【短編】魔王城の手前で進めなくなってしまった勇者の話
葦原 聖
魔王城の手前で進めなくなってしまった勇者の話
——勇者、それは人類の希望の象徴であり、やがて魔王を討滅する存在。そんな彼の存在によって人類は有史以来初とも言える攻勢を仕掛けているのだった。
勇者の現出から一年、一行はついに魔界四大将軍を半壊させ、その足を魔王城を目前とするところまで運んでいたのだった。
「——みんな、勇者のやつがいたぞ!!」
「やっべ、見つかったか。……お菓子ありがとな、めちゃくちゃおいしかったよ」
勇者はそう一言零すと最後に眼前の幼女の頭を一撫でし、その場で跳躍する。人並外れた身体能力は悠々と彼の体を屋根上まで跳ね上げた。高くなった視点からは先ほど荒々しい声を上げた男性の姿がよく見えた。周囲に群がる同じような強面の集団が一塊となって目撃情報を頼りに勇者の元へと進行しているようだった。
「さて、またおやっさんたちに見つかってもみくちゃにされる前に色々と町を周るとしますか」
経験則からそうなることを痛いほど理解している勇者はそう一人頷くと、そのまま屋根を伝っていく。向かう先は町の中心から外れた方向だ。何度か屋根をぴょんぴょんと跳ねていたかと思うと、木造の建物へと目掛けて飛び降りた。
その建物はいわゆる工房であり、周囲に乱雑に積み上げられた数々の未完成品から推し量るに、どうやら家具を主に取り扱っているようだった。
その工房は街の中枢部分から少し離れた場所にあるためか、周囲には住人はいないようで勇者もそれを理解しているため先ほどまでとは違って堂々と玄関を潜った。
「おーい、爺さん生きてる?」
「——また来たかクソガキ。勇者ってのはそんなに暇なやつなのか?」
勇者の失礼な掛け声に応えるように悪態を吐きながら奥から姿を現したのは顔中に木くずをまぶしたような風貌をした老人だった。
「勇者が暇なのはいいことじゃんか。それだけ平和ってことだよ——それよりも、また工房に籠って作業してたのかい? アンリちゃんが心配してたよ」
もう何度目かも分からない伝言を伝える。先ほどお菓子と共に預けられた言葉だった。
「ふん、職人が工房で作業することの何が悪い。儂は生涯現役を良しとしておるのだ」
「前俺が来た時倒れてた癖してよく言うぜ。まあでも、無理やり連れてこうとするとてこでも動かんようになるからな爺さんは。だからこうして俺が見張りを頼まれてるって訳」
「余計なお世話じゃ。……手伝うならはよせい」
もう一度鼻を鳴らして職人は奥へと戻っていく。初めに会った頃には体ほどもある大槌で追いかけまわされたのだから、それと比べれば対応も柔らかくなった方なのだろう。
勇者はそれから陽が頭頂へと昇るまで職人の下で色々と手伝いをして最後に「己のやるべきこと——芯を曲げてはならんよ」と独り言じみた台詞を背に工房を後にしたのだった。
「いてて、遠慮なくこき使われたな……。まあ、今日の分の仕事は全部終わらせてきたしこれで爺さんも無理はしないだろ。——さて」
一仕事終え、気持ちの良い倦怠感を抱きながら勇者は次の目的地へと急ぐ。と言ってもこれと言った場所がある訳ではなく、困っていそうな人を探しに向かう、と表現した方が正しい。
実際、そうした出来事は日々起こっている。町の住民は皆いい人ばかりであるため、最初のころは勇者に頼ることを躊躇していたのだが、無理やり頼み込む形で始めたのがこの慈善事業だった。
「……学校も教会も行った方がいいんだろうけど、気乗りがなぁ——ん?」
近頃癖になりつつある独り言を零しつつ屋根を跳び回っていたいたところ、配送屋が大量の荷物に四苦八苦している姿を見て取った。一度に倍ほどの嵩の荷物を運ぶ彼女は、今にも倒れてしまいそうであり、それを察知した瞬間、勇者は足場の屋根に出来うる限りの配慮をしつつ弾丸のようにその場を飛び出した。
「あわわわわ……あれ、痛くない?」
「——まったく、荷物の個数には気を付けてくださいっていつも言ってるじゃないですか」
「あ、勇者くん。あはは、また助けられちゃったみたい……?」
配送屋はずり落ちそうになっていた丸眼鏡を戻した後、照れ隠しをするようにわしゃわしゃと髪に手櫛を掛けてはにかんだ。
とそこでようやく今まで塞がっていたはずの両手が自由になっていることに気が付いて一瞬慌てた様子を見せたものの、勇者の両手に完璧なバランスで積み上がった荷物を見てほっと胸を撫で下ろす。
「おっちょこちょいなのは相変わらずですね。それでよく配送屋なんて続けられてますね」
「あはは、勇者くんこそあたしなんかに相変わらずそうやって敬語を使ってくれるんだねぇ。ここの人はちょっとくらいのことなら怒ってくれないから、あたしでもなんとか出来てるんだよ!」
