ヒト肉がセールだから今日はステーキにしよう。

瑪瑙茉莉絵

日常のご褒美

 カチ。

 時計の長針が動く音がして、はっと顔を上げる。深い音をベースにして白の数字が描かれたシンプルな丸い壁掛け時計は、四時十三分を示していた。

 机の端に追いやっていたスマートフォンの画面を開くと、『今日は早く帰れそうだよ』とメッセージが表示される。それが届いていたのはだいたい三時間前。

 きっと、遅めの昼休憩の時間にメッセージを送ってくれていたのだろう。せっかく送ってくれていたのに気づけなかったことに少し落ち込みつつもアプリを開く。

 少し悩んで、『了解!』と言っている子犬のスタンプを送信した。

 仕事の画面が表示されたままのパソコンに向き直る。

 もう少しキリのいいところまで進めてからスーパーに行こう、と動かそうとした手を止めた。いつもはもう少し遅い時間に買い物に行くけれど、早めに帰ってこれそうなら今のうちに行こうかな。ちょっと早い時間ならスーパーも空いてるだろうし。

 もう一度時計を見る。時刻は四時十五分。

 きちんと上書き保存をして、スーパーに行く準備を始める。鞄をもって、財布を入れて、エコバッグも入れて。冷蔵庫を開けて中身を軽く確認して、玄関に向かう。

 牛乳がないからそれと、卵と、あとは着いてから考えよう。

 靴を履いて扉を開けると、いつも通りピンク色の綺麗な夕焼けが広がっていた。


 ***


 マンションから歩いて約十分のところにスーパーがある。部屋を決めるとき、決め手になったひとつだった。

 スーパーが近いかどうかなんてそんなに気にしなくてもいいのに、彼女はかなり重視してくれていた。ここなら近いし仕事の帰りにも寄れるし、と言って今の部屋を選んでくれた。もちろん他にも理由はあったけれど、彼女にとっての決め手はそれだった。

「私はあまり買い物に行けないだろうから、少しでも楽になるように。遠いより近い方がいいだろう?」

 比較していたもうひとつの部屋の方が彼女の会社には近いのに、僕のためにわざわざこっちを選んでくれたのだ。こういうところがずるい。

 スーパーに入って、カゴを手に取った。ひんやりとした空気が少し肌寒い。そのまま歩き出して、野菜コーナーへ向かう。季節の野菜が所狭しと並んでいた。

 ここのスーパーは珍しい野菜を取り揃えている。それも彼女の決意を固める理由の一つだった。珍しいものが好きな彼女はここに来ると、いつもたのしそうに野菜を眺めている。調理が難しいため買ったことはないのだけれど、いつか彼女のために珍しい野菜を使った美味しい料理を作ってみたい。

 とはいえ、今日はそのときではない。珍しい旬の野菜として並んでいるオレンジ色のカボチャには日を向けず、その隣のバラを吟味する。秋のバラは香りが強く、一枚一枚の花弁もやわらかく、茎まで甘い。茎についた葉がしおれておらず、花弁にハリがあって深い色味のものが美味しい……というこの前ネットで見た知識を思い出す。美味しそうなバラを一袋選んでカゴに入れた。

 同じく旬のダリア、キンモクセイ、イチョウをカゴに入れ、年中栽培されているチューリップも一袋手に取った。チューリップはひとつあるだけでいろんな料理に使える。旬から外れたチューリップは少し酸味がきつい。そのため、生で食べるよりはソースのように火を通して食べる方が美味しい。

