見えないものを見えるように

晶蔵

全話

 防波堤の向こうで夕陽が日本海に反射してまばゆいばかりの光の道を描いていた。周囲に漂っている雲は綿菓子のように膨らんで淡い桃色の諧調を描いている。初春の北陸にありがちな不安定な空模様だった。山を下りてきた冷気と海から吹き上がる暖気がぶつかり渦を巻いている。

 光と影の織り成す寸劇に信之は目を細め、思わず手にしていたカメラを構えてみた。ファインダーの中ですべてがレンズの向こうに遠ざかり、ずっと先の海岸線にバス停の看板とベンチが影絵となって浮かんでいる。脇には乗客らしき人影がぽつんと佇んでいた。

 あんなところに停留所があったかな?

 道に迷ってしまい曲がりくねった路地をさんざん歩いたのでもはや自分の居場所すらわからなくなっている。以前、訪れたときは観光客の姿もあったが、シーズンオフなのか人影はまばらだ。逡巡したがシャッターは切らなかった。納得のいく構図を取るには手間がかかりそうだと感じたからだ。伝えていた時刻よりだいぶ遅れている。

 見覚えのある古い街並みに出たのはそのすぐ後だった。

 トラットリア・イル・ファロ。

 真菜の店である。学生時代、アルバイトをしていた京都のイタリア料理店で知り合って以来の付き合いになる。といっても彼が一方的に思いを募らせている状況で恋はなかなか成就しない。三歳年上で結婚歴あり。今は独り立ちしてシェフとなっている。「ファロ」とは灯台の意味で港に小さな灯台があることから名づけたという。古民家を改装し、一階を店舗、二階を住居にしていた。表には「準備中」と表示されているが、戸を引くと、チリリン、と鈴が鳴った。

「遅かったね」

 とカウンターで立ち働いている真菜が声をかけて来る。京都駅では予定通りの「サンダーバード」に乗れたけど富山港線の駅から道に迷ってしまって、と答えながらリュックを置く。店員は他にアルバイトの女性が一人だけで忙しそうだ。手伝おうか、と申し出たが大丈夫、と断られる。外が暗くなってくると電球が暖かい光を投げかける。太い梁を見せるなど建物の元々の造作を活かした落ち着いた雰囲気で居心地がいい。テーブルは五つ。満席ならカウンター席も合わせ二十五人ほどだが一人で調理場をこなすのはかなりきついはずだ。

「カウンターでいいかな。今晩も満席であまりかまっている時間ないかも」

 手を休めることもなくそう告げる。閑散とした街の様子からは信じられないがインバウンドの復活が想定よりも早く、外国人客も多いらしい。腰を下ろすと炭酸入りのミネラルウォーターをあてがわれる。

「そう言えばさっき海岸沿いに停留所があったけどバスなんて通っていたっけ? 」 

「ああ、あれね。その内、わかるから」

 顔を上げた真菜はイタリア人のような大げさな身振りで肩をすくめてみせる。邪魔にならないようにカウンターの隅でパソコンを開いて写真のデータを読み出した。年明けから旅をしていたイタリア中部の山岳都市の光景が並ぶ。かつて人々は丘の上に石造りの家を築き、谷で牧畜や耕作をしながら暮らした。中世に由来する集落の多くは交通の便が悪い。日本と同様、都市への人口集中と高齢化が進み廃墟となっている場所もある。植物が容赦なく窓から侵入して住宅を占拠し石畳の通路や階段を破壊していく。それでも夜になるとランプの火影が宿る窓辺には老人たちがひっそりと佇んでいた。

 まるで幽霊だ。

 信之は憑かれたように山道に分け入り、シャッターを切っていた。打ち捨てられた家屋に刻まれた歳月の痕跡は残酷でときに美しい。崩れかけた石段を昇りつめれば必ず小さな教会がある。広場に臨む窓は髑髏の眼窩を思わせ、通り過ぎた人々が呼び交わした声が今も木霊しているように感じられた。空の青、木々の緑は変らないが人々だけが姿を消した。明るい陽光が破れた屋根から差し込んで残された家財道具の在り処を照らし出し、日時計のように家々の影を伸ばしている。住人たちは物語の登場人物のようにはるか彼方に視線を彷徨わせ消えかけた記憶をよみがえらせようと虚しく努力していた。

