平和

増田朋美

平和

その日は、寒かったので、あまり出かける人も少ない様に思われたが、さすが師走とはよく言ったもので、道路にしろ駅にしろ人が多いのがこの時期というものであった。それはある意味、平和という意味である。本当はそれで素晴らしいことなのに、それを、享受できない人が居るというのは、やっぱり悲しいことでもある。

杉ちゃんとジョチさんは、今日も用事があって、静岡に出かけていた。その日も人が多い電車に乗り込み、富士駅へ帰ってきたところ。富士駅の切符売り場の近くで、女性が一人で何やら困った顔で、運賃表を眺めていたのが見えたので、

「お前さんこんなところで何やってんの?」

と、杉ちゃんは彼女に聞いた。

「ええ。身延線に乗るところなんですけどね。切符をどこで買ったらいいのかわからないのです。」

と、女性は答えた。

「わからないって何がだよ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「どうしてもわかんないんですよ。切符を買うのにお金を入れることはわかりましたが、金額しか表示されないし、降りる駅がどこまで買ったらいいのかその意味がわからなくて。」

と女性は言った。

「はあ、、、まあそうか。じゃあ、お前さんがどこへ行きたいかだな。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。富士宮駅まで行きたいのですが?」

と彼女は答える。

「わかりました。それでは、切符の買い方を教えますから、メモを取るなどして覚えてください。それでは、まず、富士宮駅へ行くまでの250円を、券売機に入れてください。」

ジョチさんがそう優しく彼女に言った。彼女は、とりあえずこれでお願いしますと言って、一万円札を差し出した。

「こんな大きなお金ではなくて、千円札とか、そういうものを出してくれませんか?」

とジョチさんが言うと、彼女は、困った顔をした。まるでどれが1000円札なのかわからないという顔だ。

「ごめんなさい。1000円札は、夏目漱石でしたよね?それがどうしても無いんです。」

「は?そんな事も知らないの?1000円札は、野口英世さんだよ。」

杉ちゃんがすぐに言った。

「野口英世?」

彼女は、そういった。

「あの、こういう顔をしている人物なんですが?」

ジョチさんが、1000円札を取り出して見せてやると、

「ありがとうございます!こういう顔をしているんですね。それでは、それを券売機に入れればいいんですね。」

と女性は券売機の紙幣投入口に、無理やり突っ込むような感じで、1000円札を入れた。

「それで、その中から、250円と書いてあるボタンを押してください。」

とジョチさんがいうが、

「でも、降りる駅を指定しなければだめなのではありませんか?ただ、金額だけじゃ。」

と女性は言うのだった。多分、化粧などをして若作りをしているのだろうが、もう60すぎの女性だと思われた。それなのになぜ、1000円札の人物の顔を覚えていないのだろう?杉ちゃんたちは、不思議な顔をした。

「はあ、それも知らないんだねえ。まあ、事実は事実だから、そのとおりにするか。それじゃあ、今の券売機は、金額さえ合っていれば、どこへ行っても通用するようになっているんだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、女性は更に困った顔をする。

「そんな、私が、覚えている切符売り場は、ちゃんと富士駅から、富士宮駅と、行き先が表示されていました。それなのになぜ、どこまで使えるなんて。」

そう言っているうちに、券売機がエラー音を出して、1000円札は戻ってきてしまった。ジョチさんがそれを取って、彼女に渡した。

「本当にそのあたりのことを理解できないんですか?」

と、ジョチさんがそう言う。見た目を調べてみるが、外国人のような風貌でもない。たしかに日本人であることは間違いないのだが。

「ご、ごめんなさい。私、退院してきたばかりで、電車に乗ったのは、40年以上前だったんです。」

と女性は申し訳無さそうに言った。

「はあ、それはもしかしたら、外国の病院に入院していたの?」

杉ちゃんが聞くと、

「いえ、違います。富士心身リバビリ病院なんですけど、今月、病院の立て直し工事のために、私が退院することになりました。」

「それならすぐ近くじゃないか?」

女性がそう言うと、杉ちゃんは呆れた顔で言った。

「もちろん、それはわかります。だけど、両親が、退院を認めてくれなくて、そのままずっと延長に延長を重ねまして、それで今になって。」

と、女性はそう恥ずかしそうに言った。

「わかりました。じゃあちょっと事情がある方なんですね。そういうことなら、お近くまでお送りします。ああ、僕たちは悪い人間でなく、ただ、福祉施設をやっている人間ですから、気にしないで利用してください。それに、あなたのような電車に乗るのが難しいのであれば、タクシーを利用したほうがいいのではないかと思います。」