「まあ人の向き不向きというのはやりたいことの方向とは違うこともままありますからね……」
へにゃんと笑う配送屋の様子に勇者は呆れたようにそう零した。その言葉に配送屋も「分かってるね勇者くんも」と言いたげな表情でうんうんと頷いて応える。
「とりあえず荷物を運ぶのを手伝いますよ。この分で全部……なこともないですよね」
「もちろん! 一昨日とか昨日とか届けられなかった分がまだまだ家に大量に残ってるからね!」
「そんな自信満々に言うことじゃないですよ。とりあえず手分けして配送しましょうか」
よろしくお願いしますとばかりに深々とお辞儀をする配送屋。その太く結われた三つ編みが長く頭の横に垂れる光景を何度見たことだろうか。なんというか、先輩であるはずの彼女だが後輩が出来ればこのような気持ちになるのだろうかと、学校に通うことがなかった勇者はそんな感傷を抱いた。
それから二時間ほどかけて大量の溜まった配送物を捌き、配送屋と別れを告げた。最後には彼女なりの恩返しなのか「失敗はやっぱり辛いけど立ち止まっていられないよね」なんてありがたい言葉を授かったのだった。
「この町で過ごしてもうどれくらい経つか分からないけど、今日はやけにみんな大変そうにしてるな。祭りか何かでもあったんだっけか」
陽気でいい人たちの多いこの町のことだ、何かと適当なことをでっちあげて祭りの日としていても何らおかしくはない。
「そういえば前の祭りは大変なことになったんだっけ。いやあ、あれは楽しかったなぁ」
在りし日の記憶に思いを馳せつつ、勇者は先ほど配送屋から教えられた役場に向かう。どうにも町の外に木材だのを取りに向かった人から救難信号があったらしかった。周囲に危険なものなんかはないはずなので、大方荷車を倒してしまったとかそういう理由なのだろう。
しかし、暇なのもいいのだろうが忙しいのも悪くはない。歳を重ねるにつれて悩みの種というものは次第に増えていく。それを富に感じている勇者にとって忙殺と言えるほどの毎日は充足感に溢れるものだった。
「さて——あれかな?」
そうこう思いを巡らせている内に件の現場が近付き、横転した荷車の横で途方に暮れている材木屋を目に収める。この辺り一帯で収集したであろう材木はなんとか集め直し出来たのだろうが、如何せんそれらを積み上げる荷物車はどうにも出来なかったようだった。
実際勇者が彼の下へと向かっている間にもなんとかしようと今一度荷車に肩を当て思い切り踏ん張っている姿が見受けられた。
「おい、あんまり無茶はするもんじゃないぞ。自分の方に傾いてきたらどうするつもりなんだ」
「————! なんだ、お前が来たのか。そういうことなら救難信号なんて出さなければ良かったかな?」
勇者の姿を見て取った材木屋がそう悪態を吐く。とは言っても親しい仲の者同士が交し合う軽口の叩き合いのようなものだ。
材木屋は始めこそそうした態度を見せたものの、困り切っていたのは事実なのかお手上げと言うように勇者に現状を説明する。
「ここ、いつも使ってる道なんだがまさかこんな溝があるだなんてな。気が付かないもんだ」
そんな中ふと材木屋がそう零した。その言葉の通り荷車の車輪の近くには確かに小さな溝があった。不運なことにそこに上手くはまってしまっての横転だったのだろう。
「すまんが、そっちの荷車は任せてもいいか? 私はこっちの無事な方を町まで届けなきゃならん」
「そんなの安いもんだよ。でもなんというか、今のあんたはずいぶん生き生きとしてるように見えるな」
「ははは。お礼は今度改めて送らせてもらうよ」
「あぁ、そういうことなら職人の爺さんにいい材木を卸してやってくれ」
勇者の言葉に背中越しに片腕を上げて応える材木屋。ほどなくしてその姿も小さくなり、やがて見えなくなった。それを見送ってから勇者も自身のやるべきことを思い出したように荷車へと手を掛ける。あの町にいる材木屋は彼が一人だけだ。この大きさの荷車を二つも運用しているところを見ると、彼もかなり苦労しているようだった。
「——よっと」
掛け声を一つ、勇者は一息に荷車を起こす。ガシャアンと大仰な音を立てて元の状態に戻った荷車に、材木屋が集め直したであろう数々の材木を積み上げていく。
しかしそうしていく中で材木屋は経験から見事に積んでいたのだろうが、それらが欠けている勇者には上手く全てを荷車に乗せることは不可能だと判断し、幾つかを諦める必要が出てきてしまった。
どうしたものかと頭を掻く勇者だったがどうにもうまくいくビジョンが見えない。こういうことならば材木屋に積み込むコツでも聞いておくべきだったと嘆くも後の祭りだ。
「……事後承諾にはなるけど、材木屋には後から俺がもう一度運び直すということで納得してもらうか」
