ソムニウム・アド・レヴァニア

坂本忠恆

ソムニウム・アド・レヴァニア


 嘗てなら浜堤ひんていのあったあたり、海岸の堺を曖昧にしている氷雪の棚の上を、独り、青年が歩いていた。彼は脱走兵であった。

 彼が何者であるかを問うまでもなく、彼の出奔しゅっぽんの事情に興味ある者の皆無であることは明らかであろう。脱走兵の身の上になぞ、大した独創のあろうはずもないからだ。戦時に十人の兵士も集まれば、そのうちの一人か二人、よこしまなことを企てる者もいる。百人も集まれば、魔が差したままにあやまつ男の一匹出ることは最早必定だ。然るに、そこにあるのは百人に一人の独創ではなく、十人に一二の統計的類型、或いは、誰しもに備わる弱さの普遍に過ぎぬ。故にもし彼の脱走に独創があるにしても、言うなればそれは、一割、一分にあり得る弱さの過剰であって、それだとて程度の話の域を出まい。

 それでもなお、彼の出奔に何らか意義付けを試みるのなら、彼は人間を買い被り過ぎていた、ということくらいであろう。彼は彼の弱いことと同じだけ、他者の価値を高く見積り過ぎていた、そして、そのなまくら鑑識眼かんしきがんに裏切られたのである。

 自己の観念に裏切られた青年というものは、いつの時代も、分不相応に悲劇の装いをまといたがるものだ。自己の没個性な失敗を、悲劇の独創で粉飾するのは、古今にわたる若者に流行りの衣装である。


 青年の足取りは怪しい。今や北緯五十度の極寒は人間の定住域に限界線を引いている。ここでは陸を噛む海波も、千枚の葉の重なりのかたちに凍結してしまった。輪廻転生を絶え間なく育んだ大洋の搖動は息絶えて、その活力の如何に旺盛であったかの痕跡は、途方もない海氷の上の、その茫漠ぼうばくたる空白によって辛うじて偲ばれるばかりである。

 汐の化石化は人間の生活をも固結させた。海流パターンの異変を嚆矢に徐々に南下を始めた厳冬は、それから逃避する人々の足どりを恰も蹂躙者の行軍に従わせて、着実に街々を侵略していった。人口圧の急減増に対して人間社会の力学は、その自然法則的従順さでこたえた。

 大きな戦争が起こった。

 彼はその血戦の最中さなかから逃げてきたのである。


 彼の浅慮な目論見は、彼の足を地政学的リスクの比較的低い北方へと向かわせた。

 彼は氷の上にすり減った半長靴はんちょうかのスパイクを突き立てながら、歩一歩、当て所なく進んだ。一丁の拳銃に予備の弾倉、短刀や懐中電灯などの細々こまごまとしたものだけを携えて、重荷になる小銃その他武装は早々になげうった。北へ行くごとに、体格に合わぬ官給の外套だけでは寒さに対して心細くなってくる。携行できる軍糧ぐんりょうも乏しい。彼は路中、必要に迫られるたびに盗みをした。銃後の寒村では強盗もした。村民は黙って、彼に施した。

 海岸線に達した頃から、これまで彼の背後に漠然と漂うていた死の予感は確信へと結実し始めた。敵にも味方にも追われる身である。俘虜ふりょへの扱いは惨酷さんこくであるし、軍事法廷に引き出されれば銃殺は免れない。かてて加えて、日毎に深刻さを増していく致死性の寒さが慢性鉛毒のように彼の身体を丹念に蝕んでいく。目の端には常に渺茫びょうぼうとした氷の海原があり、晴れの日など、絶え間なく白く閃く陽光の反映が顔の肌を焼き、視界の半分を悩ましく眩ませ続けた。疲労のために彼の思考は規矩きくを持てなかった。目的の無い旅だ、この戦争のように、或いはこの人生のように、と、彼はぼんやり思った。

 彼の眼前にあり得る確固とした観念は死のみであった。戦争の勝ち負けなど、最早彼の関心事では無かった。逃亡の先に描くべき未来などない。隊から出奔した時点で、彼の敗北は決められていた。審判を待つまでもなく、現に今彼は裁かれている。兵士の道徳律は彼らの組織的な生活様式の中に端然と織り込まれている。それは彼らの有し用いる暴力であっても例外ではない。斯様な抜かりない機構は極めて単純な倫理を彼らの日常に与えるに至る。即ち、敗北は罪であると。

