目を覚まし、周りを見渡すと、乳白色の空間が広がっていた。

 ちょうど真後ろを振り返った時、優しそうなお爺さんが杖をついて立っていた。

 彼はゆっくり口を開ける。

 「思い残しはないかね」

 一瞬戸惑ったが、答えは自然と沸き上がってきた。


「愛されたかった」


 お爺さんは微笑みながら、静かに、けれど力強く、うなずいた。



 おい   おい  おい おいおい、起きろって、おい!!

 ガタン、と音がして自分の体が揺れるのを感じる。

 重い瞼をゆっくり開けていくと、目の前に男が立っていることに気が付いた。

 僕の目線は不自然に高く、伏しているのに彼の腰が目の先にあった。床からも浮いているように感じた。自分が机の上にいると気づいたのはもう少し後の話だ。

 僕は男の顔を見上げる。

 「まったく早く起きろよ。俺もこっち来たらいきなりここで、ホコリ臭くて仕方ねぇ。お前がここに指定したらしいじゃねえかよ、なあ猫さんよぉ」

 僕は黒い毛で覆われた手をみて、自分は猫なんだ、となんだか状況が飲み込めた。単なる夢だと思っていた節もある。

 ぐるっと周りを見渡した。

 風が吹き込み、カーテンがなびいていた。部屋の電気はついておらず、真っ黒なカーテンの間から差し込んだ夕日だけがこの空間を色づけていた。

 いきなり男がかがみ、顔を近づけてきたのでぎょっとした。皺だらけで、目の下にはクマがあり、鼻からは毛が顔を出し、唇は渇ききっていた。

 彼は天井を指さして言った。

 「まぁいい。俺が生き返るチャンスなんだからな。あっちのやつにルールだけは共有しろってきつく言われてるから一回だけ言うぜ」

 何を言っているのか、意味が分からなかった。

 「俺とお前は一回死んだどうしなんだ。俺は30年前に死刑で、お前は一か月前に自殺。あっちのやつ的には悪事を働き長年上にいた俺と、自殺して自ら上に来たお前とでどっちをこっちに戻してやるか迷ったらしい。そこで、ゲームで決めようってなったわけだ」

 相変わらず、何も理解できなかったが、自殺した、という事実は思い出した。この世界を恨みながら線路に飛び込んだ光景が、あの時の耳を引き裂くような悲鳴とブレーキ音が、鮮明に蘇ってくる。

 「どんなゲームか、気になるよなぁ。簡単だ。小さいビー玉みてぇな青い玉を先に見つけた方が勝ち。どちらかが自分の手にした瞬間、 両者ともあっちに戻されて勝者だけが生き返る手続きをできるんだとよ。ないと思うが万が一玉が体の中に入ってしまったらぁ、んー、ここは意味わかんねぇから飛ばすわ。そして俺は、、、おっと、これも言わないでおくぜ」 彼は首に振り下げた丸いケースのようなものを弄んでいた。

