八百(やお)の楔

朏猫(ミカヅキネコ)

第1話

「おぅい、そろそろ迎え火を焚くぞーぃ」


 外からそんな声が聞こえてきた。もうそんな時間かと壁掛け時計を見たが、十一時半を指したあたりで針が止まっている。振り子も止まっていて、いよいよ壊れたかとため息が漏れた。


「ガリレオ・ガリレイが発見した振り子もさすがに限界か。いや、発明したのは別の人だったかな」


 振り子の性質を発見したのはガリレオだった気がするが、振り子時計を発明したのは誰だったか……。そもそも振り子時計が止まったのも今日ではなかった気がする。どこかで聞きかじった知識をぼんやり思い出しつつ時計から視線を外した。


(別に時計が止まっていても不便はないか)


 いつの間にかそう思うようになっていた。そう思い始めたのがいつからなのか覚えていない。「随分前のような気もするな」と思いながら立ち上がったところで障子がすっと開いた。


「そろそろ迎え火だそうですよ」

「あぁ、聞こえた」


 障子を開けたのは美しい顔をした男だった。白い手には四つの手持ち花火がある。


「毎年思っているんだが一つでいいんだぞ?」

「それでは、あなたの息子たちが帰って来られないでしょう」

「あの子たちは漁師じゃないから海から帰ってくるわけじゃない」

「それを言うなら僕の弟も漁師ではありませんよ?」


 毎年くり返しているやり取りに思わず笑ってしまった。すると美しい顔もふわりと微笑む。


「つい先日、同じやり取りをした気がしますね」

「俺もそう感じるが一年前の話だ」

「もう一年経ちましたか」


 ついと窓の外に向いた視線を追うと、薄暗くなった空とかすかに瞬く星が見えた。続けて海風とともにやって来た潮の香りが鼻をくすぐる。

 すでに数えることを止めてしまった何度目かの盆の入りを、俺は今年も香也きょうやと共に迎える。


香也きょうやと出会ったのはいつだったかな)


 思い出せないほど昔だったような気もするし、ついこの間だった気もする。「それとも誰かの紹介だったかな」と考えているうちに昔の街並みが脳裏に蘇った。

 ここは昔、大勢の漁師たちの声にあふれる活気ある町だった。おかみさんたちや子どもたちの笑い声もひっきりなしに聞こえ、毎日が騒がしく楽しかったことを思い出す。


(たしかに忙しかったが、あの頃はよかった)


 当時、この辺りは大漁に継ぐ大漁ということもあって大いに賑わっていた。余所の港では不漁が続いていたのに、どうしてこの港だけ違うんだと話題になったくらいだ。「きっと竜神様のおかげに違いない」とは古株の海人あまたちの言葉で、秋の稼ぎ時に入る前には竜神様を讃える盛大な祭りも催した。


「おぉい、凄い魚がかかったぞ!」


 ある日、網に見慣れない魚がかかった。それは大層大きな魚で全体が黄金に輝いている。これは竜神様からのお恵みに違いないと考えた漁師たちは、その魚を売らずに仲間内で食べることにした。

 細々とながら漁師をしていた俺も相伴に預かることになった。母親を亡くして久しい息子三人にも食べさせてやろうと思い、集会所に連れて行った。いずれ漁師になると決意していた十歳の長男は、漁師頭の善吉じいさんからもらった竹の網針あばりを片手においしそうに刺身を食べていたのを覚えている。

 異変は食事が終わった直後に起きた。

 最初に具合を悪くしたのは善吉じいさんだった。真っ青な顔をしながら厠へ行き、そのまま倒れてしまった。その後、意識が戻ることもなく帰らぬ人となった。


「じいちゃん、死んじゃった」


 一番に悲しんだのは実の祖父のように慕っていた長男だった。よい漁師になれるようにともらった網針あばりを握り締めながら何日も暗い顔をしていた。

 しかし異変は善吉じいさんだけに留まらなかった。一人また一人と倒れ、黄金の魚を食べた漁師三十人余りが次々と息を引き取った。魚を食べて生き残ったのは俺と息子たち、それに十人にも満たない若い漁師ばかりだった。


