僕とステラ

僕とステラ

 飛んだ羽虫を殺したらしいのはステラだった。僕は羽虫が飛んでいたことには気づかなかったし、彼女がいきなり手拍子をあげたことに吃驚した。でも、彼女は羽虫を殺したらしい。彼女は嬉々としている様子を僕に見せながら手のひらを広げた。そこには何も残っていなかった。彼女は、でも確かに羽虫を殺したの、と自らの手を広げて満足そうにしていた。いつも生き物を大切に扱っている彼女がそんな風に嬉々としている様子を、僕はどうでもよく思ってしまった。それはひとつのトリップだったと、納得することができてしまったから。

 うん、そうだね、と彼女に返した。何も見えない手のひらをなぞって、そうして居もしない羽虫を僕は彼女からそっと落とした。その様子を見て、彼女はうっとりとしたような表情を見せた。その姿には、まるで愛情を始めてもらった幼子のような純粋な笑顔があった。僕はその笑顔を見ることができて嬉しく思った。演技をした甲斐を自分の中で見出して、満足することができた。


 ステラは脱脂綿にモルヒネを湿らせて、そこにクリスタルを更に染み込ませるように中心へ置いた。クリスタルが溶けるのに十数秒もかからなかった。ステラは慣れているように手首と肘の間に太いゴム管を巻いて、そうしてきつく締めあげた。

「こうするとね、血流が流れたときに頭が幸せになるの。そうすると、何も考えることができない幸せがやってくるのよ。ああでも気を付けてね。仰向けだと吐いちゃうから」

 ステラはそう言うと、クリスタルが染みたモルヒネの脱脂綿を、灰皿にする予定だったガラスの器に絞り出した。慣れている様子を彼女は見せてくれて、僕はそういうやり方があるということを教えてもらった。

「まだあなたはやらないでしょ。それなら楽しいことをしましょうよ。ほら、私、首を絞められるのが好きじゃない。首を絞められている間、私は苦しいけど、苦しいのが好きなの。いつものようにやってくれる?」

「いいけど……」

 その後に言葉を続けようと思ったけれど、言葉は特に思いつかなかった。死の危険性について考えるのは馬鹿馬鹿しかった。自分自身、快楽に絆されることができるのであれば、それが幸せだと感じた。

 彼女は注射器で絞り出したものを吸い上げた。たまに気泡が内部に入り込む。ずるる、と吸い上げる度に、不快に似た音が気分を汚した。ステラは特に気にしないようで、うっとりとした表情でそれを見つめている。そうしたかと思えば、また羽虫だわ、と叫んで、手のひらを大きく拍手させた。やはりそれは僕に見えなかったけれど、彼女はそれを捕まえることができたらしい。

 僕は彼女が注射器を持っていない左手をなぞるようにした。先ほどのように、ない羽虫を落とそうとした。「そっちじゃないわ」と彼女が答えた。仕方がないから、彼女の右腕を引っ張って、注射器から手のひらをなぞった。言い訳は「僕もトリップしたみたいだ」ということにして言葉を吐いた。それなら仕方ないわね、と彼女は言葉を紡いだ。彼女が満足している様子を見せたから、僕はそのまま彼女が注射器を刺す様を見つめることにした。

 彼女は注射器を刺す寸前、液体だけになるように上に注射器を向けて空気を押し出した。そこに紛れる液体の雫を彼女は惜しそうに見つめた。ただひとつの雫は床の絨毯に染みた。確かな跡となっているそれを、僕はどうでもいいと感じて、ただ彼女が針を刺す様だけを目撃した。手本にしなきゃいけなかったから。

 針が肌に入っていく。彼女は自分の血管を探り当てるのが得意らしい。それが正しいのかはわからないけれど、それでも彼女は、当たったわ、とそう言葉を吐いた。注射器の中には確かに少しばかり赤色が滲んでいた。きっと、本当に血管に触れたんだろう。よかったね、と僕が言葉を吐くと、彼女は満足そうにピストンを押しこんで、そうして液体を身体の中に取り込んだ。そうすると、彼女は注射器を抜いて、左手にきつく締め付けていたゴム管を外した。

 お願いがあるの、とステラは言った。

「ねえ、私を後ろからやって。別にあなたに殺されるのなら本望だけれど、ただ私、後ろからが好きなの。奥に押しこむでもいいの。別に、あなたの好きなようにしていいけれど、首を絞めることを忘れないでね。後ろにすることを忘れなぃぃ……」

 彼女の言葉はそうして途切れた。目を見れば上を向いていた。彼女は快楽に身を浸していた。ただ座っているだけの彼女の姿勢に力がなくなっていくのを、見るだけで感じ取ることができた。それはひどくゆらゆらとしていて、そのままベッドではない方に転がり落ちそうになった。僕はそれを支えると、そのまま後ろに倒すように、ベッドに彼女の裸体を広げた。ステラの願いを思い出すように、いちいち身体をうつぶせにして、そうして彼女の顔を枕にうずめた。