ジョチさんがそう言うと、彼女はありがとうございますと頭を下げた。

「それでは、迎えを呼び出しますから、一般車のりばでお待ち下さい。」

「一般車のりばはどこにあるんですか?」

女性はそう言うが、杉ちゃんもジョチさんも、腹を立てることはしてはいけないと思った。きっと彼女の言うことは紛れもなく事実だろう。そうでなければ、切符を買うことができないということはまず無い。

「えーと、北口のロータリーです。」

ジョチさんが言うと、

「ロータリーってなんですか?」

女性はそう返した。杉ちゃんたちは、顔を見合わせたが、

「連れて行ってあげましょう。」

とジョチさんは彼女を、北口まで連れて行った。そしてエレベーターでロータリーがある階へ降りて、

「はい。こちらです。こういうふうに車が沢山あるところをロータリーと言うんですよ。ここで待っててください。ちょっと、運転手を呼んできますから。」

と、ジョチさんは、電話をかけ始めた。それを見て女性はまた驚いている。

「スマートフォンを知らないの?」

杉ちゃんが言うと、

「はい。電話は、公衆電話からかけるものだと思っていましたから。電話ボックスがどうして無いんだろうかと、かんがえていましたが、そういうことだったんだ。みんな一台一台、電話を持っているんですね。」

と彼女は言った。

「はあ、そうか。それも知らないのか。お前さんは、えっと、何年入院してたんだ?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、30年以上、病院から出たことがありませんでした。」

と、彼女は小さい声で答えた。

「はあ、、、。そうなのね。それではお前さんは、30年以上、病院で生活していたのか。いい迷惑だよな。それでは、竜宮城で生活していたようなもんだ。」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「今、戻りました。すぐに来てくれるそうです。どちらまでお送りしたらいいのですかね?」

とジョチさんが言うと、女性は富士宮駅までといった。杉ちゃんが、

「お前さんの名前は何ていうの?」

と、聞くと、

「ええと、岩澤と申します。岩澤美樹。よろしくお願いします。」

と、彼女は答えた。岩澤美樹という自分の名前は覚えているらしい。

「そうなんだね。それで、初めて入院したのはいつ?」

「ええ。高校を中退してからすぐだったから、18歳の頃だったと思います。」

と美樹さんは答えた。

「そうなんだ。それではえーとおまえさんは、」

「50に近いってことになりますね。」

杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。

「そうなんですか。なにか困っていることとか、ほしいものはありますか?」

ジョチさんが言うと、

「あの、、、それはもしかして、、、。」

美樹さんは、ちょっとたじろいた。

「いえいえ、そんな悪質なことはしません。僕たちは、ただ、居場所がない人たちに、部屋を貸し出す福祉施設をやっているだけです。もし、受け取ってくださるのであれば、名刺差し上げますよ。それに電話番号が書いてありますから、見学したいのであれば、連絡ください。交通手段がない場合は、運転手を送ってよこしますから心配は要りません。僕自身も、運転免許は所持していないので。ではどうぞ。」

ジョチさんは、そう言って、美樹さんに自分の名刺を渡した。

「理事長さんなんだ。そんな偉い人に、出会えるとは思わなかった。」

「それならいい方に取ればいいじゃないか。きっと篤志家に頼るしか、今の法律や社会資源では生活できないだろうし。こういうところに来られたと言うんだったら、いいチャンスが巡ってきたと、良い方に捕らえろ。」

杉ちゃんに言われて、美樹さんは、

「そうですね。そうするしか無いですよね。ありがとうございます。それならそうさせていただこうかな。あの、失礼ですけど、悪質な業者とか、そういうことでは無いですよね。私、入院したとき、引き出しやって言うんですか、そういう業者に騙されて病院に行ったから、親とは絶縁状態で。それだから退院もできなかったわけですけど。」