「何かの祟りに違いない」


 誰もがそう思っていたが口にはしなかった。悪い噂が広がって魚が売れなくなっては困るからだ。

 もちろん俺も何も言わなかった。息子たちも雰囲気を察したのか、黄金の魚のことを口にすることはなくなった。

 それから一月、二月と経つ間に、港町に住んでいた人たちの半数近くが余所の港へと移ってしまった。黄金の魚の祟りを恐れてのことだろう。気がつけば多くが空き家になり、港町は港としての役割を果たせなくなっていた。そうして半年が過ぎる頃には生き残っていた若い漁師たちも全員が帰らぬ人となった。

 それからさらに一月後、三人の息子たちも息を引き取った。あの魚を食べて生き残ったのは俺だけになってしまった。


(いつの間にこんなに重くなっていたんだろうなぁ)


 腕と背中に三人の冷たい体を抱えた俺は、竜神様を祭っている小さな祠へ向かっていた。そこに息子たちを埋めるためだ。

 竜神様の祠の傍らには大きな杉の木がある。杉の木には竜神様の力が宿っていると言われ、船には必ず巨木の小枝を挿す習わしだった。


(竜神様の杉の木と一緒になれば、きっとあの世で苦しむことはないぞ)


 俺は無心で巨木の根元を掘った。港町には経を上げてくれる坊主も墓を掘る人もいない。息子たちの墓は俺自身で掘るしかなかった。

 子どもとはいえ三人分は大層骨が折れた。しかしここ以外で成仏できる場所はないと思いひたすら掘り続けた。そうして無事に埋め終わり、両手を合わせたところで「もし」と声をかけられた。

 振り返ると、見たことがないほど美しい顔をした男が立っていた。着物からして僧侶のようにも見えたが剃髪はしておらず、長い黒髪は女のようにも見えた。


「どなたか眠っておられるのですか?」


 俺は小さく頷き「息子が三人、眠っている」と答えた。


「それはまた……。拙い念仏ではありますが、唱えて差し上げましょう」


 観自在菩薩……と美しい声が響く。少し前までは毎日のように耳にしていた念仏だ。念仏を聞くたびに「また黄金の魚を食べた者が死んだのだ」と突きつけられ、次はあいつか、いや自分かもしれない、もしや息子たちではと心がざわつき落ち着かなかった。

 しかし男の唱える念仏は不思議と心が穏やかになった。気がつけば、手を合わせていた俺の頬に幾筋もの涙が伝っていた。

 こうして出会った香也きょうやは、いま港町で俺と一緒に暮らしている。

 手持ち花火を手にした香也きょうやの後を、マッチとバケツを持ってついて行く。引き戸の玄関を出て小道を少し歩けば海沿いの道に出た。道自体は随分前に舗装されたものの、海沿いのところどころに土の地面が残されているのは盆の迎え火を焚くためだ。


「今年は僕たちが最後のようですね」

「そうだな」


 左右を見るとあちらこちらで花火が燃えている。すべて空に向かってパチパチと光っているのは、手持ち花火を地面に突き刺して火を付けるからだ。


「まるで小さな打ち上げ花火のようですね」

「そうだな」


 この港町では迎え火に花火を焚く。子どもが楽しむような手持ち花火を地面に刺し、そこに火を付けるのだ。

 するとパチパチと音を立てながら光り輝く火の粉が空へと吹き上がる。その光を目印に海を渡って死者が帰って来ると言われていた。漁師の町だから、あの世も海の向こう側というわけだ。


「さぁ、四本立てましたよ」


 香也きょうやの声に視線を花火に戻した。黄金の火がキラキラと空に舞い上がり、それが水面に映っている。四本のうちの三本は俺の息子たちの分で、残り一本は香也きょうやの弟の分だ。

 息子たちは漁師ではないが、漁師の息子だったのだから海から帰ってくるに違いない。そう言った香也きょうやの言葉に従い、毎年この迎え火を焚き続けている。


(そういえば香也きょうやの弟はどういった人物だったんだろう)


 もう長いこと一緒に過ごしているというのに、香也きょうやの弟のことは何も知らない。どんな人物でどこで暮らしていて、どうして亡くなったのか聞いたことがなかった。最後の部分を訊ねることが憚られて聞くに聞けないということもある。

 それに香也きょうや自身のこともよく知らなかった。出会ったときは坊主のように思ったが、どうやらそうではないらしい。


(経を唱えられるからといって坊主とは限らないか)


