本物らしき拳銃。
混乱する頭……。
俺の中にあるのは答えが出ない自問だらけで、何だか泣きたくなってきた。
その時だった。背後で何かが割れるような大きな音がした。その瞬間、それが何事かも分からないまま、床の上で俺は一回転をしていた。
それは見事なまでの一回転だった。そうしようと思ったわけではない。
言うなれば音がした瞬間、体が自然に動いていたのだ。そして、その手には先程まではテーブルの上にあった拳銃がしっかりと握られている。流れるような動作だった。
わけが分からなかった。そう動こうと思っているわけでもないのに、体が勝手に動いてしまっている。まるで自分の体が自分のものではないような……。
大きな音は窓を割って入ってきた黒ずくめの男が立てたものだった。床で一回転をした俺は体勢を立て直すとその男に拳銃を向けた。
え、マジか?
自身でそう思った時には、俺の指が勝手に動いて二度、三度と引き金を引く。黒ずくめの男は三発の銃弾を受けて、そのまま横倒しとなる。
拳銃の種類にもよるのだろうが、その時の発砲音はどことなく間抜けで軽い音がした。人を撃ったというのに、俺の中にあったのはそんなどうでもいい感想だった。
焦げくさい臭いが室内を満たしている。これが硝煙の臭いと言われているものなのだろうか。これまた俺はどうでもいい感想を抱く。
銃弾を受けて横倒しになった黒ずくめの男に動く気配はなかった。死んだのだろうか。人を殺したかもしれないというのに、後悔や焦りといったものは一切なくて俺はとても落ち着いていた。それが俺にはとても不思議だった。
自身の行動や感情を別の軸で、まるで俯瞰からでも見ているかのような感覚だ。
取り敢えず男の生死を確かめようと俺が一歩を踏み出した時だった。短い廊下の先にある部屋のドアが勢いよく開いた。
俺は流れるような動作で開いたドアに拳銃を向けた。
そこから姿を見せたのは二十代後半に見える若い女性だった。彼女は明らかに血相を変えていた。
「逃げて。奴らに気づかれたわ!」
逃げる?
気づかれる?
全くわけが分からない。意味が分からない。記憶喪失を自覚して混乱している頭が更に混乱する。
だけれども、そんな混乱する頭で俺は何故か大きく彼女に頷いてみせたのだった。
……おい、おい、おい。
俺はそんな頷く自分に心の中で呟いていた。
彼女を先頭にして俺たちは外に飛び出した。
「大通りを通った方がいいわね。人の目があれば、奴らも派手なことはできないはずだから」
そんな彼女の言葉に派手なことって何なんだと俺は思う。それに奴らとは?
状況から自分が誰かに狙われていることは分かる。実際、さっきも窓を派手に破って黒ずくめの男がやってきたのだから。それらが彼女の言う奴らということなのか。
……でも、何で狙われているのか。
それに彼女の名前は……。
名前……思い出した。そう。彼女の名前は桜。しかし、それ以上のことは思い出せない。
「桜、あまり早足になるな。逆に目立つぞ」
先頭を歩く桜に俺はそう声をかけた。言おうと思って言ったのではない。気づいたら自然にそう言っていたのだ。桜はそんな俺の言葉にゆっくりと頷いてみせたのだった。
大通りに出た俺たちは、横並びになって他の通行人の流れに合わせて歩みを進めた。
「これからどうする?」
そう言った俺に桜は黒目がちの瞳を向けた。
「この先にラブホがあるわ。そこで夜中まで待って、夜中になったら港の倉庫へ。そこで国外へ手引きしてくれる者が待っているはずよ」
俺は軽く口笛を吹いてみせた。
「大した段取りだ」
口笛を吹いたのも、この言葉も意識しないで自然と出たものだった。やはり、まるで俺が俺ではないようだった。
「当たり前じゃない。私はあなたの優秀なバディなんだから」
……何の?
……何の優秀なバディなのだろう。
……というか、そもそも俺は一体、何者なんだ?