と、困った顔で行った。

「そうなんだね。でも、今は、いろんな人がいて社会に意識も変わりつつあるから、それは安心してくれてもいいかもよ。」

と、杉ちゃんがにこやかに言った。それと同時に、小薗さんが大型のワゴン車を運転してロータリーにやってきた。ジョチさんは、あれに乗ってくださいと言って、小薗さんの黒いアルファードを指差す。小薗さんがそこから降りるとジョチさんはこの女性を富士宮駅に送ってといった。そして、彼女を後部座席に座らせた。杉ちゃんの方は、サードシートに乗っているリフトに乗って、アルファードに乗車した。最後にジョチさんが、美樹さんの隣に座った。

「それでは出発いたしますよ。それでは、行きましょう。」

と小薗さんがそういって、車を走らせ始めた。

「こんな高級車に、皆さん平気で乗れるようになったんですね。私が、入院する前は、こんな車はありませんでしたよ。」

美樹さんはそう言っている。

「そうですか。美樹さんは、どうして心身リハビリ病院に入院されたんですか?高校も中退されたのなら、なにか理由があったのでしょう?」

ジョチさんがそうきくと、

「はい。学校で、成績がすごく悪くて、勉強ができなかったからです。」

と美樹さんは言った。

「それだけで、精神科に入院されたんですか?それだけでは無いでしょう。理由にならないですよね。」

ジョチさんがそう言うと、

「はい。行きたい高校はあったんですけど、そこへ成績が悪くて行くことができなくて。頑張って勉強したんですけどね。それでも、勉強についていけなくて、もう死ぬしか無いって思って。それで、別の高校に行ったけれど、なんか気が抜けたみたいで、何もやる気が起こらなかったんです。それで、鬱って診断されて。それからあとは、薬と入院生活でした。」

と、美樹さんは答えた。

「そうですか。学校で疲れたんなら、そのための休める設備があるといいんですけどね。それは日本には無いですからね。外国にはあるみたいですけど。」

ジョチさんは申し訳無さそうに言った。

「ちなみにどこの高校にいったの?」

と、杉ちゃんが言うと、

「清峰高校です。あの私立高校ですよ。」

美樹さんが答えると、

「はあ、今めちゃめちゃいい高校として、有名なところじゃないか。部活動が充実していると言って、利用者さんたちも羨ましがってるよ。」

杉ちゃんはすぐに言った。

「そうなんですね。わたしたちの頃は、不良生を受け入れるようなそういうところだったんですよね。だから、清峰高校の制服を着て学校に行くのがとても辛かった。それではだめだって、何度も言われました。うちの子が清峰高校しか行けないのは情けないと、親も私を罵りました。」

「はあ、そうなんだ。それは親御さんが口に出してそういったのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい。ですが、口に出して言ったわけではありません。でも、そういいました。それは、うちの家族であればわかると思いますよ。」

美樹さんはそういった。

「うーん、そこまで感じ取る必要はなかったんじゃないかな。口に出していうのならまた別だけど、そうでなかったんなら、お前さんは親御さんに責められていることはなかったと思うけど。そのくらいどんくさいほうが、かえって楽なこともあるよねえ。」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。それはよく言われました。でも私は、そうやってどんくさくとか、そういうことができませんでした。だからやっぱりだめな人間なのでしょうか。そういうことですよね。そうでなければ、病気にはなりませんよね。それは、私が悪いんだ。それに、学校の成績が良くなければ幸せになんかなれやしないですよね。それは、誰でもそうですよね。」

と、美樹さんはそういった。いくら、病院に閉じ込めたって、心の傷というものは治癒できないのである。体の病気なら薬を与えれば治癒することもあるが、心の病気というものは、薬を与えても変わることが無いことが多い。

「まあ、そう思われても、その当時は仕方なかったのかもしれませんね。でも、今では、一クラスの五六人は、不登校という時代になりました。学校に来られなくなってしまった生徒さんが多すぎるくらい多い時代です。その中には、あなたのように、成績がどうのという生徒さんも必ずいます。だから、学校に行けなかったということを恥じることはないです。」

ジョチさんは、そう優しく言った。

「そうでしょうか。私はやっぱり学校へ行けなかったし、それでは、いけないことなんじゃないかと思うけど。」

「いえ、そんなことは全然ありません。今の時代は学校に行けなくなって仕方なく他の学校で学んでいる生徒さんは大勢います。中には、あなたと同様に精神がおかしくなったという方も珍しくありません。試しに製鉄所に行ってみますか?今、利用者は、女性が3名いますが、3人共、学校に行けなくなって、今通信制で学び直しています。年齢は、どの方も40代を越していますよ。そうでなければ精神疾患は症状が落ち着いてきませんからね。」