 苦しいかな、苦しいかもしれない。枕をどかしてもあげてもいいかもしれない。でも、そうするのは億劫だった。今の彼女は死体みたいに重いし、死体のようなものだから、別にやらなくてもどうでもいいと思ってしまった。

 うつぶせにした彼女を見て、僕は彼女の願いを反芻した。だから、彼女の裸体を味わうために、その足を広げた。関節が思う通りに動いたり、もしくは力が入ったり、それは容易なことではなかった。腰をもちあげるのに相当な時間をかけてしまった。彼女の足を支点にして、なんとか体勢を作り上げた。僕はそれを見ても興奮をすることはなかった。

 首を絞めて、と彼女は言った。確かに、彼女は首を絞められることが好きだった。でも、僕にはその加減がわからなくて、いつかその命を締めあげてしまう感覚に襲われて嫌いだった。だが、それでも彼女は僕に求めてくる。きっと僕ではない誰かであってもそうなのだろう。

 彼女の昔の恋人の話を聞く度、僕は首を絞める力が強くなった。そうすると彼女も僕の鼓動を締める力が強くなった。それを心地がいいと言えば、心地は良かった。

 僕は彼女の空洞を埋めた。悪戯心があった。いつもはコンドームをつけていたけれど、今日に関しては目覚める者はいないし、止める者がいなかった。そもそも彼女は好きにしていいと言葉を吐いていた。それでも自分の理性が裏側で止めていたが、僕はクリスタルをパイプに入れて炙ることでそんな自分を殺した。そうして昇った煙を直に肺に吸い込んだ。

 自分の快楽の線が震える感覚がした。通常にはない感覚を覚えた。僕の中にあるギターの弦が電気を走らせて、そうして誰かにピックで悪戯されるように震える感覚が脳にあった。脳から心臓に伝播し、さらには血流として腕から足に痺れる心地のいい感覚がした。理性を自分自身で殺した。

 起き上がらない自分の鼓動を認識した。彼女の思惑に答えなきゃなぁ、と頭の片隅に抱いていた。頭に抱いていたから、せめて行動をしようと彼女の空洞に指を入れた。指の一本では足りないらしく、そのまま指の二本を入れた。足りなかった。飽きたから四本ほど入れてみた。締めつけはきつかった。容易に動かすことはできそうもなかった。だから、結局一本にして、彼女がいつも心地よく感じるらしいところを指で押してみた。それでも特に反応はなかった。

 今、この瞬間に彼女は生きていなかった。ステラが味わっているトリップの感覚を僕は知らなかったから、後で確かめなければいけないような使命感があった。パイプの中にあった煙を吸い込み終わった後、立て続けに僕は煙草と、またクリスタルを吸い込むことにした。生憎、僕には煙草の持ち合わせがなかったから、いつも彼女が吸っているメンソールの煙草を貰うことにした。彼女は本数にうるさかったけれど、今のこの時くらいは許してもらえるだろう。僕は火をつけた。

 虚脱感が支配し、虚脱感の中に鼓動が生まれてくる。相反する感情が逆さまになる感覚がある。逆さまになっても、そもそもが逆さまに存在するから関係のないことだった。

 支えるように仕向けた彼女の腰は、ベッドのシーツに滑って、そのままうつぶせになった。僕は気にせずに煙草を吸った。適当に、持っていた煙草を彼女の身体に当ててみたりした。

 彼女の体には焼け跡がいくつか残っている。昔の恋人にやられたらしいことを聞いた。その話を可哀相だと思ったのも束の間、彼女は僕にもそうして欲しい、と言葉を吐いた。彼女は苦痛こそが快楽であると信じていて、実際に彼女は痛みを覚えるたびに喘ぎをあげていた。僕にはよくわからないことだった。

 死生観が異なっていた。ただ生きるだけの僕とは違って、彼女は死ぬことを生きることだと表現した。

「人は死んでいくものなの。ええ、人だけじゃないわね。生きるものは全部死んでいくの。いいことじゃない。石にだってできやしないわ。みんな平等よ。素晴らしいことじゃない」

 だから、私は苦痛を愛しているの。

 ステラは確か、そう言っていた。

 なんとなくそんな彼女に惹かれて、そうして僕は彼女を金で買った。彼女は最初こそ僕の見てくれに満足はしていなさそうだったけれど、次第に彼女は子犬がなつくみたいな仕草で僕にすり寄るようになってきた。優しい人、と僕を表現した。僕はその表現が嫌いだったけれど、彼女に惹かれているのは事実だし、それでいいと思った。

 吸いがらを、彼女がモルヒネを零した灰皿に落とした。力いっぱいにフィルターを曲げて、煙草の残骸を見て満足した。

 僕は彼女の身体に向き合った。

 傷だらけの身体をしている。いつか鞭で叩いた腫れが背中に響いている。それでも彼女は喘いでいた気がする。煙草の痕もある。腕には傷もある。その傷は彼女自身がやったことだったはずだ。