そう結論付けて勇者は積めるだけ積んだ荷車を町の方面へと押し進める。思いの外時間がかかってしまったために、辺りは既に茜色に染まってしまっていた。
荷車ごと担いで行けるならばそれが一番速かったのだろうが、横転した影響か車体にガタがきていたため想定されていないような力を加えることが戸惑われたのだ。
「職人の爺さんのところに通ってるおかげかその場しのぎの修理は出来たけど、正直いつ分解してもおかしくないからなぁ。明日辺りにでも材木屋と一緒に爺さんのところにでも行ってやらないと」
荷車を振り返りながら勇者は心配げにそう言った。町まではちょうど一山超えるくらいの距離だ、それくらいは持ってくれると信じたいところだ。だがそちらに気を取られ過ぎていたせいか、勇者がその異変に気が付いたのはそれからしばらくしてのことだった。
「雲に纏わりついた粘つくような漆黒の——瘴気!? なんであれがここにあるんだッ……ここに魔王軍はこれないはず!」
これまでの旅路で嫌になるほど目にしてきたもの。破壊と凌辱の象徴がそこには広がっていた。そしてその真下には——勇者が身を寄せていた町があった。
気が付けば勇者は荷車をかなぐり捨ててその場から飛び出していた。なりふり構わずその能力を存分に引き出した勇者は僅かな時間の内に山を越え、町を目視出来るところまで辿り着く。
そして改めて、勇者は現実に叩きのめされるのだった。
「こ、れは……町の、みんなは——?」
至るところから火災と破壊の音が鳴り響いていた。地獄、そう勇者がこれまで見てきた、そして今まで眼を逸らしてきた悪夢が無情なまでに視界を占領していた。
ギリッ、と勇者は知らず奥歯を食い破る勢いで噛み締める。腹の底から湧き上がったドロドロとした憤怒はそのままこの惨状を引き起こした対象へと向けられる。
「魔王、軍ンッ——!!」
まず手始めに勇者の怒りのはけ口となったのは町の入り口に屯していた数体の魔族だった。接近と同時に勇者は町にいる間でも決して腰から外すことのなかった剣を解放する。
その瞬間、数筋の閃光が空を走った。およそ出所すら判別出来ないであろう剣閃の嵐が、横を通り過ぎることでようやく勇者の存在を認知し始める魔族たちを淡々と卸していく。
勇者が走りざまに剣を抜いてちょうど一秒後、勇者は手癖で腕を振るう。血で濡れることすらなかった勇者の剣が鋭い音を立てて空を切り裂いた。同時に勇者の背後で思い出したかのように魔族たちの体が崩れていく。
そのことに何の感情も抱くことなく、勇者は町へと急ぐ。だが、勇者を待っていたのは更なる地獄の幕開けだった。
「——あ、あぁ」
思わず、勇者の口から悲哀の呻きが漏れる。崩れそうになる膝を、勇者は気力を振り絞って押し留めた。
震える足で一歩ずつ町の中枢へと進んでいく。
——無残なまでに破壊され尽くした詰所が目に入った。暇だとぼやく衛兵二人と何度か酒を酌み交わした場所だ。
あざ笑うように勇者を囲んでいた魔王軍を無感動に処理していく。
開けた視界。そこにはまた新たな絶望が待ち受けていた。
——枠だけとなった玄関からぐちゃぐちゃに引き潰された配送物が顔を覗かせている。
「……めろ」
瓦礫の中から次から次へと配送物を取り出し、丁寧に磨り潰して悦に浸っていた魔族たちを同じように怪力で磨り潰していく。
そして再び前へ。もはや歩いているのか、走っているのかすら定かでは無くなっていた。
「やめて、くれ——!」
眼前の地獄を受け入れられず、駄々をこねる童のように嫌々と頭を振る勇者。その姿を見て誰が彼を英雄と認めることが出来るだろうか。
「——そうは、思わない? 勇者さん」
「お、前は……」
勇者の思考を引き継ぐように背後から掛けられたその言葉に反射的に横を見る勇者。瓦礫の山と化した平和の象徴——この町唯一の学校の上で一人の少女が薄い笑みを浮かべながら勇者を見下ろしていた。
「
「……そいつらとは、全員と戦った。半分は俺が斬った。お前は、知らない」
「確かに是も勇者さんを知らなかった。だから斬ったのは是が適当に仕立てた身代わりなんだろうね」
淡々とした語り口調が、この場にそぐわないその態度がスコレーと名乗った少女の特異性を際立てていた。
勇者は先ほどまでの醜態が嘘であったかのようにスコレーと相対する。それを見たスコレーは面白がるようにくすりと笑みを深めたかと思うと瓦礫の山から立ち上がり、勇者の目の前へと飛び降りた。
「あ、言っておくけど是を切っても——」
スコレーの言葉が終わる前に勇者の右腕が閃いていた。次の瞬間には文字通り
それだけの絶技を披露してなお、勇者の額には汗が滲んでいた。
「——手応えが、無さすぎる」