 彩られたカゴに満足し、野菜コーナーを離れることにした。

 新鮮な野菜も手に入ったし、サラダともう一品何にしようか、と考えつつ生鮮コーナーへと歩みを進める。

 彼女は海鮮も好きだしシーフードパスタとかいいかも。

 鮮魚コーナーに目を向けながらも手に取ることはなく、精肉コーナーへ向かう。お肉も見てから決めよう。

 今日は金曜日だし連休前だし月末だし、できればお肉がいいかもしれない。どちらも同じくらい好きだよ、と彼女は言うけれど、お肉のときの方が喜んでいるのが見てとれる。

 トリ肉、ブタ肉、ウシ肉……順番に眺めていると、半額シールが貼られた肉が目に飛び込んできた。

『エルタニン産ヒト肉(養殖) ステーキ用』

 思わず手に取ってカゴに放り込む。ヒト肉は他の肉よりも割高であまり頻繁に食卓に出すことはできない。

 しかしその分とろけるようにやわらかく、肉汁もたっぷりで特別美味しいのだ。

 そんなヒト肉が半額。買わないわけにはいかなかった。彼女もヒト肉は大好きだから喜んでくれるはず。

 今日の夕食はステーキに決まりだ。

 

 ***

 

 買い物を済ませて荷物を冷蔵庫に仕舞い終えたころ、時計の針は六時を示していた。彼女は普段七時過ぎに帰ってくることが多く、早く帰れるよと言った日はだいたい三十分前に帰ってきてくれる。それを踏まえると、今から夕食の準備をするのは少し早いような気がする。せっかくなら焼きたてを食べてほしいから、彼女が帰ってきてから肉を焼きはじめよう。

 というわけで、先にソースを作っておくことにした。

 ハンガーにかかっているエプロンを取って首を通し、

腰ひもは前で結ぶ。帰ってきてひとまず仕舞っておいたステーキ肉とチューリップを取り出した。ステーキ肉は常温に戻すため、チューリップはこれでソースを作るためだ。キンモクセイで作るのも美味しいのだけれど、今回はこっちで作ろう。

 チューリップをいくつか袋から取り出して軽く水で洗う。水気を少しきり、花部分を切り落として花と茎を分けたら、次は花を繊維とは逆方向に横にカットする。こうすることで、火を通した時に甘みが出やすくなる。中身のめしべやおしべなどを取り除き、粗みじん切りにする。もちろん中身も食べられるが、ソースにするには食感の問題的に邪魔なのだ。そうはいっても捨てるのはもったいないので、同じように粗く切ったらまな板の端の方に避けておく。付け合わせのサラダに入れることにしよう。

 次は避けておいた茎のカット。縦中央ぐらいまで切り込みを入れて開いたら、縦の千切りにすればソースの下準備は終了だ。

 フライパンを取り出して、オリーブオイル、冷蔵庫から取り出したガーリックペーストを少し入れ、中火にかけて木べらで炒める。ぱちばちと油が跳ねる音がする。しばらくして香りがしてきたら、さっきカットしたトマトを加えてさっと炒め、塩、黒こしょう、コンソメを少し投入して混ぜる。全体が混ざったら弱火にして、千切りにした茎を加えて少し炒めたらソースの出来上がり。

 同じフライパンでステーキを焼くからお皿に移しておこう。火を止めて食器棚へ向かおうとすると、玄関で鍵を開けようとする音がした。彼女が帰ってきたのだ。

 キッチンから玄関の方へ顔を出し、おかえり、と声をかける。彼女は靴を脱ぎながら僕の方を見て、やさしく笑みを浮かべる。

「ただいま。いい匂いだね」

「そうでしょ~」

 彼女に返事をして再び食器棚の方へ向かい、ソースを入れておくお皿を取る。フライパンのそばへ置き、木べらを使いながらこぼさないように皿に移す。木べらとフライパンが擦れる音を聞きつつ、そろそろ肉も常温に戻ったかなと考える。

 だいたい移し終わったら、木べらは皿に立てかけて、蛇口をひねりフライパンに水を入れた。そして、スポンジで軽く洗う。時刻は六時半を少し過ぎたぐらい。

 洗い終えたフライパンを布巾で拭いて、コンロに置いた。

 ステーキ肉を触り、いい具合に常温に戻っていることを確認してトレイのラップをはがしていく。ペーパータオルで優しく水気を取り、まな板の上に移した。

 包丁で赤身と脂身の境目あたりに切り込みを入れていき、筋切りをする。もう一枚も同じように。

 次に冷蔵庫からバター風味のマーガリンを取りだし、強火で熱し始めたフライパンに入れる。溶けるのを待つ間に、肉に塩こしょうを振っておく。高めの位置から、全体にいきわたるように振りかければ、下準備は終了。あとは焼くだけだ。