 そろそろ愛さなければいけないと思った。だから、彼女に覆いかぶさるようにした。もう彼女の体勢を変えることはしなかった。

 ステラの身体を味わった。性的な快楽はそこまで頭に反芻しなかった。コンドームをつけていないことによる快楽の増長はそこまでなかった。どちらかと言えば、取り込んだクリスタルの弦の振動のような感覚だけが反芻していた。そちらのほうがひどく心地が良かった。

 締りが足りなかった。彼女が望むとおりに、僕は彼女の首を絞めた。比例するように彼女の中は狭くなった。それに満足すると、僕は彼女の中にそのまま精を吐き出して、そうして彼女の空虚を埋めた。

 その後も立て続けにやることにして、奥をこするようにした。性欲がそこまであるわけではなかったけれど、頭の中の弦の振動が収まらないから、そのまま彼女の空洞を埋め続けた。

 倫理はない、快楽しかない。快楽は悪いことではない。そうして快楽、震える感覚。

 いよいよ疲れてしまって、吐き出し終わった鼓動を僕は落ち着かせて、先ほど見せた彼女の仕草を思い出した。

 ゴム管を腕に巻いた。きつく締めあげて、そうして傍らに置いてあったモルヒネと脱脂綿を手に取った。脱脂綿に液体をしみこませて、その中心にクリスタルを置く。見る見るうちにクリスタルは溶けていって、これでいいのかな、とか迷いながら、脱脂綿に注射器を刺した。灰皿は僕の吸いがらで汚れていたから使う気にはなれなかった。

 じゅう、じゅう、と吸い上げる音がする。気泡が入り込むことの心配より、脱脂綿の繊維が注射器の中に入ることについての不安を覚えた。でも、特に目を凝らして確認しても白い繊維が入っている様子はなかった。

 安心感を覚えて、僕は彼女がしていたように空気を抜いてから、注射針を左腕に差し込んだ。ちくりと刺す感覚がする。彼女は斜めから注射針を刺していたな、とか、そんなことを思い出して、垂直で刺していた注射針を抜いて、何度か斜めに刺して、四度目で血が滲む様子を確認した。血管に入ることができたらしい。僕はそのまま抵抗感のある注射器のピストンを押しこんだ。

 まだ、トリップする感覚はわからない。ああ、そうか、ゴム管をそのままにしていたから、外さなければいけない。確か、うつぶせにならなければいけないはずだ。彼女はまだ目を覚ましていない。だから、座ったまま外すのはやめておこう。

 横たわって、息苦しい感覚を布で覆いこんで、彼女と一緒にベッドに転がる。それを合図としたように、僕は巻いていたそれをかいほうし──。


 僕が目を覚ました時には、不快な匂いだけが部屋の中を占有していた。酒に酔っ払った老害が吐き出した臭いとも言うべきものが空間に広がっていた。先ほどまで何をしていたのだろうか、何ともよくわからない感覚を覚えながら、その臭いのもとをたどれば、ステラがそこにいた。

 仰向けで、吐瀉物を口にまみれさせながら、白い顔をしていた。

「朝だよ」と声をかけてみた。彼女の体を揺らしながら呼びかけてみた。実際に朝だったのかどうかはわからない。窓は閉め切っていて、日光を遮るためにガムテープで覆っていたから。

 その際に触れた身体の冷たさに僕は吃驚して、なお大きく揺さぶった。彼女は空洞に白濁を残しながら、吐瀉物をあげて呼吸をしなかった。僕は何度も揺さぶった。揺さぶって、顔を少し強い力で叩いたりした。

 彼女の目は乾いていた。乾いていたからきっとそういうことだと、裏側にいる冷静な自分が判断した。でも表にいる自分はどうしようもなくて、裸体の彼女の心臓をなぞるように押しこんで、押しこんで、押しこんで、吐瀉物があっても気にせずに息を押しこんだ。

 押しこんだ、押しこんだ、押しこんだ。

 それに、もう意味はなかった。


 彼女の死因は窒息死だった。寝相により仰向けになってしまった彼女の気管に吐瀉物が入り込んだことによる自死に近いものだった。そのことを知った僕は、どうすることもできなかった後悔に苛まれた。

 ステラの父親は、自らの家に救急車が来たことに驚いていて、その事情を知ると彼女の顔のように真っ青になった。もともと僕との交際を喜んでいなかった彼だったが、特に叱責するでもなく、ただ呆然と彼女の死体を見つめるだけで、そうしていつの間にか消えていった。


 彼女が亡くなって、一週間が過ぎたころに、ステラの父は交通事故で亡くなった。酒気を帯びたうえでの速度超過で数多の人を巻き込んで死んでいったらしい。そんなことを知ったのはテレビでのニュースだった。


 彼女は生き物が好きだった。生き物が好きだったのは、死んでいくから。

 きっと、そういうことなんだろう。

 そういうことなんだろう。

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僕とステラ @Hisagi1037

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