 金は天下の周りもの、と言うだろう。使い過ぎだと気にすることなんてないのさ。だけど時間は一度去ったら戻らない。いつ終わるともわからない。だから大事にしなければいけない。

 老人の一人は信之が異邦人であることにも構わず、そんなことをゆっくり噛みしめるようにつぶやいていた。

 カウンターの上で画面をくるりと回してみせると真菜は手元の作業を続けながらも首を伸ばして覗き込んだ。

「いいなあ。あたしも久しぶりにイタリアへ行きたい」

「シーズンオフに休めばいい。研修、ってことで」

 うん、と答えながらもうつむいている。ここ数年のコロナ禍で大変だったのは知っている。店の運営も簡単ではないのだろう。

 開店時間の五時半になるとさっそく客が入ってくる。カップル、家族連れ、仕事仲間、様々だ。あっという間にテーブルは埋まり、真菜たちは対応に追われる。基本的に決まっているコースメニューを出すのだがそれでも手一杯だ。話しかける余地はない。その日は出始めたばかりのホタルイカと真鯛のカルパチョをサラダ仕立てにしたアンティパスト、リコッタチーズとほうれん草のトルテリーニ、富山名産のシロエビを入れた海の幸のフリットミストなどだった。信之はグラスの白ワインを頼んだが、なかなか出てこないので調理場に回って自分で注いだ。カウンターには主になじみの客が座り、真菜と会話しながら料理を愉しんでいる。七時半を過ぎると二回転めに入り、茶色いカーディガンを羽織った老人が真菜の采配で信之の隣に腰を下した。

「この人は宮下信之、トスカーナから戻ったところ。写真家志望なの」

 と紹介されて老人は「牛島です」と名乗った。

「ノブユキはね、バス停に気がついて変だと思ったみたい」

 牛島はドゥフフ、と低い声で妙な笑い方をする。白髪をきれいに撫でつけているが、丸みを帯びた顔立ちは妙につるんとして怪しげな風情もある。

「あれはある種のデバイスです」

「デバイス? 」

「波長を調整する装置ですよ。バスはなかなか来ません。乗客が集まるだけです」

 老人は常連らしく出されたパスタを慣れた仕草でつついている。

「いつかは来るわけですか? 」

「そのことを願っています。ただね、結果を焦ることはない。写真も同じではないですか? 」

「おっしゃる意味がわかりません」

「出会いですよ。想像もつかないものとの。探すとなかなか見つかりませんが出入口はすぐ足元に潜んでいたりするのです。気が付かないだけ。だから『こころの灯台』という名までつけて道しるべとして置いてみたまで。ある種のボランティア活動ですよ」

「はあ、ボランティア」

「みな旅立ちたいのです。どこかでそう考えているのに機を逸してしまう。本来、自分はもっと違ったはずではないのか、という疑いを誰しも抱いている。だけど職場や家庭といった身の回りの雑事に追われ、そこに安住して徒に日を送ってしまう。きっかけはちっぽけなことでいい。衝動でもいいのです。バスが来たら乗ってしまう。行き先も確かめずにね。そのことで可能性が開ける」

 牛島によれば集まる者が必ずしも物事を前向きに考えているわけではない。むしろ人生行路から脱線してしまった人々が多いと言う。自分の居場所を見出せず、どうしたらいいのかわからない。だから一人で「こころの灯台」にやってくる。明るい未来に旅立とう、という心境ではない。過去に戻りたい、平穏な場所に隠れたい、そうしたケースが多いそうだ。恋人や友人に裏切られた者。受験や就職活動で破れた者。職場の人間関係が険悪、事業に失敗、あるいは親子の不和などで家にいたたまれない者。そして家族も友人知人も大方、鬼籍に入り取り残された者。事情はさまざまだが共通しているのは自分を肯定できないことにある。

 会話を交わしているうちに問題を客観視して自力で解いていける人もいる。

 だがそうならないときは脱出するしかない。バスは今も運行されている。全国津々浦々、どこであれ待っていれば必ずやって来る。そう信ずることが力となるはずだ、と言う。

 どうやら宗教信心の類ではないのか、と話を半分に聞いていた。

 牛島が食事を終えて帰り、最後の客も送り出されると、柱に取り付けられた振り子時計が十時を告げる。射水から通っているというアルバイトの女性は先に店を出たので一人で洗い物をしている真菜を手伝おうと信之もカウンターに入った。