これまで数々の命に手を掛けてきた勇者にはそれが十二分に理解出来た。その勇者の感覚を肯定するかのように、塵となって吹き飛んだはずのスコレーの身体が勇者の目の前で再構成される。それはさながら霞に絵を描いたようであり、先ほどの勇者の斬撃が効果を成していないという証左でもあった。
「最後まで言い終わる前に手が出るなんて、せっかちだね勇者さん。他人の話には耳を傾けるものだそうだよ?」
「生憎、こんな状況で怪しげな敵と談笑出来るほど俺は精神が壊れちゃいないんでな」
「どうだろうね?」
例えどのような状況に在ろうとも不敵な笑みを絶やすことがない勇者。それはこれまでの経験から彼が獲得した対魔王軍における基本戦術であり、自らを鼓舞する心構えでもあった。
だが、さしもの勇者も剣が通じない相手と戦闘した経験は皆無だった。勇者の強さはそのアウトプット力にこそある。これまでのあらゆる経験を糧とし、その中から最適の行動を選択することが出来る特技であり、修練の末に彼が獲得した後天的な特性であった。
だが、勇者のソレをもってなおスコレーは捉えどころがなかった。正しく霞のような存在。悪戯に攻めても勇者の体力が減るだけであることは明白だった。
「うん、しっかりしている。殺しが選択肢にある人の眼だね? ああ、別に責めているとかそういう訳じゃないからそんなに怒らないで。仕方のないことだと思っているし」
勇者がスコレーを観察しているように、彼女もまた勇者のことを観察しているのだろう。彼女から降り注ぐ独特の視線がそれを感じさせた。
あくまで敵として対応している勇者に対し、スコレーはまるで興味深い知人と向き合っているような気軽さだ。このような状況を
「……お前からは他の魔王軍の連中とは違って、敵意を感じない。だったらお前は何をしに現れたんだ?」
そんなスコレーに対し、勇者はその目的を問う。それと同時に勇者は内心自嘲する。無為な問いかけだ、今までは頭にすら思い浮かばなかった選択肢。ただ今は少しでも情報を引き出したい、その一心でのことだった。
「——知りたいの」
「は……?」
「ふふ、勇者さんは自分のことを知りたいと、そう思ったことはある?」
その言葉に、勇者の脳裏には在りし日の思い出が蘇る。まだ勇者として旅を始めたばかりの頃の記憶だ。
——何故自分が勇者として選ばれたのだろう。その頃はそんな疑問ばかりが頭を占めていた。
何故自分が、自分の何が——そんな自問自答を昼夜繰り返していた。
「覚えあり、と言ったところかな? うん、自然だよね。誰だって自分が何者で、何をすべきかを心のどこかで知りたがっている。それは誰に教わるでもなく備わっている性質だよ。何も恥じることはない」
話の着地点が見えず訝しがる勇者に対し、スコレーは言葉を止めて両手を広げた。それはまるで恋人からの抱擁を待つ仕草のようであり、事実彼女はそこから何もない空中を抱き留める。
「でも是は自分だけじゃなく、相手も知りたい。それも狂おしいほどに。君は何者で、どう感じて、その奥底にはどんな根源が眠っているのか、是はそれが、気になって仕方がない」
——勇者はこれまでの戦場において、さまざまな感情と向き合ってきた。それはもちろん味方のものはそうだが、ダイレクトに受ける分相対する敵のものの方が強く印象に残っている。
そんな中でも、魔王軍に狂信を捧げている者たちはいた。自身の命を顧みず、ただひたすらに殺戮を繰り返していた異常者たちだ。強い嫌悪感と同時に恐怖を強く刻みつけられた。
勇者にとってソレは理解の出来ない、暗い感情だった。だが、眼前の少女が前身から放つ【狂気】のほどはどうだ。その時のものと同質のようであり、しかし異質でもある、身の毛がよだつような剝き出しの感情だった。
「——っ!!」
思わず後ずさりをする勇者。一瞬の内に眼前の少女が得体のしれない化け物に変性してしまったようなそんな感覚を覚える。否、そう思考したところで勇者は自身の違和感に気が付いた。
「なんで、俺は魔王軍とこんな会話を……? まさか——!?」
如何に現状手の打ちようがなかった相手だとは言え、ここまで悠長に敵と会話を交わしているという事実。そしてそれをまるっきり疑問を抱くことなく行っていた。
最初から怪しむべきだった。なぜ魔界四大将軍と名乗る者が武装も戦闘態勢にも入らずに勇者の前に現れたのか。スコレーからは敵意を感じることがなかった。それは戦闘行為をしようとしていないという訳では決してなく、既に勇者が敵の手中にあるからという極めて単純な理由であったのなら。
「幻術、それに類する魔法か……!」
「ふふ、是の
ケラケラと無邪気に笑いながらこてんと首を傾げるスコレー。それに対し、勇者は敢えて返答を行うことはなかった。