 罪咎ざいきゅうは彼に流竄るざんの刑徒の片影を与えた。責苦は絶えず彼を自棄へと唆した。彼は決死用のメタンフェタミンに幾度となく手を付けそうになった。


 彼が歩き続けて幾日経ったか知れない。随分と遠いところまで来たことは確からしいが、永遠に続くかに思われる世界の余白のようなこの海岸沿いの道なき道では、確証に足るなにものも見出すことはできない。

 ここ数日の間、酷い吹雪が断続的に続いた。その日も降雪こそ無いが風が激しかった。海側から吹く風が雪氷を巻き上げて彼の顔を刺した。陽も落ちかかっている。このまま悪天を凌ぐ場所を見つけられなければ命の保証はない。彼は雪に埋もれた浜堤の一段高くなっているところに立って、襲いかける猛烈な地吹雪を背に、大地の側を見渡した。視界は悪いが、彼は己から見て左方、方角にして東北東の向きに、広い平地のようになっている地帯があるのを見つけた。もしかすると民家があるかもしれない。彼は賭けた。


 果たして家々らしいものはあった。雪に埋もれてはいるが、確かにここは町のようである。人の気配はない。平坦な地面に何か柱のようなものが屹立している。彼が近づいてみるとそれは標識で、表面に貼りついた雪を掌で退けると地名が現れた。レヴァニア海岸と書かれている。彼には聞き覚えがあった。隊から逃げ出す直前、確かこの辺りで略奪があったと耳にした覚えがある。村民は拉致され、或いは殺されたと聞く。友軍による焦土作戦を兼ねたデマゴギーの一環であるという陰謀さえ囁かれたため、兵たちには印象深く記憶された。兎にも角にも人がいないのなら寧ろ都合が良い。彼はこの頃殊に人目に触れることを恐れるようになっていた。それに、とにかく今はこの風から逃れたい。

 彼は周りの空き家を目で物色した。そして、一軒扉の破られた平屋があるのを見つけた。玄関先は半ばまで雪に覆われていたが、彼はことなくその中へ滑り込むことができた。

 戸外とは一転して幽暗な屋内は静まり返っている。家具は荒らされ床には衣類やらが散らかっている。彼は拳銃と懐中電灯を手に一部屋一部屋安全を確認して回った。居間を合わせて部屋は五室あった。最後の寝室のドアノブに手をかけたとき、彼は室内から少しく異臭の漂ってくるのに気が付いた。

 彼は室内に飛び込むと銃を構え筒先へ光を投げた。すると、寝台の脇の雑然とした床の上に夫妻と思しい男女の遺骸が横たわっているのを見つけた。寒さで殆ど凍ってしまっているため腐敗は軽微であるが、これが異臭の原因らしい。罠がないか確認するために足先で二人を小突いてみると、胸部に銃創のあるのが分かった。寝室の壁にも、二人を襲ったらしい複数の弾痕が残穢ざんえのように刻まれている。話で聞いて理解しているつもりではいたが、戦禍が極北の辺縁にまで及んでいる事実を改めて目の当たりにし、彼は悚然しょうぜんとした。もっと、もっと、北へ逃げなければならない、と彼は思った。


 彼は二人の遺骸に敷布を掛けてやると、唯一の出入り口であるくだんの破れた扉口を雪で隠した。それから彼は、二人のいる隣の寝室に這入った。そこは子供部屋らしかった。この部屋の主はどこへ行ったのかと彼は少し考えたが、すぐに止して、そこを一夜の宿りに定めた。彼は足許の床に投げ出されていた毛布を拝借し、部屋の隅に屈んでそれに包まった。明かりを消すと部屋は深い闇に沈んだ。そして彼はじっと耳を澄ました。

 烈風が家を僅かに揺らしている。水気の無い雪が砂嵐のように屋根を駆けていく音を聞きながら、自分を殺すために差し向けられた白い死神の姿を彼は空想した。

 次第に彼は微睡んで来、眠った。

 途中彼は悪夢を見て何度も目覚めた。その度に風が止んでいないかに耳をそばだてた。五回目に起きたとき、やっと静寂があった。

 戸外へ出てみると、晴れ渡った夜空に澄んだ満月が懸かっていた。決して暖めることのない青い月光は、それでも白磁はくじの雪世界を取り巻いて、際立つ真綿質まわたしつに柔らな足許の感触を好対照に、景色全体を優しい印象に浮かび上がらせていた。日中の、あの苦しめることしか知らない日射と引き比べて、この寡黙な冷たさは、裏腹に彼の心象に暖かに沁みた。

