或る聖夜の悲喜交々

紅葉 紅羽

本編

 クリスマス。またの名を聖夜。この国において冬の特別イベントの一つとされる日。と言ってもそこから一週間しないうちに大晦日やら正月やらが来るのだから、日本の冬はあまりにも行事が詰まりすぎていると思わないこともないではないのだが。


 ただまあ、特別な日が多いのはいいことだ。クリスマスも正月も同じ人と過ごす人もいれば、家族や恋人と言った違う人と過ごすのもありだろう。特別の中でも区分けがあればそれらは喧嘩しないし、割と棲み分けられているから行事同士共存できているのかもしれない。


 まあ、もっとも――


「……マスター、強いのをもう一杯頼む」


 クリスマス当日に独りバーで酒をかっくらう俺からすれば、正月もクリスマスも自分の孤独を顧みる日でしかないのだが。


 くたびれた背広に薄っぺらいコート一枚、それが俺の装備品だ。誰かに贈るためのプレゼントなんてありゃしないし、ケーキの『ケ』の字すら俺の人生にはちらついていない。俺の身体には絶えず強いアルコールが流し込まれ、芯まで冷えた体を火照らせる。それでも心はちっともあったかくならないし、この熱だって少しすれば消え失せる仮初の物でしかない。


 普段は何人かの客でにぎわうこのバーも、今日に限っては俺以外の常連はいない。家族と過ごしているのか、それとも恋人と過ごしているのか。……ああ、そういえばもうすぐ『性の六時間』とかいう下世話極まりないネーミングの時間が始まるころだったか。


 カップルたちがそんないかがわしい時間を過ごしている中、俺が過ごすのは『酒精の六時間』だ。当然その後には二日酔いがくっついてくるし、とてつもない自己嫌悪ももれなくセットでついてくる。その大きさたるや賢者タイムをはるかにしのぐ酷さで、それがやがて訪れるのが怖くて怖くてたまらない。


「……お待ち」


 現実から目を背けるようにカウンターに突っ伏す俺の耳元に、物静かなマスターが軽い音を立てながら小さなグラスを置いてくれる。俺の様子を見て何も聞かないでいてくれるのが、今の俺にはとてつもなくありがたかった。


 酒のせいか疲れのせいか重たい体をどうにか起こして、出された酒を一息に呷りきる。喉を熱い感覚が通り抜けて、胃の底に落ちたところでそれが消える。また仮初の熱が俺の身体を包んで、少しだけ沈んだ気分がまぎれるような気がした。


 だが、その熱はいずれ消えていく物だ。酒場で一人酒を飲むだけの俺を温めてくれる存在なんて一人もいない、ずっと俺を温めてくれる存在なんていない。……たとえこの世界のどこかにそんな人が居てくれるのだとしても、それを見つけ出すのはあまりにも難しいことだ。


「……やってらんねえよ……」


 やれどもやれども終わらない仕事、クリスマスだってのにこんなところにいることしかできない自分自身、今の俺を取り囲むすべてに対して、俺はそんな言葉を吐く。ヤケ酒は嘔吐ではなく、絞り出すような弱音を導くばかりだった。


 だけど、やってらんないことをどうにかやっていくのがこの世の中だ。社会に出てそれが分かったし、理解したくなくても理解してしまった。どれだけ嘆いてもやってらんないことはこの世界にたくさんあって、これからもそれに直面しながらどうにかやっていくしかないのだ。その度にこういう風に酒を飲み干して、腹の底から弱音を絞り出して――


「いやあ、本当にやってられませんよねえ。こっちの気持ちも考えろって話です」


「――は?」


 誰にも届かないと思っていた愚痴に想定外の返答が返ってきて、俺は思わず間の抜けた声を挙げてしまう。咄嗟に声がした方を向けば、そこにはとんでもなく美人な女性がだらしなく座っていた。


 地毛なんじゃないかと思うぐらいに綺麗な茶髪を長く伸ばし、白色のファーが付いたコートを綺麗に着こなしている。幻覚の類なんじゃないかと目をこすっても、その人は確かにそこにいた。


 これだけの美人さん、寧ろ一人でいることがおかしいぐらいだ。街を歩けば不躾な男が何人も寄ってくるだろうし、そんな男たちの提案を呑まずとも誰かと愛し合えるだろう。……間違っても、こんな日にこんなところでヤケ酒を呑むような人には見えない。


 けれど、確かにその顔は真っ赤に染まっている。軽く彼女が身じろぎをするたびに、濃い酒の香りが酒で鈍った嗅覚を強く刺激した。


「こっちは裏方仕事コツコツ頑張ってるってのに、アイツってば仕事先の下調べすらしてないんですもん。なんですか『最近の家は煙突が少なくってよくない』とか、こちとら毎年ブクブク膨れて重たくなってるのを我慢して何キロも何キロも移動してるんですからね⁉」


「……え、と……」


「それでもいいですよ、私たちは夢を届ける仕事だってわかってますから。アイツにも文句はたくさんありますが、それでもその共通理解があるからどうにかやっていけますとも。……でもですね、私一つ許せないことがありまして」