「ありゃ、嫌われちゃったかな? でも一方的に喋っちゃうよ。今がどういう状況なのか、不思議でしょ? そんなに難しいことじゃないよ。さっきも言った通り、ここは是の幻魔領域の中。ここの中は全て是の思い通り」
そう言うとスコレーはその細い右腕を持ち上げ、さっと横に軽く一振りをした。たったそれだけの動作で、スコレーの背後で瓦礫となっていた学校が次の瞬間には元通りの姿を取り戻していた。それはすなわち勇者が認識しているこの空間が彼女の手によって形作られたものであるということを示唆しており、
「この魔王軍の襲撃も、お前が見せる幻覚に過ぎないってことか?」
勇者の心に一筋の希望を降らせることとなる。
「強がっても無駄だよ。この悪夢は勇者さんのトラウマから作り出したものなんだよ? これがどれくらい勇者さんの心に深い傷を残しているのか、是だけがよく分かっている。今もこうして強がっているだけで精一杯なんだよね?」
状況を楽しむようにスコレーは笑う。勇者のトラウマをピンポイントに抉ったところを見ると、もはや勇者の心身の状態は筒抜けであると考えるべきなのだろう。勇者は額に汗が滲むのを自覚した。
「今までもたくさんの人を【知って】きたんだけど、でもやっぱりどこか退屈しちゃうんだよ。でもね? そんな時に勇者さんが現れたの。勇者さんの活躍を聞く度に、ああ、この人はどんな感情を飼っているんだろう、その奥にはどんな本性が眠っているんだろう、って気になって仕方がなかった。これはもう君たちで言うところの【恋】という感情だよね?」
虫唾が走る。いや、それは嫌悪感を抱いたときに用いる表現だ。確かにそうした感情が湧き上がったのは嘘ではないが、それ以上に勇者の胸中を占めたのは【恐怖】だった。理解出来ない対象と遭遇した時に感じる、あの言い知れぬ不快感だ。
「さて、是もただ暇つぶしに勇者さんと話しているだけじゃないからね。こうして会話という方法を取ったのは、その方が今みたいに勇者さんの感情を揺さぶれると思ったから。それもうまい具合に熟成されたみたいだし、ここから本当の地獄の始まりだよ」
「それは、楽しみだな」
あくまで虚勢を張る勇者とそれを理解して愉悦の表情を浮かべるスコレー。誰がどう見てもこの戦いの趨勢は一目瞭然だった。
スコレーが笑みを深め、今度はその手に武器を顕現させる。それは魔界四大将軍の【武】を頂いていた男の獲物だ。その矮躯のどこにそんな力があるのか不思議に思えるほどの巨斧を振り回し、スコレーが勇者へと肉薄する。
先ほどまでとは異なり、明らかに武人の気配を纏ったスコレーの踏み込みはまさに電のようであり、まさしく【武】の魔界四大将軍を思い起こさせるものだった。
「——くっ!!」
不意を突かれた勇者はなんとか右手の剣を間に割り込ませるも、衝撃の勢いを殺し切ることが出来ずそのまま吹き飛ばされる。そのまま猛追の姿勢を見せるスコレーに対し、勇者はなんとか空中で姿勢を正し対応する。勇者がなんとか彼女の動きについていけているのは、三日三晩の激闘の果てに辛勝を捥ぎ取った経験があったからこそだ。
その妙な手応えをスコレーも感じたのだろう、彼女は一度距離を取ると巨斧を消し、今度は豪奢な杖を取り出す。その特性から杖術も相応に扱えるに違いないが、今回彼女の狙いはそこにはない。その意匠を認めた瞬間勇者にはそれが分かった。
「——光あれ」
瞬間、閃光が走る。一瞬の閃きで無理やり体を捩じった勇者の左右を焼き、地に痛々しい爪痕を残して発生した光は消え去った。
「まさか、他の四大将軍全ての技を使えるだなんて冗談は言わないよな」
「ここでは是がルールだからね。一番近くであの子たちを見ていたっていうのもあるけれど」
そう言ってどこか自慢げに唇を吊り上げるスコレー。そのまま間髪入れずに数度同じように呪文を唱える。警戒していた勇者は軌道を見切り、剣で弾き、また超人的な身体力で躱していった。
「うーん、やっぱり負けた子たちの技術じゃどうがんばっても勇者さんには決定打にはならなそう。やっぱりこっちで攻めるのが良さそうだね」
何度かそれを繰り返し、飽きを感じたのかスコレーはそうぽつりと零して再び杖を消す。そして無手になった彼女は最初と同じように周囲に向かって腕を振るった。
その動きに連動するように、スコレーの周囲から人影が湧き上がる。
「——みんな!?」
スコレーの周囲に現れたのは勇者にとっては見知った面々——町で多くの時間を過ごしていた者たちだった。そんな彼らが今は人形のように無表情に勇者を無機質な瞳で眺めていた。
スコレーの言葉の通りであるならば、彼らは本人ではなく彼女が作り出した幻影のような存在なのだろう。今思えば、違和感がそこかしこに存在していた。職人にしろ、配送屋にしろ、材木屋にしろ勇者が記憶していた彼らの姿は別のものだったのだ。