 月影は彼の心を穏やかにした。彼の置かれている状況を鑑みるに、それはまさしく狂気に他ならなかったのかもしれぬ。彼は精神の麻痺を、或いは鷹揚おうような慈悲心と紛うていたのかもしれぬ。彼は連れ合って死んだ二人の亡骸に墓を掘ってやろうと思い立った。そして夜が明けるまで、なかなか土に達さない深雪みゆきを掘り続け、二人を葬ってやった。墓石はなかった。代わりに彼は小さく祈った。これは詮なき体力の浪費に違いなかったが、彼は自分の気まぐれに満足した。


 彼は町を発つ前に物資を蓄えておこうと考えた。彼はこれが最後のつもりで、もう一度家の中へ引き返した。

 窓の外にうずたかくなった雪から僅かに朝陽が差し入ってくる。昨夕には気が付かなかったことだが、ここに残る生活の形跡はまだ余り古いものには見えない。彼にとって今日までの逃避は途方もない時間をかけた出来事のように思われたが、彼が隊で件の略奪の噂を聞き、そしてこの町に訪れるまで、諸々の状況から推すに一月隔てているかどうかという程度であろう。町が放棄されてからの連日の吹雪で忽ち雪に覆われてしまったのに違いない。ただでさえ北方に留まる人らの数は少ない。ここの町民がいったい如何なる思いで、この雪地帯に幽閉されるようにして暮らしていたのか、想像するだに痛ましいものがある。一方で、それだけ彼らは物資の備蓄に抜かりなかったはずだ。長い間空腹状態が続いている。望み薄ではあったが、人一人飢えを凌ぐだけの食料くらいは期待してもよかろう。

 彼は家中を隈なく検めて回った。


 彼の期待は容易には満たされなかった。

 彼は最後に一縷の望みをかけて、夫妻の亡骸を見つけたあの寝室に這入った。寝具類を引き剥がしてみたり、サイドチェストの中身をひっくり返してみたり、とにかく目につく場所は可能な限り漁ったが、それでもやはり無駄だった。

 彼は寝台に腰かけて項垂れるように脱力した。それから彼はなんとなしに夫妻の斃れていた場所に目を落としてみた。ペルシャ風の絨毯の上に人の形をした黒い染みが二つ寄り添っている。それを見ながら、彼は今朝彼が二人にかけてやった恩が十分に報いられなかったような、どこか憮然ぶぜんとした心持ちになった。

 彼は立ち上がりつばきを吐くと、黒い染みの上に立ってつま先で踏み込むようにそれを二回蹴った。その時である。彼はある違和感を覚えて、もう一度床の同じ場所を蹴った。靴音が地面に吸い込まれるように響いていく。下に広い空洞があるらしい。彼は絨毯をぐように裏返した。すると床板には、改め口にするにはやや大きな上げ蓋が嵌められていた。してやったりと彼は思った。きっとこれは貯蔵庫に違いない。彼は勢い込んでそれを開けた。そして愕然として息をのんだ。地下へ続く階段がそこにあったのだ。


 彼は懐中電灯で下方を照らしてみた。すると、すぐ先に金庫の扉のようなものがあるのが見えた。ただ、個人が持つものにしては不相応に大きい。銃に手を掛けながら慎重に下っていくと、彼は金属製のその扉に手をかけ、恐る恐るノブを回した。鍵はかかっていないようだ。重たく冷たい扉がもったいを付けるようにゆっくりと開いていく。中は暗い。その暗闇の中へ懐中電灯の光が差し足するように忍び込んでいく。少しく暖かい微風が漂ってきて鼻先をくすぐる。向こう側には奥行きがありそうだ。彼は扉を開く手を少し止めて、中の様子に耳を澄ましてみた。何かのいる気配はない。彼は意を決すると体重をかけて一気に扉を開け放した。中にあったのは恐らく寒冷期前に造られた旧式の核シェルターだった。


 彼はちょっと呆然として扉口に立ち尽くした。情報の制限のため旧い時代の事情に疎い彼には、一個人の家にこれほど仰々しいものを拵えておく理由が分からなかった。それに今はもう核の時代ではない。しんば核が使われることがあったとしても、文字通りそれは終末のときであろう。確かに戦争は恐ろしい。然るに斯様な手立てを打ってまで、終末を生き抜く意地を見せるなど、彼には滑稽なことに思えてならなかった。

