或る河童の生誕祭

にわかの底力

或る河童の誕生祭

私が病院へ駆けつけた時には、既に彼の息はなかった。体を覆う分泌物は、最早粘り気を失い、手のひらで掬い取ろうものなら水かきの間からするりと零れ落ちてしまうだろうように思われた。

「死亡報告書です。一週間以内に役所への提出をお願いしますね」私は医者から渡された診断書を懐に仕舞い込むと、病棟の暖気で結露した窓をぬぐい、外を眺めた。山の麓の病院からは、街の様子が一望できる。

 今宵は彼の教会で、イエス・キリストの生誕祭が行われることとなっていたはずである。見ると、彼の教会の周囲だけ、何かを燃やしたかのように明るかった。

 彼の引き出しに、一枚の封筒が入っていた。封筒に封はされておらず、中央郵便の切手には消印が押されていなかった。私は中身を取り出した。鉛筆で書かれてあった。彼の字だ。宛名は私となっていた。


───


 あなたと出会って、もう八十七年が経とうとしている。互いに歳をとり過ぎた。


 だけど、今になっても、八十七年前の出来事が、つい先日のことのように感じる。丁度今くらいの季節、しかし、あの時はまだこんなにも気温が下がることはなかった。人間の世の気候変動が我々のテリトリーを侵食しつつあることをひしひしと感じる。


 ダム湖建設の反対集会、私は建設会社の現場監督に、メガホンを突き付けていた。その時あなたは、水金同盟の一員として私の前に現れ、ともにメガホンを握った。


 私は正直に、革命的共生主義だのなんだのには、からきし興味がなかった。そんな私に、あなたは同盟の運動が社会にもたらすものが何たるかを、熱心に語りかけていた。その時のあなたの、情熱の汗と苦労の泥にまみれた顔を、私は今でも鮮烈に覚えている。


 いつからか、私からあなたに語り掛けるようになっていた。仕事の事、政治の事、将来の事。結局私たちの村はダムの底に沈むことになってしまった。


それでも、あなたは前進することだけを考えていた。


 より広く、より深く、あなたは自分の運動に、革命に、誇りを持っていた。この社会が本当に求めるものは何であるか。それらを考えているなかで、あなたの顔が思い浮かばないときは無かった。


 お世辞にも、世界が良くなったとは言えない。あなたの理想とした社会は、こんなものではなかったはず。あなたがこの世界からいなくなってしまったら、次は誰がこの世界を変える。それとも、自然と変わってしまうのか。我々が何もせずとも、常にこの世は、何者かの思惑によって、移り変わってしまうのか。


 しかし私は、あなたとの日々が、無意味であったとは決して思わない。我々はあの時、精一杯に生きていたんだと。


 私は自然を愛している。春になれば野に花が咲き、秋になれば葉が落ちてゆく。夏になれば果実が実り、冬になれば木が枯れる。どんなにこの世界が変わろうと、この美しさだけは、私の中では変わらない。


 だけど妙だ。美しすぎる。今年は特に、草木の青が青々としており、紅葉の赤が赤々としていた。そして、私の中のあなたも、とても、若々しく映った。


 ありがとう。


───


 今年も雪が降ることは無さそうだ。





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