 フライパンを傾けて溶けてきたバター……もといマーガリンを全体に行き渡らせたら、いよいよ肉をフライパンへ。じゅう、といい音がする。

「今日はステーキ?」

 鞄をおいてスーツを脱いできた彼女が、僕の後ろから嬉しそうな声を出す。彼女を見上げ、笑って返事をする。

「割引だったから買っちゃった。しかも見て、これ」「ヒト肉じゃないか。焼きあがるのが楽しみだ」

 ぽん、と僕の頭を撫でて、彼女は冷蔵庫へ向かう。

 そうだ、サラダを作らないと。コップにお茶を注ぐ彼女に声をかけた。

「ついでに野菜取って。バラとダリア買ったんだ」コップのお茶を半分ぐらい飲みながら、彼女は冷蔵庫から野菜を取り出してくれた。それを確認し、僕は目の前の肉に向き直る。トングを取り出し、美味しそうな焼き色がついた肉を裏返す。再び、ひと際大きくじゅう、と音がした。

「サラダにするんだろう、私が作るよ」いつのまにか残ったもう半分のお茶を飲み干した彼女が、それぞれ袋から野菜を取り出してシンクに立った。僕は干してあった少し大きめのボウルを取って彼女に渡す。

「ありがと。まな板にチューリップの中身もあるからそれも入れといて」

「わかった。……こっちはステーキ用のソース?」

「うん。ちょっとだけガーリックがきいたチューリップソースだよ」

 手折ったバラの花と、ダリアを軽く水で洗ってボウルに移す彼女と話しながら、フライパンの肉からは日を離さずに最高の焼き加減を見逃さないようにする。

 そろそろかな。

 少し高い棚に置いてあるアルミホイルを背伸びして取り、フライパンの隣のコンロの上に二枚広げる。彼女にまな板をとってもらい、その上に広げたアルミホイルを移動させる。フライパンからトングで肉を取り出してアルミホイルの上にのせたら、それで肉全体を包み込む。五分程度休ませれば、美味しいステーキの出来上がり。あまりフライパンで焼きすぎず、余熱で火を通すことで肉汁が流れ出ずにやわらかく仕上がるのだ。

 肉を休ませている間に少し冷えてしまったソースをもう一度温めなおしておく。木べらを使い、お皿に入れたソースをフライパンに戻した。

 彼女もサラダの準備ができたようで、ボウルが鮮やかな色でいっぱいになっている。食器棚からステーキ用とサラダ用のお皿をそれぞれ取り出し、彼女が手に取りやすい位置に置いた。

「そうだ、キンモクセイもあるから最後にちょっと散らそうよ」

「ん」

 野菜を盛りつけながら返事をした彼女に、ついでにドレッシングも出してほしいと伝えてからフライパンに火をつけた。弱火でゆっくり温める。

 木べらで優しく混ぜながら、ソースが温まってきたのを確認する。肉もそろそろいい感じだろう。アルミホイルを開けて、全体に火が通ったやわらかい肉をお皿に移す。

 彼女の方もサラダの盛り付けが終わったようで、ひと足先に机に置いていた。ドレッシングと、コップやカトラリーも並べてくれていた。

 いつもは僕がカトラリーを並べるのに。あまり表情に出ないだけで、彼女が思いのほかステーキに浮かれているのだと気づいて笑みがこぼれる。

「お待たせ、食べよっか」

 

 ***

 

 終始幸せそうな顔でステーキを食べていた彼女は、またいつも通りの澄ました表情で洗い物をしている。表情は普段と変わらなくても、雰囲気は格段にふわふわしていた。

 ソファに座りながら彼女を見つめていた僕に気が付き、彼女はいつもよりやわらかく微笑む。もうちょっとで終わるから、という彼女の声は、子どもに……というよりむしろ犬に対するような声他だった。まるで僕が『待て』ができない犬みたいだ。