 ただ、何れにしても今は今日のパンを得ることが先決である。彼は懐中電灯の明かりを前にシェルターの中へ足を踏み入れた。そして再び彼は立ち尽くした。

 そこには少女が居た。シェルター奥の壁際の寝台に、彼女は横たえられていた。

 彼は壁に手回し充電式の電気ランタンがかけてあるのを見つけ、それを灯した。無機な白い光が冷え冷えと彼女の姿を浮き上がらせた。彼女は鮮やかなカワセミ色の化粧着を羽織っており、その上から薄いブランケットを一枚だけかけていた。

 彼はたぢろぎながら彼女のそばに近づいた。意識はないが息はあるようだ。しかし、その呼吸は非常に浅い。顔色も青ざめている。額に手を当ててみると死人のように冷たい。

 彼はもしやと思い、彼女の周りを見廻してみた。そして、寝台の横の小卓に、それが官製品であることを示すラベルの貼られた液剤の小瓶が置かれているのを見つけた。それは彼にもなじみある、仮死剤クリプトソムナレバCryptosomnalevaであった。仮死剤の他にも小卓の上には「冬眠者家庭内収容の手引き」と表題してある政府機関発行の小冊子があった。それを見て彼は合点した。彼女は地球寒冷化に伴う人口圧の緩和と資源消費の抑制のために、国によって主導された仮死政策の対象者の一人であった。

 しかし、と、彼は思った。確かに彼女は、見かけの年齢から推して、積極的にリストに組み入れられた層に属していそうだ。ただ、政策は開始から間もなくして破綻し、今や国民に対する強制力は皆無なはずである。もしかすると、この家、いや、この町に特有の、何か骨がらみの事情があるのやもしれぬ。この町の気象条件は過酷である。つい数か月前まで、安閑と町の暮らしが営まれていたというのはどうにも想像しがたい。彼らの生存戦略の裏側に、仮死剤を用いた口減らしの身過ぎがあったと見るのも無理からぬことであろう。

 彼は我知らず嘆息した。そして壁に寄りかかり、そのままずるずると尻を床に下ろした。断熱に余念のない内壁は、彼の孤独に冷感さえ与えずに、ただ無骨に凭れ合うだけである。

 彼はこの冬眠者の身の上について思いを巡らせた。彼女はあの夫妻の娘だろうか。恐らくそうだろう。気の毒なことだ。仮死剤一回分の効果時間は約半年だと聞く。彼女はまだ当分目覚めなさそうだ。目覚めたら、何を思うのだろうか。


 ふと彼は、彼女に声をかけていた。

「きみの名前はなんだい?」

 当然返事はない。

 彼は少し自嘲気味に微笑むと、独りでつづけた。

「誰かと話をするのは酷く久しぶりに感じるよ。おれは逃げてきたんだ。南の方からさ。戦争からだよ。軍人なんだ。一兵卒だがね。しかし、どのみち逃げてしまったんだから、関係のないことだね」

 彼はちょっと黙ると、自分のあかぎれした掌を見て、それから眠っている彼女の雪のように青ざめた横顔を見て、今度は哀しそうに微笑んだ。

「そうだ。きみをハルシオンHalcyoneと呼ぶことにしよう。おれは昨日の吹雪をきみの家でやり過ごしたんだ。それにその服の色。だからハルシオンだ。何日かぶりにまともに眠ることができた。礼を言うよ。ありがとう、ハルシオン」

 彼には自分でも、何故なにゆえこのような虚しい児戯に及んだのか分からなかった。ただ、孤独が雪と同じだけ彼の心を冷たくしていたから、彼は少しの温もりでも欲したのかもしれない。


 ふと彼は対面の壁を見た。そこには段ボール箱が積まれてあった。彼はここに来た理由を急に思い出して立ち上がり、箱の中を注意しながら確認した。中には保存食があった。補給が滞ってもしばらくは暮らせるだけの量だ。

 彼は少し逡巡してから、ハルシオンを見て、言った。

「少しだけここに居てもいいかな。おれはひとりなんだ。それに、きみもひとりなんだよ。だから」

 彼には、自分が食料を横取りするための辯解べんかいをしているのか、それともただここに留まるための辯解をしているのか、もし後者だとしてもどうしてそのようなことをする必要があるのか、訝しい程であった。

「寒さが和らぐまでだよ。本当に、それまでだよ」


 明くる日から、彼は近くの家々も探索して回ることにした。どこの家からも大した収穫物は得られなかった。食料はないし金目のものもない。他の冬眠者もいなければ、核シェルターなど当然なかった。代わりに遺骸はいくつかあった。全て殺されたものだ。彼は一日に一人ずつ、それぞれの家の近くに葬ってやることにした。

