私の叫びを聞け

間川 レイ

第1話

 クリスマス、か。内心舌打ちをしつつ夜空を見上げる。夜空はどんより曇った私の内心とは裏腹に、忌々しいぐらい透き通っていて。今度こそ声に出して舌打ちをする仕事帰り。


 職場から駅の間にある商店街は今日がクリスマスイブということも相まって、すっかりクリスマスモード一色だ。「We wish a merry Christmas.We wish a merry Christmas 」なんて、毎年恒例のクリスマスソングが古びたスピーカーから流されている。


 日曜日とクリスマスイブが重なったこともあってか、今日は随分と人が多い。普段はそこまで人の多くない商店街にも関わらず、今日は気を抜けばすれ違う人とぶつかりそうなぐらい混んでいて。つい先ほどもぶつかりそうになった、大学生のカップルと思しきペアに軽く会釈して身を交わした。それぐらい人が多い。


 それにしてもと、私は内心ため息を吐く。どこもかしこもカップルばかりだ。普段はさほど気にならないけれど、こうカップルばかりがわらわらと繁殖していると、流石に面倒臭い。カップルを見ていると、どうしてお前は一人なのだと問い詰められている気がして、気が滅入ってくる。ちょうど、実家に帰るたびに彼氏はできた?結婚は出来そうなの?と尋ねてくる両親のように。ああ、ウザったい。


 結婚。それを私はしたくなかった。だって、私は家族というのを持ちたくなかったから。家族とは私にとって束縛の代名詞だ。


 私の両親は、幼い頃から教育熱心だった。物心ついた頃にはテニスにバイオリン、書道に公文、お茶のお稽古と、数多くの習い事をしていた記憶がある。そのいずれもが親の提案によるものだった。「テニスは一生プレイできるスポーツだから今のうちに初めておいた方がいいよ」「バイオリン、弾けたらカッコよくない?」そんな言葉で私を釣って。嫌だと言えば「やる前からそんな否定的な事を言って」と露骨に不機嫌になるものだから、私は偽りの笑顔を浮かべて「やりたい!」と答えざるを得なかった。


 それでいて、やるからには完璧を求められた。テニスの試合で負ければ、「練習、サボってたもんね」と皮肉を言われる。バイオリンの発表会で失敗すれば、「やる気がないならやめれば?」と嫌味をいう。なのに本当にもう辞めようとすれば「高い月謝を払っていたのに」「こんなに早く辞めるなんて本当に根性がない」なんて怒鳴り散らして。酷い時には私をぶった。私が涙ながらにやっぱり続けたいと言い出すまで、一切口を聞かないなんてざらだった。


 しかも。そうやって習い事だらけの毎日だったのに、成績には厳しかった。「何でこんな簡単な問題も解けないかな」が両親の口癖だった。両親からみて、私はあまりに惰弱のようだった。毎日の習い事に疲れ果て、帰宅後直ぐに布団に潜り込もうものなら「何をサボっている」と怒鳴り散らされた。いかに両親が子供の頃学業を頑張ったか説教された。


 そして、テストの成績が悪かった日には最悪だ。「こんな問題もできないなんて、本当に出来が悪いな」と罵られた。一日中口を聞いてくれなくなるなんてざらだった。口を聞いてくれないなんて可愛いもので、私が大きくなるにつれ指導には暴力が伴うようになった。返ってきた成績表を見るなり「この気違いが!」と私の頭を何度もダイニングテーブルに叩きつけた父の姿をよく覚えている。


 私の家とは、そんな家だった。それは私が大きくなってからも変わらなかった。指導に従い私立の中学に入り、高校に上がっても変わらなかった。強いていうなら、指導の度合いがエスカレートしたぐらい。下着姿でベランダに追い出されたり。冗談みたいな勢いで殴られたり。


 それが嫌で、大学は一人暮らしできるところを選んだ。親を見捨てるのか、地元を捨てる気かと大揉めに揉めたけれど、何とか親元を離れることができた。それでも制約は続いたけれど。仕送りが極端に少なかったり、学費を出す引き換えに祖父の遺産の相続放棄を約束させられたり。何でも「若くして大金を手に入れるのはあなたの為にならない」からだとか。殴られたり怒鳴られたりしたくなかった私はそれに従うしかなかった。