 突然現れた女性に戸惑う暇もなく、その口はせわしなく、そして俺以上に密度の濃い愚痴を垂れ流す。俺のことを知り合いの誰かだと勘違いしているのか、それとも知らない人だと分かったうえでやっているのか。……まあ、どっちにしたって見ていて心配になるのは変わらないのだけれど。


 そんな心配をよそに、女性の愚痴はまだまだ垂れ流される。やがてその感情は頂点に至ったのか、グラスに入っていた酒を全部飲み干して女性は大声で叫んだ。


「私が許せないのはその子供たちの末路ですよ、ちょっと大人になればどいつもこいつもヤることヤっちゃって! 『サンタさんありがとう』『トナカイさんありがとう』とか抜かした口で私たちの苦労を裏切るような真似をするんですよアイツら、ちょっと来年から『クリスマスベイビー』とやらにプレゼント配らないように掛け合えたりしませんかねえ⁉」


「ま、末路って――」


 他の客が誰もいないのをいいことに叫ぶ女性の声に、やけに冷静になっていくのを俺は感じる。自分以上に酔っぱらっている人を見ると酔いが醒めるというのはあながち嘘でもない様で、凄く引いた眼で女性の事を観察している俺がいつの間にか現れていた。


「私だって恋人とイチャコラしたいですよ、でもできないんですよこれが仕事だから! 一年で一番ロマンチックな雰囲気ができる日だって分かってますよ、でもできないんですよ仕事とまる被りしてるせいで! ああもう、誰なんですかサンタのそりを引く動物をトナカイだって定めた大馬鹿者は‼」


 そんな俺の変化など知る由もなく、女性の愚痴はさらにエスカレートしていく。……と言うか、少しベクトルがおかしな方向に進んでいるような気がした。


 さっきから話を聞いていると、まるでこの女性はトナカイに共感しているような気がしてならないのだ。まるで自分がそれ自身であるかのような――いや、そうとしか考えられないぐらいに。仮にとんでもなく酔っぱらっているのだとしても、自分がトナカイだと勘違いする人なんてものがこの世にいるものだろうか。


「もういっそどっかでしくじって子供たちに見つかってしまえばいいんですよ、あんなに動きにくそうな体と服装してるんです、失敗してサイン会でも何でも開いてやればいいでしょう。……そうすれば、少なくともこの夜に働くなんてことはしなくてよくなるんですから」


「……サンタが子供に見つかるって、ある意味一番の大失敗な気がしますけどね……?」


 そんな疑問を抱きながら、俺は笑みを作って女性に合いの手を入れる。俺としては何の気なしのつなぎの言葉だったのだが、それはどうやら女性の琴線に触れた様で――


「そうです、大失敗しちゃえばいいんですよ! そうすればサンタって存在自体が疑問視されて、ひいてはクリスマスプレゼントって概念もなくなる! 元々クリスマスにプレゼントを贈る風習なんておもちゃメーカーの策略でしかないんです、同じ境遇のバレンタインデーともども意味を見直す時が――」


 言葉を紡ぐ度に女性の口調はヒートアップしていって、ついにはクリスマスの意義そのものにまで言及が始まっていく。ここまでくると最後はどこまで行くのか見守りたいとすら思えたが、その言葉を遮るように携帯の着信音が響いた。


 それが聞こえるや否や女性は舌打ちを一つ、しかし律儀に携帯の画面を見つめる。……それを見つめてしばらく、今度は特大のため息が口からこぼれた。


「……はあ、どうも無事に脱出に成功したようですね。あの太った体で無事に潜入しきるとか、いっそエージェントかなんかになった方が稼げるんじゃないですか?」


 めちゃくちゃ棘のある悪態をつきながら、気だるげな様子で女性は立ち上がる。結構な勢いで酒を飲んでいたはずだが、その足取りは確かなものだ。


「まあ脱出できてしまった以上仕方がありません、私は仕事に戻りますね。……ああそうだ、私の愚痴を聞いていただいたお礼をしなければ」


 俺の方を見つめて美しく微笑み、女性は上に羽織っていたコートをおもむろに脱ぎだす。咄嗟に俺は目をそむけたが、恐る恐る見てみれば当然ながらその下にはちゃんと服が着られていた。


「特別製の物です、きっとあなたのような男性にも合うかと思いますよ。……サンタじゃない私が言うのもなんですが、貴方へのクリスマスプレゼントだと思ってください」


 メリークリスマス、と。


 少し照れたように早口でそう告げた後、女性はつかつかとバーを後にする。よく考えれば酒代を踏み倒しているような気がしないでもないけれど、そんなことは俺にとって気にするべきことでも何でもなくて。……俺の感覚は、女性から手渡されたコートの柔らかな毛皮の感覚に集中していた。


「メリークリスマス、か」


 そんなこと言うのも言われるのも久しぶりだと思いながら、俺は女性が出て行った扉の向こうを思い浮かべる。……今頃あの女性は、サンタに悪態をつきながらそりを引いて空を駆けているのだろうか。茶色い毛皮に真っ赤な鼻、そして立派な角を生やしたトナカイとして。


「――そりって、飲酒しながら運転して大丈夫な物なのかね……?」


 ふとファンタジーの欠片もない疑問が口からこぼれてきて、俺は思わず笑ってしまう。……幻聴かそれとも本当なのか、シャンシャンとベルが鳴るような音が窓の向こうから聞こえてくるような気がした。

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