 夜になると、彼はハルシオンのもとに帰り、シェルターの硬い床の上で眠った。そこでは束の間寒さを忘れることができた。

 天気が悪い日などは、日がな一日彼はシェルターにこもって、依然眠り続けているハルシオンに声をかけた。拾ってきた本を読み聞かせたりもした。隣の家で死んでいた女の頭に、ハルシオンの化粧着と同じカワセミ色の髪飾りがあるのを見つけたときなどは、それを彼女の髪に付け替えてやり、長い間それにうっとりと見惚れていることもあった。

 彼女と過ごす時間は、彼には心安らぐものだった。


「昨日は向かいの家の老婆を埋めてやったんだ。きっときみの知り合いだろう。ベットで寝たまま、白いシーツの上から胸を一突きされていたよ。乱れた布のひだに血が染み入って、いかさま大きな赤黒いコサージュのようだった。女の盛りはよく花に喩えられるが、あの老婆も枯れ萎びた時分になって、大輪の薔薇を咲かせる機会にまみえるとは夢にも思わなかったはずだ。ところで、おれが最後に本物の花を見たのはいつだったろうか」


「ハルシオン、きみには好きな花があるかい。おれにはないよ。爆弾を投げ合うことも、花を投げ合うことも、そのどちらにも大きな違いはないということを、おれはこの長い戦いの中で知ってしまったからだ。おれの目の前で仲間のひとりが女を撃ち殺したとき、そいつは胸に赤いヒナゲシをさしていた。まるで勲章を佩用はいようするように。ああ、そうだ、あれは愛の勲章だったんだ。その花もまた女から贈られたものだったのさ。愛がおれたちを死へ嗾けたのさ。おれにはこの皮肉がどうにも分からなくなるときがある。もしかすると皮肉など初めから無いのかもしれないが。しかし、とにかく、おれの知る地獄は花で飾られていた」


「夜がくると、おれの頭の中はあの軍靴のどよめきで満たされる。一糸乱れぬ行軍。おれはそれから逃げ続けなければならない。ハルシオン、きみはあれを聞いたことがあるか。あれはまさに、自己欺瞞の為そうとした自然からの逃亡なのだよ。人間は、大群を成すことで、恰も個人の運命から逃げおおせると錯覚するのだよ。思うに、皆は人間を買いかぶりすぎているのだ。おれもそうだった。人間が自然を超えた使命を持ち得ることなどないのだ。個人の持ち得る死を、集団の理想に持ち上げても、死の本然、苦悩の原理は、人間たちの生み出した機構のまったくあずかり知らぬところで、営々と回り続けるのだよ。当たり前のことだが、おれたちは死ぬときはいつでも独りなんだ」


「ハルシオン。おれはきみがひとりだといった。きみの両親はもういないんだ。言おうかどうか迷ったのだが、どのみちきみは知ることになる。しかし、そのときが来ても落胆しないで欲しい。きみの両親は、おれが埋めてやったのだから」


「大義、正義、至誠、至純。こういった言葉を、おれは何度となく戦いの中で聞いてきた。人を殺すたびに聞いてきたのだ。それらの言葉が生活の中で生きている間、ああ、確かに俺の手は天上の何ものかに触れていた。そうだ、あのような言葉たちは、みな天上の所有なのだ。しかし、天上のものに手が触れているとはどういうことなのか。それはまさに、死に手が触れているということなのだよ」


「おれはいま、まるで安心立命の境地にいる。なにものも、恐ろしくはないようだ。ハルシオン。これはきみのお陰だ。きみは何もこたえないが、それでいいんだ。それが、いいんだ。おれはいま、自分の孤独を信じることができるようだ」


「そのカワセミ色の髪飾りはきみによく似合っている。ハルシオン、きみは美しいよ。しかし、その美しさと同じものが、どうやら戦場にもあるようなんだ。おれは見たことはないが、少なくとも皆はそれを信じている。本気で信じているんだよ。そうでなければ、人間がこんなにも苦しんでいいはずがないじゃないか」


「おれは既に裏切られている。おれはかつて人間を信じていた。人間の生み出した倫理の確かさを信じていた。愛や正義の名の下に行われる一切を信じていたのだ。しかし、結局は全て、あらゆる行動の結果から逆算された道徳律の後講釈に過ぎなかった。道徳に理屈を求めるというのはある種の破壊衝動なんだ。それが破壊から生じた道徳ならばなおさらだ。若気の至りのようなものなのだ。思うに、真っ当な倫理観と言うものは、美でしか説明ができないものだ。ハルシオン、どうかきみだけはおれを裏切らないでおくれ」


