夏の世のまぼろし。

猫野 尻尾

第1話:乙瀬と名乗る女。

その人「女性」は僕の横にそっと座った。

足音さえ立てずに・・・静かに、穏やかに僕の隣に座った。

着物を着た綺麗な人だった。


蒸し暑い夏の夜。

ホテルから涼みがてらに出た海のベンチ。


僕の横に座った女性を、失礼にならないよう、なにげに見たが、

見覚えのない顔・・・いやどこかで会ってる?


でも思い出せない。

その女性は僕に気づいたように僕を見て言った。


「私のこと覚えてません?」


「いやあ、すいません・・・ちょっと・・・」


「そうですか・・・一度お会いしただけですからね」


「あの・・・あなたは僕のこと知ってるんですか?」


「知ってますよ・・・あなたにお会いしてますし、お手紙も差し上げました」


「手紙?」


手紙って・・・もしかして半年ほど前の・・・あの手紙?


思い出した。

それは僕が出張で岡山に行った時、泊まった旅館で中居さんだと思った

若い女性がいた。

綺麗な人だったことは覚えてる。

思わず二度見してしまったくらいだから・・・。


僕が旅館に泊まってる間、甲斐甲斐しくお世話をしてくれた女性。

若い中居さんだなと思っていたら、実は彼女はその旅館の若女将だった。


だからもちろん既婚者だ思っていた。

話を聞いてみると彼女はまだ独身で先代の後を継いで女将になったらしい。


だからこの旅館に嫁に来たわけじゃない。


うん、思い出した・・・あの時のあの旅館の若女将。


「乙瀬さん?・・・乙瀬 美智子おおせ みちこさん?」

「僕に手紙をくれた?」


「そうです」


僕は四国に住んでいる。

岡山から帰って、一週間程した頃、僕の下宿に僕宛の一通の手紙が届いた。


手紙の送り主の名前は「乙瀬 美智子おおせ みちこ

その時は、思いあたる節はないと思ったが、とりあえず封を切って手紙の内容を

読んでみた。


その手紙には僕に対する思いが綴られていた。


《私は、あなたがお泊まりになった岡山の某旅館で若女将をしているものです。

名前を乙瀬 美智子と申します。

いつぞやは当旅館をご利用いただきありがとうございました。


実はあなたが私どもの旅館をお尋ねくださった時、お恥ずかしいことながら、

私はあなたのことを見初めてしまいました。

それ以来、あなたのことが忘れられずにいます。


遠距離ではありますが、できましたら、今後お付き合い願えればと

お手紙を差し上げました。

本当は、お会いしてお話ができたら理想的ですが距離がありますから、

そう度々と言うわけには参りません。


ですから、こうしてお手紙のやりとりだけでも構いません。

いかがでしょうか、もしよろしければどうぞ私の心情をお汲みくださって

よいお返事をいただければ幸いと存じます》


そんな内容の手紙だった。

どうして俺の住所が分かったんだと一瞬思ったが旅館に泊まる時、宿泊帳に

住所と名前書いたっけ?


彼女はそれを見たんだと思った。


僕はすぐに返事を書いて封筒をポストに投函した。

手紙のやりとりでいいのなら、僕はかまわないと・・・交流を深めて

いきましょうって返事を書いて出した。


でもそれからいくら待っても一向に彼女からの返事は来なかった。

なんだ、冷やかしか・・・って思った。

寂しい独身男をからかって面白いか?


そんなだから僕は彼女の存在を、つい忘れてしまっていた。


今日まで・・・。


「君から手紙をもらって、それから僕も君に返事を書いて出したんだけど、

君のところには届かなかったのかな?」


「いいえ、あなたからのお手紙は届きましたよ」

「とても嬉しくて、そのお手紙を胸に抱きしめました」


「でもそれから、君から何の返事も来なかったですよ?」

「で・・・今夜、僕にわざわざ会いに来たんですか?」


「それにしてもこのホテルがよく分かりましたね」

「今の私にはあなたの在り処がどこにいても分かるんです」


「実はあなたにお手紙をいただいた後、不慮の事故にあって亡くなったんです」


「え?・・・亡くなった?」

「て・・・今、ここのいるじゃないですか?」


「ここに来たのは、心残りがあったからです」

「私は中途半端な想いのまま、あなたとお別れしければならなくなりました」


「せめて、もう一度お会いできたらと思って、このお盆に帰って来たんです」


「帰ってきた?・・・え?・・・ちょっと待って・・・君は?」

「乙瀬さんお亡くなりになってたんですね・・・知らなかった」


「どんな形であれ、あなたとこうしてお会いできてよかった・・・」

「できれば、ずっとお付き合いしていたいですけど私は今夜のこのお盆に

しか帰って来られませんでした・・・」


「ですが今夜、あなたに私の想いを改めてお伝えすることができてよかったです」

「お互いも想いを確かめることができて私は本望です」

「思い残すことはありません」


(と、いうことは彼女は霊?)


「では、私はそろそろ行かなければなりません」

「お名残おしいですが、この世に長く留まることはできません」


「行くって?・・・どこへ?・・・待ってよ」


「さようなら・・・どうぞお元気で・・・」


そう言うと彼女は僕ににっこり笑いかけて透けるように静かに消えていった。


それはひとときの逢瀬・・・それは僕にとっての夏の世のまぼろし。


おしまい。

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夏の世のまぼろし。 猫野 尻尾 @amanotenshi

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