 しかもこの美しさだ。坊主にしておくのはもったいない気がする。そんな香也きょうやは長く旅をしていたようだが、ほかに行く当てはないからとこの港町に留まることにしたらしい。


(旅の理由も聞いたことはないが……)


 いや、人には話せないことの一つや二つあるものだ。俺も香也きょうやに話していないことがある。とくに黄金の魚に関わることはいまだに口に出せないままだ。というより、俺以外全員死んでしまうような物を口にした男だと知られたくないと思って口を閉ざしていた。


(もし話を聞けば、祟りだと思って町を出て行ってしまうだろう)


 香也きょうやがいなくなる……そう思うだけでゾッとした。

 俺には身内と呼べる者がいない。妻を亡くしたあと息子たちも失い、それからはずっと独り身のままだ。少し先の村に兄弟がいたが、きっと死んでしまっただろう。兄弟の子どもたちもいるにはいるが、いまさら会いに行ったところでどうしようもない。

 そんな天涯孤独の俺には香也きょうやしかいなかった。彼だけが俺の側にいてくれる。取り立てていい暮らしというわけではないが、日々小さな喜びや楽しみを分かち合える香也きょうやは俺にとってかけがえのない存在になっていた。


「盆踊りが始まったようですね」


 少し離れたところから笛や太鼓の音が聞こえてきた。盆の入りの今夜、港町では盆踊りをやるのが習わしだった。昔、死んだ父親から「帰ってきた死者と一緒に踊って生前を懐かしむんだ」と聞かされたことがあったが、いまもそれは変わらない。


「少し見ていきますか?」

「そうだな」


 連れ立ってやぐらが立つ場所に向かうことにした。昔は全員が浴衣姿だったが、いまは洋装で踊る人たちも増えてきている。


「……と思っていたんだが」

「どうしました?」

「いや、なんでもない」


 やぐらの周りで踊る人たちは、皆昔を彷彿とさせるような浴衣姿だった。藍染めや藍色で模様が描かれた浴衣ばかりで、昨今人気の鮮やかな色合いは見られない。帯も黒っぽいものや渋い色が多いように見える。


「なんだか昔を思い出すな」

「原風景、と言った感じでしょうか」

「たしかにそんな感じがする」

「そういう故郷ふるさとがあるのは、よいことではありませんか?」

「そうだな。若い人たちにはつまらないだろうが……」


 そう思って盆踊りの輪を見ると、年寄りたちに混じって浴衣を着た子どもや若者たちが踊っている。こんな古めかしい盆踊りに積極的に参加する若者たちもいるのかと思いながら見物客たちにも視線を向けた。


(思ったより人が多いな)


 まるで昔の港町のようだ。あの頃は漁師たちも大勢いて、おかみさんたちも子どもたちもすこぶる賑やかで元気いっぱいだった。それを見る古株の海人あまたちも楽しそうで、何もかもが活気に満ちあふれた町だった。

 それに比べて最近は人も減り……いや、周りを見る限り言うほど減ってはいない。そういえば、ここに来るまでの道沿いで見た迎え火の花火もたくさん刺さっていた。それだけ迎える側が大勢いるということだろう。


(本当に昔に戻ったようだ)


 目の前で踊る大勢の姿に懐かしさがこみ上げてきた。昔と同じように老若男女が浴衣を着て帯に団扇を差し、面を頭につけた子どもらも輪に入ってやぐらの周りを回っている。

 トントン、びーひょろろ、トトントンと小気味よい太鼓の音と笛のに、誰もが笑顔で手を振り足を出す。それを見守る見物客たちも皆にこにこと笑顔を浮かべ、輪に入らないものの手を動かし踊っている見物人もいた。


「今年も変わりませんね」

「え?」

「盆踊りを見ながら泣くのは一年前と同じですよ」


 香也きょうやに指摘され、初めて自分が涙を流していることに気がついた。指で触れた頬はしっとり濡れていて、ほんの少しという感じではない。


(こんなに賑やかで楽しそうなのに、どうして泣けてくるんだろうな)


 たしかに盆踊りは死者と一緒に踊るものだと聞かされたが、目の前で踊る人たちは皆楽しそうだ。太鼓も笛も寂しいものではなく、調子よく手足を動かしたくなるほど明るい。それなのに、どうしてこうも涙が出てしまうのだろうか。