「毎晩、こうなの? 」

「まあね。でも慣れたよ」

 二人で一緒に流し台に向って作業をしているとまるで夫婦になって、日々の生業を共にしているかのような錯覚に陥った。洗い物を終えて布巾を絞り、道具を片付けているとふとした拍子から指先が真菜の手に触れた。色白の肌が荒れて赤く染まっている。真菜はすぐに手を引っ込めたが、

「写真、うまくなったね」

 と言いながら艶やかな瞳を向けてくる。

 しばらく会わない間に目元のくぼみが深くなった気がする。髪は以前よりも短くして無造作に束ねているだけだし、ほとんど化粧をしていないように見える。それでもそんなふうにやつれた様子がまた愛しい、と信之には感じられた。二人の顔が近づいて視線が交錯する。抱き寄せようと伸ばした腕を、

 ダメよ、

 と真菜は押し返す。それでも二つの身体は燃え上がるように熱くなりいったんは絡み合う。もつれあい、求め合う。それが必然に感じられた。ところが背後あったスツールが倒れてしまうと真菜は慌てて腕を振りほどく。今はダメ、と繰り返し信之の本意を確かめるように見つめ返してくる。

 目が大きく見開かれていた。

 そのまなざしは動物のように無垢で、人間としての個を越え、神仏さえ思わせる崇高さが感じられた。欲望の焔が燃え盛っている内奥をすべて見透かされたように感じて信之がたじろぐと、その隙をついて真菜は「おやすみ」と言い捨て逃げるように二階に上がってしまう。

 やむなく信之は予約しておいた二軒隣の民泊に向う。蒲団屋を改装したドミトリーで、シャワーと共同便所があるだけの質素な宿だった。スマートホンの手続きで鍵が開き、支払いまで済んでしまう。二段ベッドの並ぶ部屋に入りあてがわれた番号を探して荷物を置くと横になる。どこからかいびきが響いているがあまり気にならない。横になるとしばらく悶々としていたがやがて旅の疲れからか深い眠りに落ちた。


 翌日は晴れていた。気持ちのいい朝で、カメラと三脚をかつぎバス停を探してみた。海岸沿いに歩くと五分もせずに見つけられる。防波堤の前にいくつかのベンチが並んでおりそのうち一つの脇に停留所を示す看板が置いてある。ベンチには老婦人が座って編み物をしていた。

 おはようございます、

 と声をかけると婦人は顔を上げて会釈した。古いものらしくすっかり錆びついている看板には「こころの灯台」と書かれており時刻表もついている。ただし時刻を示すはずの数字はない。空欄なのだ。

「バスは来ませんよ」

 婦人が話しかけてきた。

「そうですか。ではなぜここに? 」

「なんかほっとするから。ここで待っていれば娘が帰って来る気がして」

「お嬢さんですか」

「ええ。もう二十年以上前に亡くなったのですけど、よく夢に出てくるの。いわゆるお迎えなのかな。そうだとしたらあたしもそろそろ、ってことだけど」

 そう言って微笑むと作業に戻る。日差しは暖かいがまだ気温は低く、座っているのは寒いだろう、と思えた。信之は写真を撮影していいですか、と許諾を取るとアングルを探った。低く構え逆光気味に撮るといかにもアートっぽい画面になる。一方、光を溢れさせ人物中心にしても絵になった。撮影をしているうちに妙な気分になる。撮っているのではなく撮らされている。バス停はまるでセットだし、婦人はモデルみたいだ。一期一会とはこういうことか、と自問する。

 陽は次第に高くなりいつの間にか飛来したカモメたちが鳴いている。

 例の低い笑い声を立てながら牛島が防波堤の梯子段から現れた。海岸にいたらしい。どうも、と降りて来る。しゃがみ込むとぶら下げていたビニール袋から貝殻を取り出して地面に並べてみせる。白、紫、灰、橙、色とりどりで大きさも形もさまざまだ。どれが好きですか? と婦人に尋ね、薄い水色の貝殻をプレゼントです、と渡す。

