【エッセイ】なぜ私は創り続けるのか

藍埜佑(あいのたすく)

【エッセイ】なぜ私は創り続けるのか

 絵画。詩。音楽。小説。

 私はなぜ毎日こうしたものを創り続けるのだろう?

 百年後には残っていないかもしれないのに。

 百年後には私自身もいないのに。

 いや、いなくなるからこそ残したいかもしれない。

 この作品の中に、どこか私を感じてほしいのかもしれない。


 しかし結局、「感じてほしい」というのは他者を前提にした考え方だ。

 その他者ですら二百年後にはおそらく、いない。

 そして私を知らない新しい「他者」が、私を知らずに私の作品に触れる。

 そうやって残された作品が「誰によって創られたのか」なんてどんどんぼんやりしていく。

 ある高名な芸術家が「作品だけ残って、『詠み人知らず』の状態になるのが私の理想だ」と言っていたが、それはどんな心境なんだろう?


 私はそれは嫌だ。

 私が創ったものは私の子供。

 他の誰の子供でもない。


 創作にオリジナルなど存在しない。

 すべては過去にあった物の、模倣、改変、再生産。

 完全に新しいものを創った、などとうぬぼれる者は、単に過去にあった同じものを知らないだけだ。

 そう言う人もいる。


 でも今日、私が創った作品には、確かに私にしかこめられないものをこめた。

 その自負はある。


 結局、これはさがなのだ。

 創り続けずにはいられない。

 創っている過程において、自分と自分が深く対話する。

 それが肝なのだ。


 だがある日、私は10年前、20年前の自分の作品を見て驚いた。

 自分が創ったもののはずなのに、まるで他人が創ったものをみるかのような新鮮さがそこにはあった。

 結局時を経れば「私」も「他者」となるのだ。

「私」と「他者」は生々流転して、交錯し、すれ違い、時には一体となる。


 作品を創った「私」は、しばしば過去の自分と未来の自分、そして何より現在の自分との間で揺れ動く。

 それは自分自身が創りだす作品を通じて、過去と未来、そして自分自身との絶え間ない対話を続けているからだ。

 自分が生み出した作品を通じて思い返せば、かつて「私」と考えていたもの、つまり以前の自己がすでに「他者」に変わってしまったのだ。

 自分の作品というのは実際には常に変わりゆく自分自身の過程、新旧を含む全てを包含しているのだ。


 だから作品だけが残り、「詠み人知らず」状態になるかもしれない。

 しかし、それはまた違う意味で私自身が「他者」になった証でもある。

「私」が語られなくなり、新たな解釈が施され、新たな「他者」が出会うたびに、私の作品は違う意味を持つ。

 私が「他者」になることで、私の作品もまた薄れていく自我から解き放たれて新たな命を得る。


 だから私は、創り続ける。

 いつの日か、自分が創った作品が、「他者」の手によって新たな解釈をされ、新たな命を授かることを願いながら。


 かくして「私」と「他者」は常に流転し続ける。

 その流転が、結果として創作という行為を通じて私を深く、本質的な理解へと導く。

 私の子供である作品が、私を含めた新たな「他者」と繋がったとき、初めて私の存在が完全な形で認識されるのだ。

 それが、私が創作を続けるさが、そして創作が持つ深遠な意義だと信じて。

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【エッセイ】なぜ私は創り続けるのか 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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