 「じゃあ早速俺は行くぜ」そう言って彼は足早にドアに向かい勢いよく開けた。

 自分も行かなければいけない気がしたものの、なによりも眠かった。窓から吹き込んでくる風が暖かく僕を包んだ。



 大きな声がした。何と言っていたのかはわからない。

 僕は静かに目を開け、ドアの方を見る。誰もいなかったものの、外が騒がしそうだった。そこでなぜか思い出した。

 ここは僕のいた高校だ。だからここにしたんだ。

 僕は机から降りて、階段に急いで向かう。なぜ進んでいるのか分からない。

 しかし、なんとなく向かう先に求めてるものがある気がした。

 階段を降りようと勢いよく一歩目を踏み出した時だった。足が下の段に届かず、踊り場まで転がり落ちた。そこで自覚した。僕は本当に猫なんだ。


 玄関を抜け、校門に向かった。目の前には、見覚えのある顔が校門に立っていた。

 堂本先生。自分が恐れていた人。僕を助けようとしてくれていた人。

 堂本先生は心配そうな顔で叫んでいた。

 「お前!か!ぎ!鍵返せって!!おい!!戻ってこい!!」

 彼の視線の先には自転車を漕ぐ生徒の背中が見えた。

 神崎だ。僕には分かった。

 なぜか意識より先に、無我夢中で彼を追っていた。



 全力で走りに走ったが、人類の文明にこの短い足で追いつくなんてできなかった。

 人気のない道を一人で、いや、トボトボと歩いた。

 途中でさっき見た坊主頭の一同が僕を追い越していった。


荒んだネズミ色の道を見ているうちに徐々に僕自身のことを思い出してきた。


 物心がついた時から、自分が愛されていないということは分かっていた。

シングルの母からの暴力、暴言。夜にしか食べれない食事。というものの夜の仕事に出ている母が飯を作っているわけもなく、机の上にあったのはいつも皺だらけの千円札だけだった。

 やがて男ができた母は僕を置いて家を出た。このことは警察沙汰になり、最終的に僕は叔母さんの家族に引き取られることになる。本当の地獄はここからだった。

 叔母さん、そしてその夫、3人いる子供たちからの邪魔者扱い。暴言、暴力は言うまでもない。床で食べ、玄関で寝る。冷たくて苦しくて悲しかった。やがて涙は出なくなり、負の感情だけが重く心にのしかかり続けた。

 外面だけは良い彼らは、僕を学校だけには行かせた。ペット以下の扱いしか受けたことがなかった僕は人との接し方がわかるはずもなく、学校でもいじめを受けた。

 そんな僕に声をかけ、小学校から高校まで一緒にいてくれたのが、神崎だった。

 神崎は一緒にいじめられる事を承知で、僕へのいじめを止めようとしてくれた。

 一緒にいじめっ子に立ち向かい、河川敷で泣き、公園で不満をいいながらブランコを漕いだ。

 彼といる時が唯一の「安息」ってやつだった。


 でも、高校一年の夏。また、僕へのいじめが始まった。

 神崎は止めようとしてくれたが、僕は自分が苦しむ以上に神崎を巻き込むのが嫌だった。そんな僕に残っていた選択は「死」だった。

 僕が選んだわけじゃない。この世界が選択肢をそれしか残してくれなかった。


 そして僕は線路に飛び込んだ。


 人生で初めて注目された気がして心地よかった。



 夜空には月が穏やかに輝いていた。

 先ほどから漂っていたカレーの匂いがピークを越え、徐々に薄まってきていた。

 歩き疲れた僕は、チカチカと点滅する壊れた街灯の下に座った。

 異様に手を舐めたくなり、思う存分舐めた。人だったときは汚いとしか思っていなかったのだが、不思議なことに今では何の抵抗もなくなっていた。

 片方の足を舐め飽きたので、もう一方に移ろうとした時、頭上で声がした。

「ねこちゃん、これあげるぅ」目の前に差し出されたのは、ナンだった。小麦のいい香りがした。しかし、不自然に膨らんでいた。前を向くと、しゃがんだ人の姿があった。その顔には見覚えがあった。坊主、狐のようなつり目、不気味な笑顔。僕をいじめだした張本人だ。目の前のナンは食べてはいけないと確信した。

ほらほら、と手と顔が近づいてくる。嫌な思い出が蘇ってくる。

 気づいた時には、沸き上がる憎悪にまかせて彼の顔をひっかいていた。彼の叫び声が夜の街路に響く。


 