「よく見てください。生き物には個性がある。一つとして同じのはない。だけどみんな逝ってしまう」

「イッテシマウ? 」

「ええ。しかも戻ることはできない。だから慌てないことです。ゆっくりでいい。誰でも同じ。いずれは立ち去るのですよ。先になるか、後なのか、それは誰にもわからない。だから挨拶は大切だ。やって来て立ち去る。こんにちは、さようなら。一言でいいのです」

 そんなふうに言いながら巻貝を一つ信之の掌に載せる。

「こうして問いは渦を巻いている。だけど中心に到達しても答えは出ない。反対側にまた同じような渦が巻いている。問いは繰り返されるのです。確かなのは謎があるというそのことだけです」

 信之は真菜の瞳を思い浮かべる。

 人間とは謎なのだ。言葉の力では及ばない深みがある。だから一緒にいても簡単には解けない。「謎を共有し続けながら暮らすことを愛と呼ぶ」とあるイタリアの哲学者は書いていた。

 真菜が苦しんでいるのは知っている。夫が交通事故で死亡し彼女は流産した。喪が明けるや否や、身を粉にして働き始め料理の修行でイタリアにも一年あまり滞在していた。それでも忘れることができないのだろう。今は調理台に向かうことだけが癒しなのだ。時が流れ、氷結した悲しみが解凍するのを信之は待っている。

 昼になると婦人は立ち去り、腹が減ったので「ファロ」に戻った。ランチタイムも戦場のような忙しさだったので、信之もエプロンを借りて注文を取り、客に料理や飲み物を運んだ。しまいには勘定もこなした。助かる、と真菜たちも喜んでいる。アルバイト代はなし。ただしまかない付き。三人は残り物のミネストローネとパンで腹を満たす。ありつけたのは午後二時を過ぎていたが。

「こころの灯台に行ったの? 」

「うん、女の人がいて、亡くなった娘さんを待っていた」

「そう。現れた? 」

「まさか」

「あたしは旦那に会ったよ。知っているでしょ、あの人の好きだった黄色いポルシェでさ、海の上を飛んで来て浜辺に着陸したの。手を振って合図したら向こうも振り返してくれた。それだけだったけど」

 驚きのあまり手にしていたコップを落としそうになった。夫の写真は見せてもらったことがある。愛車のポルシェも写っていた。その車が彼の棺桶となってしまったと聞いたのだが。

「お金を払わないとだめみたい。あたしは一万円渡したけど」

「もったいない」

「そう? お布施と思えばいいじゃない。残念なのは会話ができなかったこと。波長がどうとか言っていたけど」

 そんなことを言って平気な顔をしている。あなたも誰か会いたい人を待ってみたら、と言われて憮然とした。


 午後、「こころの灯台」まで出向いたが牛島はいなかった。ベンチの周りをうろうろしていると警察官が通りかかった。胡散臭げな視線を投げかけ足を止める。

「あんたも誰かを待っているの」

「いいえ」

「この先の施設から入所者が行方不明だと連絡があってね、見ていない? 」

「ご老人ですか」

「うん、牛島という男だけどしばしばこのへんを徘徊していてね」

「今朝、ここに居ました。貝殻を拾ってきたりして。これです」

 と信之はポケットに入っていた巻貝を取り出してみる。警察官は、ああそう、と苦笑した。

「ほら吹き爺さんだから気をつけて。みんな騙される。波動がどう、とか言って金を取られた人もいる。典型的な詐欺のセリフだけど立件するのに十分な証拠がない。現れたら交番に連絡してください」

 そう言い捨てると行ってしまった。

 その後ろ姿を見送りながら真菜が心配になる。慌てて店に戻るとアルバイトの女性が番をしていて真菜は買い物に出ているという。

 やむなく信之は富山市内に向かった。その夕は、ガラス美術館で地元出身の水田という職人のカンファレンスがあり、顔を出すと約束していたのだ。大学卒業後に入った専門学校での友人で、写真芸術とはなにか、夜な夜な熱い議論を交わしたものだった。水田は光の表現を追求するうちに被写体としてのガラス工芸に魅せられ、ついには自分で作る側へと転向してしまった。ここ数年は雪や氷をモチーフに抽象的なオブジェを製作しており、その晩の講話も自然の造形に学ぶのが創作の基礎である、という内容だった。