スコレーの力でそうした認識までもが操作されていたのだろう。どこまでも外道の所業だった。
「さあ、勇者さん。君が大事にしていた人形たちで遊びなさい」
その言葉を合図にしたかのように町の住民たちが一斉に勇者へと躍りかかる。
「くっ——!? やめてくれ、俺はっ……!」
襲い掛かってくる住人たちに、勇者の意思はどうあれ体は最適な対応を繰り出す。しかし、その剣が彼らの体を二つに割くその手前で勇者の脳裏には彼らと共に過ごした思い出が蘇り、手が止まってしまう。その硬直は明確な隙となり、勇者は職人に思い切り蹴飛ばされてしまう。
痛みに呻く勇者を介することなくスコレーが生み出した影たちは追撃を行う。そこには彼らの意思など一つも宿ってはいない。宿ってはいないのだが、それでも彼らの一撃を受けるたびに勇者にはそれが彼らからの非難が込められているように感じてしまうのだ。
『なぜ、なぜ孫娘を、儂たちを救ってくれなかった——!!』
「俺、は……!」
その老躯から繰り出される斧の一撃が勇者の体と心に傷を付ける。なんとか勇者はその攻撃の隙間を狙い、斧を切り飛ばす。
だが、その後ろから配送屋が肉薄してきた。
『あたしを見捨てて、生き残った癖に勇者くんはその先もたくさん犠牲を出し続けて——勇者って何?』
「俺は、それでも、みんなを助けたくて——」
『私はお前に託したはずだ。託したはず、だったんだがな』
人形はあくまで無表情だ、だが勇者には配送屋には憤怒が、そして材木屋には失望が張り付いて見えていた。
勇者には分かっている。これもまた、スコレーによる心理的な攻撃であるのだと。しかし、しかしだ。彼らの慟哭は勇者が甘んじて受けるべきものであると、勇者自身がそう考えているのは事実なのだ。
住人たちの奥で、スコレーが愉悦に唇を歪ませているのを見て取り、勇者は奥歯が砕け散ってしまいそうなほどに歯噛みした。
「うふふ、いい表情だよ勇者さん。言っておくけれど、これは幻であって幻ではないからね。勇者さんの記憶をもとに作られた真に迫る偽物と言ったところかな。当人たちの性格や行動なんかをほぼほぼ正確にトレースしている」
そんな勇者に止めを刺すかのようにスコレーはそう告げた。
——あぁ。勇者はその言葉が耳朶を打った瞬間、知らず嘆息していた。
これは彼らの恨みの声なのだ。勇者として生きてきて、それでも自身の力不足で救うことの出来なかった者たち、その怨嗟が勇者を断罪しようとしているのならば、それは正しいことなのではないか。
勇者の心に墨を垂らしたかのごとく諦念が広がっていく。
一体いつからだろうか、自分の行いを一片の曇りなく誇ることが出来なくなったのは。勇者の脳裏をかつての記憶が流れていく。それが走馬灯と言える現象であるのだと、勇者はどこか冷静に俯瞰した。
それを見て取った人形たちが一斉に勇者の下へと押し寄せる。そのまま勇者は組み伏せられる。先ほどまでとは異なり、抵抗しようという気は一切湧いてこなかった。
「頃合いだね。ねえ、勇者さん。どうして是がこんなに回りくどいことをしたんだと思う?」
完全に動きを止め、俯いた勇者を見てスコレーは人形たちの動きを止める。勇者に問いかけをしているが、その答えを元々期待していないのだろう、勇者が反応を返す前にスコレーは言葉を繋げる。
「いつもはね、やっぱりどうしても飽きちゃうんだよ。他人の中身を見ても誰しもみんな退屈な【感情】とかばっかり。でも、勇者さんのは違った。まだ表面ばかりだけど、もっと中を見たいって初めてそう思ったんだよ? だからこうやって丁寧に、じっくり時間をかけて勇者さんの心を一層一層剥がして、今ようやくその扉が開いたの」
勇者の目の前までスコレーが歩み寄る。彼女の姿が視界に入っても勇者には特段反応が見受けられない。その目はもはや絶望に染まっており、活力と言うものが全て抜け落ちてしまったかのようだった。
「さぁ、勇者さん。君の全てを見せて——」
スコレーの両手が勇者の頬を優しく包み込む。そのまま顔を近付け、瞳を覗き込み、そして——。
*****
——闇。闇。闇。
一寸の先も見通せないような闇が広がっていた。先ほどまでスコレーと交戦していた場所とは似ても似つかぬその光景に、勇者は自身の死を自覚した。
「もう少し苦しむもんだと思っていたんだけどな」
それが声になっているのか、それとも自身が思念しただけなのか判別も付かなかったが、正直な気持ちだった。それと同時に、心にはやはり罪悪感が湧き上がってくる。
自分は出来得る限り苦しんで死ぬべきだ。それはいつのころからか、誰にも言うことなく心に秘めていた勇者なりの懺悔の気持ちだった。その思いは時を重ねるだけ密度を増していき、泥のように体に、そして心に絡みついていった。