 あの坊主は仲間らしき坊主と走って逃げていった。ナンを置いて。

 また僕に近づいてくる二つの人影に気づいた。

 僕は爪を出し警戒する。しかし、爪はすぐに引っ込んだ。

 暗闇から現れたのは、神崎だった。もう一人の子も見たことはある。

 神崎は僕の前にしゃがみ、ナンを拾い上げた。

「まったくかわいそうに」

 ナンから何かを取り出そうとしていた。取り出されたのは青い玉だった。

 途端に記憶がフィードバックする。


 ビー玉みてぇな小さな青い玉を先に見つけた方が勝ち。

 先に手に入れた方が生まれ変われる。


 次の瞬間、僕は神崎にとびかかった。

神崎は青い玉を空中に放り投げた。その行方を追う。


 生まれ変わりたかったわけではないと思う。


 をこっちの世界に戻してはいけないという使命感、これまでに見た楽しそうに生きる人たちへの嫉妬、来世へのほんの少しの期待。


 そういったものが僕を突き動かしたのだろう。


 青い玉はぐんぐんと地上近づいてくる。目の前で二人が交錯する。

 僕は落ちてくる青い玉に短い前足を伸ばす。

 ここで運動音痴が出てしまった。

 パクッ

 玉は僕の手になどかすりもせず、開いていた僕の口に入った。

 ゴクン

 さらに、そのままの勢いで飲みこんでしまった。

 目の前の二人はきょとんとした顔でこっちを見ていた。そしてその向こうに、引き攣った顔の老人がいるのに気が付いた。 

 次の瞬間、聞いたことのないような金切り声が空気を切り裂いた。



 あの老人がそこにいたことは確かなのだが、瞬きした間に彼は消えていた。

 上の世界に戻ったのだろうか。

 さらに、あの二人も走ってどこかに行ってしまった。

 途端に点滅する街灯の下で僕はまた一人になっていた。

 なぜ僕は老人のように消えないのか疑問だった。早く上に戻りたい。この世界は疲れる。もうこりごりだ。ここにいても、愛されることはない。

 そんなことを思っていた頃だった。

 手足に違和感があった。ムズムズする。

 先の方から黒い毛が徐々に白くなっていることに気づいた。どんどん白くなっていき、ムズムズとした感覚はからだ全体へと広がり、やがて収まった。

 改めて手足を見ると、真っ白だった。

 驚いたままで状況は全く理解できなかったが、とりあえず舐めてみようと顔に手を近づけた時だった。また頭上で声がした。

 「ねこちゃーん」

 そう言ってしゃがみこんできたのは小さな女の子だった。後ろには彼女の母親であろう、女性が立っていた。

 「ねこちゃん、家族は?」

 いない、と声を出したつもりだったが、口からはにゃあという音しかでなかった。

 「かわいそうに」

 「早く帰るわよ、ただでさえ公園であんなに遊んでたせいでこんな遅いんだから」

 「この子飼いたいー、かわいい白猫ちゃん」

 そう言って、女の子は僕を抱き上げた。あたたかった。

 「私と一緒に住む?」

 僕は、嫌だ、と言おうとして、にゃあと鳴いた。もう人と暮らすなんて嫌だ。

 「だよねー、住みたいよね」

 語彙が「にゃあ」だけになった僕が彼女に気持ちを伝えるなんて無謀だった。

 でも女の子は自分ですら気づいていない僕のを分かっていたのかもしれない。

 女の子は僕を抱きながら歩きだす。

 「一緒に住もうねー、かわいいねー」頭を撫でられる。

 「もう。わかった。いろいろ連絡して確認取ってみるから」

 「やったー」

 僕も内心少しうれしい気持ちが芽生え始めていた。何かこの空間が心地よかった。

 愛されている、幸せになれる、気がした。



 しかし次の瞬間、その気持ちは一変する。

 「君も堂本家の一員だね。お父さんもいるけどとっても優しいからね」

 堂本と聞いて想像するのはただ一人。

 「高校の体育の先生だよ」

 今すぐ逃げ出したかったが、彼女は思ったより強い力で僕を抱きしめていた。

 

 「楽しみだねー」「いっぱい遊ぼうねー」「ずっと一緒にいようねー」という希望に満ちた声と、にゃあ、という間の抜けた鳴き声が、交互に、時に混ざり合いながら満月のもとに響き渡っていく。


 この世界は終わっている、気がした。だけだったのかもしれない。

 

 

 

 

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