 久しぶりの再会だったので、夜中まで居酒屋で話し込む。

 イタリアで撮影した写真を見せると、山と人の関りをテーマにするなら立山を撮ってみたらどうか、と水田は提案した。

 山があるから海も豊かになる、

 との言葉には重みがあった。山の蓄えた清涼な水が富山湾に流れ込み、天然の生簀とも呼ばれる豊穣な漁場を形成している。なるほど三千メートル級の峰々がこれほど海岸に近接している場所は他にない、と気がついた。

 ともあれまずは下見だ、明日、案内するよ、と言うので信之は富山駅に隣接した地鉄ホテルに宿を取ることにした。

 寝る前に気になって真菜にメールとラインを送ったが返事はなかった。

 翌朝は始発電車で水田と連れだって立山に向かう。山岳写真は彼のテリトリーではないが、屏風のように聳えている立山連峰に惹かれたのも事実だ。彼が勝手に師匠と仰いでいる写真家は長年にわたってカトマンズで人々の暮らしを撮影して数々の賞を獲得、国際的に著名となったのだがその作品の中でとりわけ目を惹くのが背景となっているヒマラヤの山塊だ。自分には決してあんな写真は撮れない。だけど山を見てみたい、山について知りたい、という抑えがたい好奇心があった。

 信之はまだまだ経験不足で方途が定まらない。手探りで試行錯誤している。かつて水田は自分よりも迷いを深めていたが富山に腰を据えたことで、雪と氷を手掛かりに確実な一歩を踏みしめていた。そう考えると焦りも湧く。

 残念ながら天候は思わしくなく、雨は降っていなかったが山塊は分厚い雲に覆われている。水田に付き従い電車からロープウェイ、バスと乗り継いで弥陀ヶ原まで上がったがあたり一面、霧が立ち込めてほとんど視界がなかった。

 こういうことか。

 白い壁の前で信之は前夜、牛島が去り際に残した言葉を思い出していた。

 あなたはなぜ写真を撮る? 人の心を揺さぶるためでしょう。普段、見えていないものを見せる。シャッターの瞬間を切り取って見えるようにしてしまう。本来は見てはいけないものをね。動いているものを機械の力で無理に停止させた結果です。いわば死体ですよ。

 死体?

 そう、時間の死体です。すべては生きて動いている。止まっているものは一つもない。生き物なら分かりやすいでしょう。心臓が止まったら死体。息を止めたら死ぬしかない。でもミクロのレベルでは石だって動いています。

 牛島はそんなことを言っていた。

 確かに霧の壁はとらえどころなく動き続けている。撮影して静止画の作品として提示するのは難しいと思えた。

 時間を止める。

 なるほどだからこそ写真は妖術なのだとも言える。幕末、人々は魂を盗まれるとして被写体になることを忌避し、しばしば拒否したという。あながち迷信とも言い切れない。時間を止めることによって現れる画像は魔法である。精緻な似姿はある種の分身でもあり使いようによっては人々を惑わす危険な存在だ。

 だとしたら自分はカメラを使ってなにを見ているのだろう。なにを見せたいのだろう。そう問い返す。考え事にふけっていると、

 大事にしろよ、

 と水田が話しかけてくる。

 彼女に決めたのだろう。

 真菜ことだとわかるのにしばし時間がかかった。目の前では霧が渦を巻いている。はてしない謎へと誘い込みながら。


 海辺に戻るとバス停はなくなっていた。

 誰もいないベンチが並んでいる。もの淋しい光景だ。信之はカメラマンの習慣から腰を落とし視線を巡らせる。

 空にはカモメが飛び交い呼びかけてくる。

 サヨウナラ。

 牛島が話していた挨拶の言葉が自然に浮かんだ。ここにいた人々は立ち去ったのだ。カモメはそれを見送ったのに違いない。だがいつかは自分の番も来る。

 バスが来て、行ってしまったのだろうか。

「ファロ」に行くと真菜はランチ営業に追われていた。凛とした立ち姿にスカイブルーのエプロンがよく似合っている。

「牛島さん、施設の人らしいね」

「そうよ。あなたは誰かに会えた? 」

 いや、と首を振る。

「残念だったね」

「昨日の夕方、お巡りさんが探していたけど。バス停もなくなっていたよ」

「移動しただけよ。すぐに見つかるから大丈夫」

 そんなことを言いながら鼻歌まじりに皿を並べる。

「そうだ、お願いがあるの。バス停の写真を撮ったでしょう。いくつか見繕ってプリントしてくれないかな。あとさ、この先の港の灯台、後で案内するからそこも撮影して欲しいのよね」