その果てがスコレーとの交戦であり、そして今の勇者の状況だった。
「最後にみんなに会えただけ、良かったと言えば良かったのかな」
それがあのような形であったとは言え、それでも勇者にとっては一種の救いの場ではあったのだ。
『本当に、これで良かったの?』
その時、勇者しかいないはずの暗闇に、ノイズが混じる。
「だけど、俺にはもう、無理なんだ。多くの人たちを、俺は救うことが出来なかったんだよ。スコレーの見せたあれが、俺のやってきた結果なんだよ!」
誰にも吐露したことのない自身の闇を、勇者はつい吐き出してしまう。それはこの場所が自身以外を覆いつくす暗闇であり、また自分が死んだと思い込んでいるからこそ普段とは異なり弱音が漏れ出てくるのだった。
『————』
弱音と共に涙が零れていた。久しく流してこなかった感情の奔流。みんなの前では少しでも強くあろうと、勇者という名の仮面をかぶり続け、その果てに内側では既に壊れ切っていた男の姿がそこにはあった。
『——馬鹿だなぁ』
そんな時、唐突に勇者の思考にはそんな呆れたような罵倒が差し込まれる。予期せぬその言葉に感情の濁流に一瞬の空白が生まれる。だがそれもほんのひと時のことであり、すぐにそれは怒りとなって押し寄せる。
「ああ、そうだよ! 俺は馬鹿なんだよ! 才能があるわけでも、強かったわけでも決してない! なんでだ!? なんで俺が、俺なんかが勇者だったんだ!? ……間違いだった。乗せられて、調子に乗って、自分を過信した、馬鹿なガキだったんだよ」
何かも分からない存在に対して情けなく勇者は当たり散らす。もはや彼の中では自分が死んだのだという実感すら消えていた。ただただ突然目の前に現れ、もはやどうすることも出来ない勇者に語り掛ける謎の存在への憤りが胸中を占めていた。
しかしその感情は謎の存在を鏡とした自身への怒りに等しかった。
『それだけは違うよ。貴方は自分が思っているよりもずっとすごい人なんだから。ほら、一番初めに四大将軍と戦った時なんて他の人たちはみんな逃げてたのに、貴方だけは立ち向かっていたじゃない』
「あんなのっ! ……あんなの、ただのかっこつけなだけだ。本当は俺だって逃げたかった。でも逃げ遅れた人たちがいた。それを考えるとほんのちょっぴり、前に立てた。それだけだ、それに——」
『ふふふ、後ろには勝利の女神がいたもんね? それだけじゃなくて、アルトコ王国が魔王軍の侵攻に遭ってその救援に向かった時だってそう。貴方は誰よりも多く魔王軍を倒して、誰よりも多く国民を救って見せた』
あくまで否定の姿勢を見せる勇者に対し、その存在——いつからか光球となっていたそれは勇者を補強するようにして言葉を紡ぐ。
光球は先ほどとは別の出来事を例にして勇者の偉業を振り返る。しかし、勇者に言わせてみればあれも先ほどと同じだった。
四大将軍との交戦の時も、アルトコ王国での防衛戦の折りも、勇者は幾人もの命が眼前で失われていくのを経験していた。それらの時だけではない。勇者が勇者として戦う時、そのどんな時でもやはり少なくない犠牲が生じていた。
「——それは、それは全部俺がッ! 俺が、弱かったからなんだ……だから、俺は、お前も……」
『救えなかった? 気付いてたんだ、もう忘れちゃったのかと思ってた』
「忘れる訳、ないさ。あれだけ一緒に旅をしてきたんだから……」
地べたに這いつくばり、頭を抱えていた勇者がそこでようやく顔を上げる。光の球はいつしか人の形を取っていた。しかし変わらず勇者を取り巻く暗闇を、彼女は照らし続ける。おかげで情けなく濡れた勇者の表情が丸見えだった。
あんまりな光景にくすりと笑う少女は、そこで笑みを悪戯を思いついた子供のように変化させる。
『その割にはスコレーの幻の中では会いに来てくれなかったじゃん。……待ってたのに』
「うぐ、学校は元々苦手な場所なんだ。そこにいたのが、悪い」
『本当かな~?』
懐かしいやり取りだった。それはもう、人目が無ければ子供のように大声を上げて泣いてしまいそうなほどに。
だがそれは出来ない。なぜなら、勇者は自身以外の存在を認めてしまったから。それが誰であれ、勇者が勇者であるために他者の前では仮面を被る必要がある。
まずは立ち上がる。この暗闇で少女に照らされているとは言え、見えるはずもないのに膝を払う仕草をする。だが、今の勇者に出来る強がりはここまでだった。
『こてんぱんにやられてたね?』
そんな勇者の内面を見透かすように少女は勇者の顔を下から覗き込む。常ならば軽口の一つや二つでも返すところだが、それすらも出来ないほど一方的にやられたのと、相手が少女であるということで何も言い返すことが出来なかった。まさにぐうの音も出ないという状況だ。彼女はそれが分かっていてあえてこうして切り込んでくるのだ。
