いかだ
高黄森哉
筏
石畳の町を歩いていると、ベランダからある少女が身を乗り出していた。だから、立ち止まった。
「あぶないよ」
少女は一旦部屋の中に入ると、板を持ってきて、ベランダから空中へ渡す。そして、重心を間違えないように、板の三分の二へ移動した。彼女は、まるで宙へ浮く箒に乗っているかのようだ。曲芸師なのだろうか。
ふざけているのかと思った。当てつけかとも邪推した。しかし、上空の彼女は、決して蔑むような眼はしていなかった。穴が開いたような黒い瞳を、どこかへ向けている。
「あぶないよ」
今度は、一字一字区切りながら、はっきりと言葉を投げつけた。しかし、彼女は澄ました顔をしている。少女の場所まで、こっちの思いは届かないようだ。
「あぶなくないわ。これが一番、安全」
気の強そうな子供だ。矛盾しているようだが古風な少女である。
「ううん、危ないよ」
決して同意できないので、首を振った。
「それは、貴方の想像力がないからよ」
想像力の欠如で、物事を百八十度、別の意味に捉えてしまうということは、ありうるが、この場合は当てはまらない気がする。気がするというだけで、決めつけるのは良くないが。
「もしかして、なにか物理的な安定があるのかい。君の重心が向こう側に隠されているとか」
「ううん。しいて言うなら、精神的な安定」
こっちは、極度の高所恐怖症なので、彼女の言葉一つ一つが、念仏に聞こえる。この少女は、高所恐怖症の真逆なのだろうか。どこに、危険な場所で、安らぎを覚える人間がいる。
「高いところが好きなのかい」
「ううん。高いところは好きじゃない。ただ、不安定な場所にいると、心が落ち着く。シーソーとか、ブランコとか」
少女は、ううん、と首を振るとき、顎を少ししゃくるのが癖のようだ。
「ずっと、いるわけにはいかないよ。ずっと、そうしているわけにいかないだろう」
「私にとって、ここから帰る方がずっと怖い。私は、ずっと部屋の中にいるわけにはいかないから」
困った人間だ。宿題から逃れてきたのだろうか。それとも、もっと別の災難。家庭環境の悪化とか。
「わかった。死にたいのかい」
「もし、死にたいならば、すぐに死んでいると思う。本当に死にたいのなら、どうして、死をためらう必要があるのかしら」
「そうだろう」
そうか。世の中の、死にたい、という人間は、まだ死にたくないのだ。ただ、死にたくないが、死ぬしかないのみで。我々は、その後の言葉に耳を傾けるべきなのかもしれない。なぜ、死にたいのか。
「なぜ、死にたいように見えるんだい」
「ただ、人と話したいだけよ」
彼女は、当然のことのように言った。
「そんなことか」
「そう」
「だったら、そんな風にする必要はないじゃないか。普通に話しかけるか、話しかけられるのを待ってればいいだろう」
こっちがアドバイスするのは、なにかが間違っている。彼女は、また顎を少し上げて、かぶりを振った。
「ううん。人と話をするには、ある一定の危険を冒さなければならないの。おじさんも、そうよ。突飛なことをしないと、そうやって、いつも独りで歩き続ける。危ない板に乗らないと現代ではね、そうでなければ、ずっと独り。気を抜くと落ちそうな不安定な筏で漂流し続ける。それが、この時代だから」
いかだ 高黄森哉 @kamikawa2001
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