俺はそんな言葉を頭に泳がせながら、桜と共に歩みを進めるのだった。
繁華街の目抜き通りから少しだけ外れたところにあるラブホテル。
俺たちは午前二時半丁度にラブホテルを出た。この時間になると繁華街とはいえ人の通りもほとんどない。午前零時を回っても騒がしかった喧騒から、街全体が解き放たれているようだった。
ここから十五分も歩けば港の倉庫外に着くはずだった。桜によれば、俺たちはそこから船で国外に脱する手筈になっていた。
……何で国外脱出なんてするのか。
そんな疑問を飲み込みながら、俺は隣の桜と共に歩みを進めるのだった。
鍵は掛かっていない。金属の擦れ合う嫌な音を立てて倉庫の横手にあった扉が開いた。
窓から入ってくる僅かな月明りがあるだけで、倉庫の中は薄い暗闇だった。倉庫の中に入ってすぐに桜はペン型の懐中電灯を取り出した。そして、それを正面に向けて三度、点滅させた。
その瞬間だった。桜が懐中電灯をむけていた暗闇の向こうから銃声が響いた。俺はとっさに倉庫の床を転がってそのまま右手の物陰に移動する。
物陰で俺は懐から拳銃を取り出すと同時に自分の体を確かめる。どうやら被弾してはいないようだった。しかし、血の匂いが俺の鼻腔をくすぐっていた。微かな呻き声も聞こえる。
桜……撃たれたのか?
俺の血の気が一気に下がる。
俺は先程まで立っていた位置に薄い暗闇の中で目を凝らす。そこには黒い物体があるように見えた。
俺は姿勢を低くしてそれに近寄った。やはり桜だった。
「桜、大丈夫か?」
「……どうして? どうしてなの……」
撃たれて混乱しているのだろうか。桜は不明瞭な言葉を呟いていた。この暗闇では傷の大小も分からない。思わず舌打ちをしそうになった時だった。
急に倉庫内の電灯がつけられた。明るくなったといっても薄暗い程度で、視界を奪われるようなことはなかった。この明るさでは倉庫の端まで見渡すことは無理で、視界の大部分はまだ黒で塗りつぶされていた。
「どうして、どうしてなのよ? 裏切ったわね……」
床に倒れたまま上半身を起こした桜がその暗がりに向けて言う。桜の胸は血に濡れていて傷が深手であることが明白だった。
桜の視線の先にある暗がりから五人の男が姿を現した。誰もがその手に拳銃を握ってこちらに向けている。
「何で裏切ったのよ!」
男たちに向かって桜が再び叫ぶ。男たちの中心にいた者が口を開いた。
「裏切った? 最初から信用するはずがない。こいつを裏切ったお前を何故、俺たちが信用すると思う? こいつと一緒に殺されるのが当然だろう」
……もうこの状況についていくのが精一杯だった。
俺の相棒らしい桜は俺を裏切っていて、更に桜は俺を狙っているらしいこいつらに裏切られたということか?
俺は桜に視線を向けた。その視線に気づいた桜が俺を無言で見返してくる。その黒目がちの瞳からは桜の心情を読み取ることはできなかった。
「待ってろ……」
俺は桜に短くそれだけを言う。何を待っていろというのか。自分でそう言いながら俺は心の中で呟く。
そんな俺の思いをよそに、俺は正面の銃を向けている男たちに視線を移した。その中の一人の銃口が僅かに動いた。
俺は床を転がる。
……おい、おい、おいっ!
心の中で俺は叫び声をあげる。
いくつもの銃声が響く。どの銃声が誰のものなのかも分からない。床を何度も転がりながら俺は引き金を引く。
数十秒後、床に立っているのは俺だけだった。俺はすぐさま桜に駆け寄った。
床には血溜まりができていた。そこに片膝をつけて俺は桜の顔を抱きかかえる。俺に抱きかかえられた桜の顔は既に青白くなっていた。
目を閉じていた桜だったが、俺に抱きかかえられると弱々しく瞼を開く。
「……ごめんね。私……裏切っちゃった」
俺は黙って頷く。
「ミスったわ。死にたくなかったのよ。結局……こんなことになったけどね」
「知っている。俺とお前は似ているのさ。自分のことを愛している。ただそれだけのことだ。愛している自分を助けるためなら、愛している相手にも銃を向けることができる。俺もきっと同じだ」
「ふん、慰めにもなってないわよ。愛しているだらけで意味もよく分からないしね」
苦笑を浮かべたつもりなのか、桜の頬が僅かに動く。
「ねえ、あなたのこと、愛してるのよ。本当よ」
「知っている。俺も桜を愛してる。ただ俺たちは自分を一番愛しているだけだ」
「裏切られたのに、まだ愛してるの? 愛してくれるの?」
「ああ。裏切られたのにだ……」
「……寒い……ねえ、抱きしめて。強く抱きしめて。死ぬのは嫌なの。一人で死ぬのは怖いの……」
「ああ……」
言われた通り、俺は強く桜を抱きしめる。
悲しかった。名前以外は何も知らないのに、俺は悲しかったのだ。
俺の片頬を一筋の涙が伝う……。
「カーット!」
気合いのこもった声が響き渡ると同時に周囲が明るくなる。一瞬だけ俺は視界を奪われる。
……へっ?