「大丈夫。来年もその次も盆の入りは来ますし、死者との盆踊りもありますよ」


 そう言った香也きょうやの指が俺の濡れた頬に触れた。拭うように動く指先は少し冷たく、それでいてやけにしっとりとしている。

 そういえば香也きょうやの肌はいつもしっとりしていた。汗で濡れているということではなく、まるで清水に浸されているような具合なのだ。


「ここにいる限り必ず盆はやって来ます。こうして死者を迎え、死者と踊り、そして盆明けを迎える」


 香也きょうやの指がゆっくりと頬を伝い唇の端に触れた。そのままツツツと下唇を撫でられ、その感触に首筋がぞくりとする。同時にあらぬ熱がわき上がった。


「誰もがこの世とあの世を行き来し、こうして触れ合う盆は必ずやって来ます」


 香也きょうやの指がのど仏に触れた。それから掛衿に指を這わせ、指先が布地の中へと入り込む。素肌に浴衣を着ているから、すぐに鎖骨のあたりにしっとりとした指が触れた。それだけで肌がざわめき粟立つ。


香也きょうや


 こんなところで何をしているんだという気持ちを込めて名を呼び、肌をくすぐる手を掛衿から引き抜いた。呆れながら掴んだ手を見ると、やけにきらきらと眩しく光っている。

 握った手を改めてじっと見た。やぐらを照らす炎が反射しているからか肌が白く光っている。いや、これは白というより金色だ。その輝きとしっとりした感触に、なぜか背筋がぶるっと震えた。


「何もかもいつもどおりじゃないですか」

「……そう、だったか」


 少し下にある香也きょうやの唇がやけに赤い。いや、これはやぐらを照らす炎の色で、艶やかに見えるのはそのせいだ。

 ふと、近くを通り過ぎた小さな足に意識が向いた。視線を向けると幼い男の子が藍染めの浴衣を着て踊っている。その後ろに続くのもやはり小さい男の子で、その後ろには少し大きい男の子が踊っていた。


「……あれは」


 三番目の男の子の右手には竹の網針あばりがあった。どこかで見たような気がするが、港町ではよく使われるもので珍しくない。それでも気になり男の子と網針あばりを目で追いかけた。


「いけない人ですね」

「……っ」


 不意に帯の辺りを撫でられて驚いた。慌てて不埒な手を掴むと、それ以上の力で香也きょうやが俺の手を握り締める。


「わたし以外に目を留めるなんて、いけない人ですね」

香也きょうや?」

「わたしたちは別のことを楽しみましょう?」


 微笑む香也きょうやに手を引かれ賑やかな盆踊りに背を向けた。それでも何かが気になり振り返ると、あの男の子が竹の網針あばりを懐に仕舞うのが目に入った。


(あぁ、そうか)


 気になったのは浴衣だ。男の子が懐に手を入れたことで、ようやくそのことに気がついた。

 男の子の浴衣は左前だった。よくよく見れば、その後ろもさらに後ろの人も左前に着ている。


(そういえば、昔は藍染めの浴衣を着せて送り出していたな)


 死んだ漁師たちも三人の息子たちも藍染めの浴衣を着せて送り出した。これも港街では当たり前のことだった。だからか、盆踊りでは迎える側も藍の浴衣を着るのが慣わしになっている。もちろんいま俺が着ているのも藍の浴衣で、香也きょうやが着ている浴衣にも藍で模様が描かれている。

 盆踊りの輪から視線を外し、俺の手を引く香也きょうやに視線を戻した。ゆっくり歩いているからか小振りな尻もゆっくり揺れている。香也きょうやは足が長く、こうして浴衣姿になると裾が揺れるのが妙に色っぽく感じられた。

 足を動かすたびに藍の模様が揺れ、それに合わせて裾もゆらゆらと揺れる。まるで大きな魚の尾びれのような感じで、陸地を優雅に泳ぐ魚のようにも見えた。


(……俺はこういう大きな魚を見たことがある)


 不意に大きな尾びれをぴしゃんと動かす巨大な魚の姿が脳裏に浮かんだ。その魚は月の光を浴び鱗をきらきらと輝かせ、腹のあたりから上はすらりとした白い肌をしていた。黒く豊かな髪を持ち、しっとりと清水に濡れたような肌の感触で……。


(……いまのは何だ……?)