 そんな家が、私の家だった。家族になんて、夢を持てるわけがなかった。折角一人でお金を稼いで一人で生きていけるようになったのに、また縛られるのは真っ平ごめんだった。折角獲得した自由の味。それを失うのは絶対に嫌だった。


 なのにクリスマスはあるべき姿と言わんかばかりにカップルや家族連れの姿が増殖する。それも、誰も彼もが馬鹿みたいに楽しそうな、幸せそうな顔をして。そういう笑顔を見ていると、無性に責め立てられているような気分になる。どうしてお前は家族を持とうとしない、パートナーを持とうとしない。家族を持てば、パートナーを持てばこんなにも幸せなのに。そう語りかけられている気分になる。


 それはきっと、目につく「クリスマスは大切な人と共に」「奥さんにケーキは買いましたか?」という商店街のポスターやチラシの影響もあるのかもしれない。クリスマスは家族と過ごすもの。大切なひとと過ごすもの。そんな価値観が透けて見えるポスター達。そして、そうしたポスターを貼っても良いとする無頓着さ。そこにはクリスマスを家族と過ごしたくない人への配慮は見られない。これほど差別に敏感になれと、少数派への配慮が謳われる時代においてすら。それはきっと、家族とは尊いもの。パートナーと一緒にいるのは幸せに違いないという固定観念が、古い常識として幅をきかせているからだ。


 そんなわけないのに。そんなわけあるわけないのに。家族は尊いものという人は家族の痛みを知らない。パートナーは素晴らしいものという人は、パートナーをもつことの苦しみを知らない。この社会には、想像力が欠けている。自分と異なるスタンスの人を、視界に収めることができない。家族を持つことは幸せか。パートナーと一緒にいることは幸せか。所与の常識を疑うことができないのだ。


 こんな世界、糞食らえだ。糞食らえ。私としてはそう思わざるを得ない。だって、私みたいに、他人を愛せない人間だっているのに、と。


 私は他人を愛せない。愛という感情がわからない。LikeはあってもLoveがない。愛という意味で人を好きになれないのだ。愛という感情が私には理解できない。


 試みに他人と付き合ってみたこともある。それで愛という感情を学べないかと思って。駄目だった。まるで意味はなかった。ぬめりとした汗にしめる手のひらの感覚。私を抱きしめ早くなる他人の鼓動。何もかもが気持ちが悪かった。そもそも他人の温度を感じるのが気持ちが悪かった。私に欲情するな私を好きになるな私を愛するな。他人から向けられる湿度を帯びた感情が気持ち悪かった。


 私は人間に向いていないのかもしれないと思ったこともある。もはや、人里離れて一人寂しく過ごすしかないのでは、と。だけど違うのだ。私は他人が嫌いと言うわけではない。むしろ好きだ。友達と一緒にいるのは楽しい。友達と一緒にいるのは好きだ。でもだからと言って友達を愛せるかと言えば話は別だ。私は友達を愛せない。友達に愛されたくない。他人を愛したくないし、愛されたくもない。他人を愛するという脳内の回路が焼き切れているのかもしれない、なんてすら思う。そんな人間が私なのだ。


 この世界にはメッセージが溢れすぎている。家族は大事なものです、大切にしましょう。恋人を持つことは素晴らしいことです、恋人を持ちましょう。ニュース、アプリ、ドラマ、sns。そうしたメッセージは至る所で撒き散らされる。あたかも常識ですと言う顔をして私達の隣に座り込んでいる。そうした常識はクリスマスという形を借りて襲ってくる。クリスマスです、家族と過ごしましょう。クリスマスです、恋人と楽しみましょう。様々な媒体を借りてやってくる。私達はそうしたメッセージに押しつぶされる。悲鳴を上げる暇さえなく、バキバキと。


 だから私は彼らに代わって悲鳴をあげたかった。喉よ裂けよと叫びたかった。


 だけど私にはその勇気がなくて。私は雑踏の中で小さく小さく呟くことしかできない。誰にも届かずどこにも届かないような声で呟くことしかできないのだ。助けてと。


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私の叫びを聞け 間川 レイ @tsuyomasu0418

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