驚いて俺は周囲を見渡す。
明るさに慣れた俺は自分が三十名近い人たちに囲まれていることを知った。そして……。
え、カメラ? レフ版? メガホン?
……映画監督?
……撮影?
そこにはステレオタイプの映画監督がいた。帽子を被ってサングラスをつけてメガホンを持った髭面の男が近づいてくる。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「いやー、よかったよ、ハシモトちゃん。もう、最高! ハッシー最高!」
監督らしき男はそう言って握った拳の親指を立てて見せる。
気がつくと俺が拳銃で撃ったはずの奴らが次々と立ち上がってくる。
……え?
すると桜も同様で、俺の腕の中から体を起こして立ち上がった。
「もう、最悪。血糊が乾いてバリバリなんだけど」
……へ?
驚きで何も言えない俺に桜は黒目がちの瞳を向けた。
「ハシモトさん、お疲れさまでしたー」
桜はにこりと魅力的に笑うと、バスタオルを持って駆け寄ってきた女性と一緒に踵を返す。
……へ?
監督の背後ではスタッフらしき若い男が声を張り上げている。
「明日は九時からです。ラブホからの撮影となりまーす」
……え?
……へ?
倉庫を出た俺は混乱した頭を抱えたままで波止場から海を眺めていた。隣では俺のマネージャーらしき男が明日の予定を告げている。
……え、撮影……何の……誰の?
俺の混乱は今も続いている。
背後からは撮影の小道具を抱えているスタッフらしき男たちの声が聞こえてきた。
「ほら、見てみろよ、ハッシーさんだぜ。後ろ姿も渋すぎだな」
「ああ、ハシモトさん、まだ役がきっと抜けていないんだろうな。さっきの最後のシーンも格好よかったもんな。あそこで片方だけ涙を流して見せるなんてさ……」
男たちの声が遠ざかっていく。隣ではマネージャーらしき男がまだ明日の説明をしていた。
考えてみれば、あの部屋で記憶がないと気づいてから俺はいつ食事をした? いつ休んだ? いつトイレに行った? いつシャワーを浴びた? いつ……。
俺の中にどこにもそんな記憶はなかった。俺の中にある記憶は場面、場面だけの記憶しかなかった。そう。まるで映画の場面、場面のような……。
……え? え? えーっ?
……俺は何をしていたんだ?
……俺は、俺は一体、誰なんだ?
……俺は、俺は何者なんだ?
混乱する俺は突如として不思議な感覚に包まれた。
……何だ、これは?
……異なる世界。
……異なる時間軸。
……俺が……俺が増殖して……いる?
そこでは俺が増殖している。
そこでは俺が増殖していた。
俺が分裂していく。
ハシモトが分裂していく。
ハシモト、ハシモト、ハシモト……。
俺は全であり個だった。ハシモトは個であり全だった。
ハシモト、ハシモト、ハシモト、ハシモト……。
ハシモト。
個の記憶が、個の感情が全の俺に流れ込んでくる。
全の記憶が、全の感情が個の俺に流れ込んでいく。
俺は殺し屋だった。俺は映画俳優だった。俺は宇宙を渡る研究員だった。俺は世界崩壊の鍵を握る男だった。俺は時を駆ける男だった。俺は……俺は……。
異なる時間軸。異なる世界。
そこにはいくつもの俺がいる。
そこにはいくつものハシモトがいる。
まるで合わせ鏡のように、そこにはいくつもの俺が並んでいた。いくつものハシモトが並んでいた。
俺の名はハシモト……。
俺の名はハシモト……。
異なる時間軸、異なる世界で増殖する……俺が……ハシモトが分裂していく……。
ハシモト氏より愛を込めて yaasan @yaasan
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