 もちろん、と答えながら信之はアルバイトのスタッフが用意してくれたエプロンをかぶり、手伝いを始める。調理場もホールも手を休める暇はない。あっという間に嵐の二時間あまりが過ぎて、片付けが終るともう日差しは傾き始めている。

 まかないをつまんでから真菜と二人で店の備品の自転車に乗った。一台しかないので二人乗りだ。真菜は後ろの荷台に横に腰かけて足をぶらぶらさせる。

 磯の風に吹かれると気分は浮ついた。

 灯台までは片道十分程である。漁港の手前の駐車場に自転車を置き防波堤沿いに伸びている突堤へざらついたコンクリートの上を歩いた。遠くからは小さく見えるが近づくと思ったよりも高さがある。赤と白の縞模様に塗られ梯子で登れるようになっているが無人の設備だ。

「かわいいでしょう」

 と言って微笑んでいる真菜を撮る。シャッターの音に振り向いて表情は深くなる。潮風にもて遊ばれる髪に躍動感があり、夕日を浴びてすべてが照り輝いていた。

 一枚、二枚、三枚。

 どんなに角度を変えてイメージを重ねてもすべては記録できない。一方で切りとられた光と影は永遠の痕跡を残す。かけがえのない時が堆積していくのだ。

 全景を撮るには離れた方がいいだろう、と港の近くまで戻る。

 西から夕闇が迫り空の表情は刻々と変化した。灯が入ると向かい側の突堤にも似たような灯台があるのに気がつく。光は水平線の彼方へと投げられ、雲と雲の間をゆっくりと攪乱し、近づくと急に加速して頭上で閃きまた遠ざかっていく。 

 ピカッ、ピカッ。

 二つの光芒は決して同期することなくすれ違っては薄闇で交錯する。そのいびつなリズムが不穏に感じられた。空模様は下り坂らしく次々に沸き上がる雲を背景に夕焼けが薔薇色に広がり始め、やがて紫から藍へと色を濃くした。シャッタースピードを落とし、絞りを調整しながらその深みを再現しようと試みる。

「ねえ、これからどうするの」

 防波堤にしゃがみ込んで水平線を見やりながら真菜が問いかけて来る。ディナーの準備を始める時間のはずだがなぜか店に戻ろうとしない。

「どうって? 」

「写真を撮り続けるの? 」

 そうだね、と答えると真菜は肩にかけていたポーチから貝殻を取り出して手に乗せた。

「牛島さんからもらわなかった? バスの乗車券」

「ああ、貝殻ならもらったよ」

 ポケットを探ると固く冷たい感触がある。並べてみると真菜の貝殻と形が似通っておりつがいにも見えた。これが乗車券か。なんだか子供じみているけどアートっぽいとも言えるな、と微笑む。

「さあ、どうする? バスが来たらあたしと一緒に乗る? 」

「もちろんさ」

「嘘よ。本当は信じてないでしょう。怖いのよ、真実を見るのが。写真家なのにね? 見ていないの。見えていないのよ。でも無理しなくていいの。きっとあなたにはあなたの道があるはずだから」

 そう言って鼻の付け根のあたりをくしゃっ、と歪めて泣き笑いのような表情になる。

 自分はなにを見ているのだろう。なにが見えていないのだろう。

 怖くなんてないよ!

 信之は慌てて否定しようとしたが、跳ね除けるようにして真菜は立ち上がり、両腕をさし伸ばして大きく振るのだ。水平線の彼方、黒々と広がる海の上にぴかり、とライトが浮かび滑るように近づいてくる。灯台に呼応するように光は明滅した。波長、という言葉が脳裏にひらめいた。

 まさか?

 問いに答えるかのように背後で聞き覚えのある低い笑い声がはじけた。

 どうやらバスがやってきたようだった。

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