 立ち上がろうとして思いとどまる。ここで彼女の隣に行けばそれこそ『待て』ない犬だし、だからと言っておとなしくここにいればちゃんと『待て』ができた犬だ。どちらにしても犬扱いされそうだと気づいて、それなら賢い犬でいようとソファに座ったまま彼女を待つ。僕のことを犬扱いするのは今に始まったことじゃないし。

 洗い物を終えて、まくっていた袖を下ろしながら彼女が歩いてくる。ずっと彼女を見つめていたけれど、歩いてくる様子まで目で追いかけるのはそれこそ犬なんじゃないか。だからと言って、今更目を逸らすのも違う気がする。複雑な感情のまま、結局彼女から目を離さずにいると、彼女は僕の隣に座らず僕の日の前で立ち止まった。

 きょとんとして見上げると、彼女は僕の顔の前で揃えた両手を広げてきた。何を言うわけでもなく、手を広げたまま僕を見つめて動かない。困惑しつつ、とりあえず顔を彼女に両手に近づけて口を開く。

「そういえば今日流星群見れるんだって」

 僕の行動は正解だったらしく、満足げに僕の顔を両手で包みこんで親指で頬を撫でてくる。

「そういえば朝そんなことを聞いた気がする。何時ぐらいから?」

 頬を撫でる手は止めずに、彼女はそう返事をした。

 なんだろう、この手。

 「……八時ぐらい、だったような」おぼろげな記憶を遡って、お天気キャスターが言っていたことを思い出す。たぶん八時だった。

 時計を見ると、時刻はちょうど八時をまわったとこ

 ろ。

 そのまま窓の方へ視線を向けると、少しだけ開いているカーテンの隙間から一筋光が見えた。

「今見た?」

「ちゃんと見てみようか」

 ソファから立ち上がり、窓の方へ向かってカーテンを開ける。部屋の証明が反射して多少見にくいけれど、確かに夜空にはいくつか流星が落ちているのがわかる。

 窓を開け、ベランダへ出て空を見上げる。深い赤紫他の夜空の上で、白い星がいくつも流れ落ちている。

 空を覆いつくすほど……とは到底言えない数だ。でも、見惚れてしまうほどに綺麗だった。

「そういえば、ヒトってオツキミ?するらしいよ。

 本で読んだ」

「オツキミ……お花見と同じで、ツキを見るのか?」

「そうなのかな。秋はオツキミの季節なんだって」

「ツキなんてないのにな」

「ね。わざわざオツキミするぐらいだから、ものすごく偉大なものなのかもね」

「ヒトの考えることはよくわからないな」

 彼女と雑談をしながらしばらく夜空を眺めていると、他の流れ星より格段にまばゆく輝いた流星があった。

 不思議に思いながらそれを見つめる。きら、他と同じように消えていったそれを見送って数秒後、目の前に星が落ちてきた。

「う、わ!」

 落とさないように慌てて手のひらで包む。そっと手を開くと、まぶしくきらめいた星が手の中にあった。

 星型正八面体と呼ばれる形のそれは、きらきらとやさしくかがやいていた。輝きに吸い込まれるように、それから目が離せなくなった。

「『ながればし』か。珍しいな」彼女の声にはっとする。僕の手の中を覗き込んでいる彼女を見上げた。

「僕これはじめてなんだけど、ど、どうすればいいの?」

「落ちてきた直後なら食べてもいいし、しばらく放置して店に持っていって加工してもいいし、好みだな。私は……ひとつはランプにして、もうひとつはピアスにした」

 ほら、と長い髪を耳にかけてピアスを見せてくれた。

 僕の手の中のながればしの乳白色の光が反射して、彼女のプラチナブロンドをより一層美しく見せた。

「……どうしよう」

「色々調べて決めればいい。もう冷えるし、中に入ろ

う」

 僕の頭を撫でると、窓を開けて僕を中へ入るよう促す。手の中の星を落とさないようにゆっくりと窓の方へと進む。部屋に足を踏み入れた僕に続いて、自分も同じように部屋に入る。

 ぱたん、とドアを閉める音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヒト肉がセールだから今日はステーキにしよう。 瑪瑙茉莉絵 @menou_marie

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