とある小説家の苦悩
kanimaru。
第一話
一体いつからだろう。言葉が温度を持たなくなったのは。
一度、『パートナー』に質問してみた。
「言葉に温度はありません」
なんとも単純な答えだった。
まあ、当たり前か。
僕は溜息を一つ吐いて、『パートナー』に向かって文字を打ち込んだ。
「貴方は小説家です。……のような物語を書いてください」
すると『パートナー』はつらつらと、とどまることなく、まるで海へ向かって流れゆく川の水のように、かけらの違和感もなく言葉を生み出していった。
コーヒーを一口すする間。
その一瞬で、『パートナー』は十三万字にも及ぶ物語を作り出していた。
今更驚きもせず、それをそのまま担当編集に送った。
するとこれまたすぐに、添削すべき点が送られてきた。
今ではすっかり違和感もなくなったが、やはりこれも担当編集の『パートナー』によるもので、そこに人間の言葉や意思は存在しなかった。
打ち込み、送り、打ち込み、送る。
毎日毎日、この単純作業の繰り返し。
昔は、単純作業の職ほどAIに奪われていくなんて通説があったりもしたが、ふたを開けてみれば、複雑な作業がAIによって単純化された。それにより、人間の仕事も単純になったのだ。
今では全世界の人々に、『パートナー』と呼ばれるAIが一人ずつ割り振られ、日々の仕事から行動まで、全てを指定し、行ってくれるようになった。
効率化という面で言えば、悪いことではなかった。むしろ、従来よりもずっと、物事が進むスピードは速くなっていった。
人々はそれをいち早く受け入れ、対応していった。
それを未だに受け入れられずにいる僕は、さしずめ前時代の遺物と言ったところだろうか。
市の図書館の窓際、十六番の席。
思えばこの席に好んで座り執筆をしていたのもあの頃からだ。朝九時の開館から夜七時の閉館までの間、家の前の自動販売機で買った安い缶コーヒー一本とノートPCを装備して、自分の世界を開拓していた。
あの頃は全てが楽しかった。夢中になって言葉を紡いでいたあの頃が恋しい。僕だけが開くことのできた世界が恋しい。
もう拓くことのない、無駄だらけの世界が恋しい。
すると、制服をまとった女子高生らしき少女が、僕の隣の席に座った。
広い図書館の中にはほとんど人がいないにもかかわらず、わざわざ隣に座ってきたため、思わず少女を見つめた。
「あ」
声が少し漏れた。
突発的に出たそれに、自分でも驚いた。
しかししょうがないだろう。
少女が手に取っていた小説が、僕のデビュー作だったのだから。
タイトルは『死者の声』。
AIが発展する前に書いた僕の小説の中で、一番売れたものだ。映画化もされ、若かった僕を天狗にさせた作品だった。
二十年以上前の本だから、すっかり古くなって、ページが黄ばんでいるのがよくわかる。
少女は僕の声に気づいたのだろう。怪訝そうにこちらを覗いている。
僕は慌てた。今のご時世、見つめていただけでも裁判にかかる可能性がある。
「それ、面白いかい?」
しまった、これじゃまるっきり不審者じゃないか。
後悔したが、少女は特に怖がる様子もなく、小さく頷いた。
ずっと昔の作品とはいえ、自分の作品が評価されるのはうれしい。にわかに体が熱くなる。
「おじさん、誰?」
目をまっすぐ見つめてきて、年上のはずの僕が気圧されそうになる。最近の子は皆こうなのだろうか。
「えっと、まあ、本好きのニートかな…ハハ」
今の僕では、胸を張って作家とは言えない。
今までのプライドがそう告げて、僕は「本好きのニート」を名乗るほかなかった。どう考えたって不審者だ。
少女は何も言わずにしばらく僕を観察した後、口を開いた。
「…この人の作品では、これが一番好き。あとは、『恋の記憶』なんかもいい。人気作家だけど、最近の作品は面白くない」
僕は何も言わない。少女はそんなことは気にせず、言葉を続ける。
「『パートナー』は最近のやつを勧めて来るけど、はっきり言ってセンスない。昔の作品の方がよっぽど面白いよ」
少女の言葉は熱を帯びていた。
僕を真っ直ぐ見つめ、曇りも迷いもなく、自分の正解をただ伝えた。
ああ、これだ。
これが言葉の温度だ。正しさと効率のあまり、人間が忘れてしまっている物だ。間違いと非効率の中で生まれるものが温度だ。その温度を、僕は愛してやまないのだ。
「ありがとう」
「へ?」
僕の言葉に、少女は間抜けた声をよこしたが、僕はすでにパソコンに向かっている。
それをみて、少女も僕の本を読み始める。さっきまでのやり取りが嘘みたいだ。
「その文章は最適ではありません」
一文目を描き終えると、『パートナー』がそう告げた。
僕は一言、AIに返信する。
「お前はいらない」
すると、『パートナー』のアプリの電源が落ちた。
僕はすらすらと文字を打ち込む。誰の言葉でもない、自分の言葉だ。
世界の扉が開く音がした。
とある小説家の苦悩 kanimaru。 @arumaterus
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