「戦争を見よ。飢餓を見よ。病苦を見よ。人間たちの営みを見よ。幸福ならんと欲し努力した彼らの生活の中に、絶え間なく繰り返した苦闘の痕跡こそ、我々が理想としたものの正体なのだ」


「おやすみ、ハルシオン。どうか、この安楽がとこしえにつづきますように」


 あれから何日経っただろう。逃走の日々を耐えがたく感じたがために彼がその時間を正確に推し量れなかったのと裏腹の理由で、この町で幾日過ごしたのか彼には分からなくなっていた。

 その日は天気が良かった。彼は海岸に来ていた。安穏な日々のために、彼の顔つきからは精神の張り詰めた剣呑さは失われていた。そればかりか彼は軍服も脱ぎ捨てて、ハルシオンの父親の衣服を着るようになっていた。

 彼は氷の海原を見た。乱反射する陽光が視界を真白に染めている。彼はかつて恨んだこの光にさえ、どこか親しみを感じ始めていた。彼は重力に屈した草木のようになっていた。草木は枯れてしまわぬかぎり重力に抗う構造を生来備えている。それが失われるということは、人生を生きるに堪える強さを失したことを意味するが、そのような脆弱さでさえ単に堕落と呼んで詩化するだけの日常的余裕を、ここでの生活で彼は取り戻していたのである。

 今や彼の視界に映る氷の世界からは、人を殺しうる鋭利さはとけて失われた。それはまさに、戦士の死ばかりではなく、詩人の死をも意味していた。今彼の目に氷塊は、碌碌ろくろくとして重なるばかりの瓦礫に過ぎず、白い海原の彼方、その弓形ゆみなりのあるらしいあたりには、凍てる空気に絶え間なく打ちのめされた末の想像力の挫折のみが横たわっていた。そのようにして、世界の不可解は不可解のままに、微温ぬるまな生活の下に仕舞われてしまった。

 卑劣さはしぶとく、高潔さは損なわれやすい。

 彼にとっては、彼の苦悩のみが、その高潔さの証であったろうに。


 その日は彼は何もせずに、そのままシェルターへ帰った。まるで細君のもとへ帰るように。

 ここ数日、心なしかハルシオンの顔色が赤みを差しはじめていた。体温も上がってきているようだった。彼は彼女の目覚めの近いのを確信した。

 彼は未だ見ぬ彼女の瞳の色を想像した。遠く南のアドリア海の碧い朗らかな広がりを、その潤んだ球の中に固く閉ざしたベネチアガラスのような瞳を。彼にはそれを見るのが恐ろしかった。

 彼は長い間逡巡した。猶予はない。もう一度だけ、そう心に誓うと、彼は彼女の静脈に仮死剤を注射した。彼女の顔からはやにわに血の気が引いていき、再び雪のようなその色を示した。

 彼は一息つこうと、逃げるようにシェルターの外へ出て、かつての夫婦の寝室に上がった。そのときだった。彼は不審な物音に気が付いて、寝台の影に身を潜めて様子をうかがった。

 話し声が聞こえてくる。物音の正体は自国の兵士だった。複数人いる。しかも彼と同じ逃避者らしいことが会話の内容から伺われた。

 シェルターへの階段は露わになったままだ。彼はそっと寝台の陰から出ると、音をたてぬように慎重に上げ蓋を閉め、それから絨毯を戻そうとした。

「誰だ」

 彼は見つかり銃を向けられた。

 彼は両手を挙げながら、努めて平静を装い、こたえた。

「町の人間だ。ここは既に荒らされている。何も残っていない」

「嘘をつくな。なまりが違う」

 声に気が付いた他二人の兵士も集まってきた。その内のひとりが絨毯の異変に気が付いて床を調べはじめた。

 そして、上げ蓋の取っ手に気が付き、それに手をかけた。

「やめろっ」

 青年は夢中になって兵士たちに飛びかかった。

 しかしすぐにいなされ、五発撃たれた。

 うち二発を腹部と大腿部に被弾した。

 激痛で意識朦朧とする中で、彼は兵士のひとりが地下へ降りていくのを見た。


 それでも彼は生きたいと思った。


〈了〉

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ソムニウム・アド・レヴァニア 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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