 頭に浮かんだ巨大な魚は、はたして本当に魚だっただろうか。目眩のようなものを感じ、左手で額を押さえた。一瞬足元がぐらついたものの、右手を引く香也きょうやの足は止まらない。まるで引きずられるように暗い海沿いの小道を歩き続ける。


(俺はたぶん、しっとりしたあの魚に触れたことがある)


 それだけじゃない。艶めかしい声を聞き、熱いぬかるみに触れた記憶もあった。だが、それが一体何だったのか思い出せない。


「大丈夫、すぐに思い出しますよ」


 香也きょうやの声にハッとした。周囲を見ると家と家の隙間のような場所で、背後から賑やかな祭り囃子が聞こえてくる。随分歩いたと思ったのは勘違いだったようで、盆踊りの輪はまだすぐ近くにあった。


「あなたはすぐに忘れてしまいますけど、思い出すのもすぐですから」


 振り返った香也きょうやの唇がやけに赤い。それに濡れたように艶々としている。浴衣から覗く首筋には明らかに噛みつかれたような生々しい痕ものぞいていた。


(そうだ、俺はこの唇の感触を知っている)


 それだけじゃない。浴衣からのぞく噛み痕の原因も知っている。これは俺が噛みついた痕だ。


「俺はまた噛んだのだな」

「これですか?」


 噛み痕を指先で撫でながら艶やかな唇がふわりと笑う。


「別にどこを噛んでもいいんですよ?」

「馬鹿なことを言うな」

「いまさらじゃないですか」


 笑いながら香也きょうやが襟元を少し引っ張った。そこには二つの噛み痕と黄金に光る肌があった。暗闇の中で光る肌はまるで鱗のような様子をしており、それを見た途端になぜか口の中にじゅわりと唾液があふれてくる。

 俺はこの肌が柔らかいことをよく知っていた。味は甘く、淡泊なのに後を引く。


(だからあの相伴のときも、つい食べ進めてしまったのだ)


 生魚が得意でなかった三男までもが何切れも口にした。あれだけの大物だったのに、すべて平らげてしまうほど全員が夢中で食べた。あの甘美な味わいはその後一度たりとて忘れたことはない。


「んっ」


 香也きょうやの悩ましい声が聞こえてきた。気がつけば襟元を大きく開き、黄金色の肩にがぶりと噛みついていた。口の中に一瞬だけ鉄臭い匂いがしたものの、気にすることなく柔肌に歯を立てる。


「ふふ……わたしの血肉はおいしいですか……?」


 あぁ、間違いなく美味だ。こんなにうまいものは口にしたことがない。


「あの黄金の魚よりも……?」


 黄金の魚……あのときの魚か。そうだな、あの魚よりもずっと甘くて、それによい香りがする。芳醇で喉を通るときにはカッと熱く感じる不思議な味わいだ。


「それはわたしが成熟しているからでしょう。熟した人魚は大層美味だと言いますから」


 そういえばそんな話を耳にしたことがある。あれはいつだったか……海で死んだじいさんに聞いた話だっただろうか。


「弟はまだ成熟する前だった。それなのに陸に近づいたりするから網にかかってしまったのです。それをこの町の漁師たちは平らげた」


 弟……とは誰のことだ? 香也きょうやの弟は死んだのではなかったか?


「しかし、成熟する前の血肉では不老不死にはなれません。逆に猛毒となり死に至らしめる。案の定、漁師たちは次々とあの世へ旅立ちました。それを見るたびに、どれほど小気味よく感じたことでしょう。それなのにあなたは生き延びた。きっとわたしたちとの相性がよかったのでしょうね」


 肩に噛みつく俺の頭を香也きょうやの腕が抱きしめた。そのままうっとりとしたような声で「ふふ」と笑う。


「あなたは何度もわたしを口にしました。成熟したわたしの血を数え切れないほど口にした。その結果不老不死となり、わたしと共に生き続けることになりました」

「不老……なに、」

「盆の入りを迎えるとあなたはどうしても忘れてしまいますね。夫婦めおとのように長い時間を過ごしているというのに何かが邪魔をする。これも町の者たちが戻ってくるからか……それとも父を慕う息子たちの仕業か」