ジョチさんは、にこやかに笑ってそう言うと、

「そうそう。百聞は一見にしかずだぜ。それなら見てもらった方がいいだろう。そのほうが早く傷口も塞ぐってもんじゃないの?」

杉ちゃんがいうので、美樹さんは、わかりましたといった。

「それでは私、言って見ます。正直なところ半信半疑なところもあるんですけど、お二人がそう言ってくださるのなら。皆、同じことしか言わなかったんです。過去は捨てるとか、忘れるとか、そういう事、どうやってできるものでしょうか。私、それもできなかったから、やっぱり私はだめな人間なんだと思っていたんです。」

ジョチさんは小薗さんに、製鉄所へ行ってもらえないかと頼んだ。小薗さんは、わかりましたと言って、車を方向転換させて別の道を取った。

「そうなんだね。別に忘れられなくたっていいんだよ。それより大事なことは二度と同じことを繰り返さないことでしょ。そして、二度と同じことを繰り返させないために、その事を伝えていくことじゃないのかな。」

杉ちゃんに言われて、美樹さんはまた驚いた顔をした。

「忘れて、なかったことにするよりも、そっちをするほうが、お前さんを始め、繊細な人間にできることなんじゃないのか?」

「そうなんですね。」

美樹さんは小さな声で言った。

「そう。忘れられなくたっていいんだよ。まあ、大体のやつはそこを知らないから、変なふうにお前さんを励ますけど、そんな無責任な事言う人は、お前さんがどれだけ苦しんだかを知らない人だから、そういう事を言うんだよ。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「はい、理事長、着きましたよ。」

数分経って、小薗さんは、大きな日本旅館のような建物の前で車を止めた。そして、杉ちゃんとジョチさんを車から降ろした。美樹さんも、小薗さんに連れ立って、車を降りた。三人は、正門から製鉄所の中に入る。製鉄所の玄関は車椅子の人でも入れるように工夫されているのか、上がり框がなかった。その玄関に、靴が3つ置かれていた。どれも、スニーカーであり、パンプスなどの大人の女性が履くものではなかった。

杉ちゃんたちが、製鉄所の食堂に入ると、三人の女性が顔をつけ合って、なにか話していた。どうやら真ん中に教科書がおいてあって、それぞれわからないところを質問したりしているらしい。

「こんな事、絶対やってはいけないって、学校の先生は言ってたわ。だって受験するときは、みんな敵になるからって。」

美樹さんは思わず座り込んで泣き出してしまった。

「大丈夫ですよ。皆さん別の学校に通っているので、敵にはならないと言うことです。」

ジョチさんは、にこやかに笑って美樹さんに言った。三人の利用者たちは、杉ちゃんとジョチさんが帰ってきたのに気がついて、すぐにお帰りなさいと言った。

「いえ、今日は見学の方をご案内しているので、そのまま勉強を続けてください。」

ジョチさんがそう言うと、三人の利用者たちは、美樹さんを眺めた。美樹さんは涙をこぼして泣いている。美樹さんがそうしていると、三人の利用者たちは、彼女を変に慰めることもなく穏やかに眺めていてくれた。美樹さんが、涙をふこうと言うときまで待ってくれたのだ。それはやはり、利用者たちも、美樹さんと同じ事をしてきたということを示す証拠にほかならなかった。

どれくらい時間がたったのか分からないが、美樹さんは泣き止んだ。すると、眼の前に、お茶とケーキが置かれているのに気がついた。美樹さんが泣いている間に、利用者の一人が、コンビニで買ってきてくれたものだった。

「メリークリスマス!」

と、誰かの声がした。美樹さんは周りを見渡すと三人の利用者は勉強を止めて、

「疲れ切ったあとにはなにか食べるのが必要よ。」

「そうよ。コンビニのケーキで申し訳ないけど、クリスマスが近いから、食べて。」

「辛かったら何でも私達に言っていいのよ。」

と相次いで優しく言った。美樹さんは、

「ありがとうございます。」

と、急いでケーキを口にして、お茶を飲み込んだ。そして、本当に平和とは、こういうことができることなんだと、改めて思った。もう日は西に傾いて居るけれど、なんだか寒い冬の中、暖かいものを手に入れた気がした。

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平和 増田朋美 @masubuchi4996

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