「息子……息子たち、」


 一瞬、やぐらの周りで踊っていた男の子を思い出した。右手に持っていた竹の網針あばりが脳裏に浮かんだものの、すぐに霧のように消えてしまう。


「まぁ、それも盆の間だけのこと。盆が明ければまた二人きりの生活に戻ります。そう、二人きりでまた夫婦めおとのように過ごすのです」


 香也きょうやの言葉にこめかみがジクジクと痛んだ。早く口を離せともう一人の自分が告げているのに、甘美な味わいから逃れられず口を離すことができない。


「それに、今年こそ生まれるかもしれませんからね」


 俺の頭を抱えながら香也きょうやが歌うように言葉を紡いだ。


「人魚と人の間に子が生まれる確率はとても低い。でも、あなたは弟の血肉を食らいわたしの血肉も食らい続けている。これならきっと生まれる」


 甘いものが喉を通り過ぎた瞬間、バチッと何かが弾け脳裏に小さな影がいくつも浮かび上がった。


(そうだ、俺は……)


 随分前に年を取らなくなったことに気づいた俺は放浪の旅に出た。それにも疲れ、誰もいなくなったこの港町に戻ってきたのはいつだっただろうか。

 死んだ者たちを供養する日々を送っていたとき、一人の美しい男が現れた。俺は十数年ぶりに人と言葉を交わした。それまで岩のように硬くなっていた心が解け、自分が人だったことを思い出すには十分だった。

 気がつけば香也きょうやに夢中になっていた。共に暮らすことを提案し、いつしか肌を重ねるようになっていた。最初に誘ってきたのは香也きょうやだったか俺だったか覚えていない。息子たちと暮らしていた我が家で、大きな尾びれが現れる水の中で、時も場所も選ばず交わり続けた。

 そうして香也きょうやは三回、子を生んだ。いずれも死産だった。四人目は生まれて五日後に亡くなった。いずれも魚のような姿をしていたが、あれは間違いなく我が子だ。


「人魚は自分たちだけで子を残すことができません。そういう種族なのです。だから陸に上がり相性のよい人を見つけ交わるしかない」


「そうして子を成すまで生かすため、自らの血肉を相手に与えるのですよ」と甘く囁く声に喉が嫌な音を立てた。このままでは駄目だとわかっているのに体が言うことを聞かない。


「あなたは人魚の血肉を二人分、口にしました。おかげで誰よりもわたしたちに近しい人になった。わたしたちにとって貴重な種の持ち主になったというわけです」


 まるでもっと口にしろと言わんばかりに香也きょうやの腕が俺の頭を強く抱き締めた。


「最初は弟のかたきと憎みもしましたが、それも遠い昔のこと」


 歌うように言葉が続く。


「あなたはもう人を抱くことはできません。人と子を残すことはできなくなった。人魚の種は人にとっては猛毒そのもの、交われば相手は死に至るでしょう。そう、あなたは人魚であるわたしとしか交われなくなった、子を成せなくなったのです。あなたは体も心もわたしだけのものになってしまった」


 意識が朦朧とし始めた。まるで大吟醸を飲み干した後のようにふわふわとし、足元も覚束なくなる。


「さぁ、わたしたちの家に帰りましょう」


 口を離した俺に香也きょうやがニィと笑った。そうして再び右手を取り小道を歩き出す。そこはやけに静かで、先ほどまであったはずの灯りはどこにも見当たらなかった。人の気配もなく海を渡る風の音しか聞こえない。


(そうだ、ここには俺たちしかいない。いや、それでも今日は盆の入りだから……)


 そう思った途端に太鼓と笛の音が聞こえてきた。「さぁさ、踊れや踊れ」「死者と共に踊れ」と漁師たちの声がする。それに合わせるようにおかみさんや子どもたちが賑やかな声を上げた。

 盆踊りの賑わいを背に、俺は香也きょうやと共に慣れ親しんだ海沿いの道を歩いた。海沿いの道には何本もの手持ち花火が刺さっていて、いずれもとうの昔に火は消えている。


(盆の明けは……どうするんだったかな)


 まぁ、三日後のことはそのとき思い出せばいいか。


(そもそも三日後というのも関係ない。時計すら必要のない暮らしをしているんだからな)


 だから、あの振り子時計を修理する必要もない。

 トトントン、ぴーひょろろと小気味よく鳴る太鼓と笛の音を聞きながら、開けっ放しだった引き戸の中へと入った。漁師だった頃に住んでいたこの家で今夜も香也きょうやと二人で過ごす――いままでも、これからも。

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八百(やお)の楔 朏猫(ミカヅキネコ) @mikazuki_NECO

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