「でも、みんなの本音が知れたから、それはそうで良かったよ。最期もみんなからなら俺は納得できる」
『……本当にあれがわたしたちの本音だと思ってるの? あっきれた、女心が分からないだけじゃなくて、人の心すらも理解出来てないなんて』
「——? それは、どういう」
体全体で感情を表現する少女。ひどい言い草ではあったが、彼女から色々言われることには慣れていた。それよりも勇者の意識を引いたのは、その言葉の内容だった。
勇者が恨まれていないはずがないのだ。職人も、配送屋も、材木屋もそれぞれの言い分は勇者には痛いほど分かるのだ。勇者にはそれだけの能力があって然るべきであるし、それだけの責任を負ってこそなのだ。
『はぁ……スコレーの言葉をよく思い出してみて? あの子が言ってたのはあくまで貴方の記憶から作った幻影だよ? だから、あれには貴方の罪悪感が過分に反映されてるの』
「た、しかにスコレーはそう言っていたけど、だからってあれがあの人たちの本音じゃないって理由にはならないだろ! あいつらだけじゃない、お前だって……俺には言いたいことがあるはずなんだ」
『ふう、相変わらず頑固なんだから。そんなに言うなら自分で確認してみたら?』
処置無しと言うように頭を振る少女。戸惑う勇者に向けて少女はある方向を指で指す。その方向は少女がいた場所とは別の場所、未だに暗闇に覆われている一角だった。
「——ぁ」
思わず声が漏れる。喉が引き攣り、手足がすぅっと冷えていくのを感じた。
暗闇に浮かび上がったのは、先ほどまで交戦していた職人、配送屋、そして材木屋を始めとした街の住民たちだった。
その中から一人代表するかのように職人が一歩前に出る。後ずさりしそうになる足をなんとか押し戻しながら勇者は職人と相対した。
『——勇者よ』
感情の乗っていない声、勇者は無意識に目を瞑り体を強張らせた。だが、そんな勇者の様子とは裏腹に、職人は表情を緩め、柔らかい声音で言葉を続けるのだった。
『勇者よ、そう気負うことはない。儂らはお前さんには感謝しておるのだ』
「……は?」
勇者は耳を疑った。もう何が何だか分からなくなってきた勇者は職人とその背後の住民たち、そして少女へと交互に視線を送ることしか出来なかった。
だが、そんなことをしても勇者の混乱を優しく解いてくれる者はおらず、どこか生暖かい目を向ける者がほとんどだった。
「か、感謝だって? 爺さん、違うよ。爺さんは俺を張り倒すくらいの恨みがあるはずだろ。……間に合わなかった。間に合わなかったんだよ、俺は。爺さんも、家族のみんなも、俺が弱すぎるせいで間に合わなかった! 爺さんだけじゃない! 他のみんなも、全部俺自身の力不足で助けてあげられなかった! それが、感謝!? 恨みの間違いだろ!」
駄々をこねる子供のように嫌々と首を振りながら勇者はそう喚き散らした。
そんな勇者に対し、依然として職人は慈愛の表情を崩そうとはしない。それが勇者には何よりも辛いことだった。
『なあ、勇者よ。それはお主の悪癖じゃ。責任は重かろう、その体験も儂らには量り知れんものがあるんじゃろう。儂らには決してお主の気持ちが理解出来るなどとは口には出来ん。じゃがな、それは同時に、お主にも儂らの気持ちは分からんということでもあるのじゃ』
「——っ、でも」
『もちろん、恨みが全くないかと言えばそれは間違いなく嘘じゃ。せめて孫娘だけでも助かってくれればと思う気持ちはどうしても抱いてしまう。それがどれだけ不可能なことであっても、じゃ』
職人はまた一歩前へと進み出て、再び膝を屈してしまった勇者の前でしゃがみ込んだ。そのまま職人はぽんと優しく勇者の肩へと右手を乗せると、優しく擦る。それはまるで、ありがとうという感謝の気持ちを内面まで注ぎ込まれているかのようなそんな不思議な感覚だった。
絶えず流れる涙を自覚しながら、勇者はどうして、と声にもならない疑問を零す。
『じゃが、さっきも言った通りそれ以上に儂らは勇者に感謝しておるのだ。それはここにいる者のみのことでは決してないじゃろう。それら全ての感謝が、本当に虚であるとお主は思うのか?』
勇者の脳裏に、多くの人々の顔が思い起こされる。皆笑っていてくれていた。ありがとうと、そう勇者に伝えてくれていた。ちょうどここにいる住人たちと、同じ目で勇者を見守ってくれていたのだ。
——だが、その笑顔は一瞬の内に抜け落ち、生気を失った死体となり果てる。
何度その光景を目にしただろうか。恐怖で顔を歪ませ、死にたくないと逃げ惑い、それが叶わず命を落とす。それもすべては勇者の力不足故だった。
『——お主は……』
今一度声を掛けようとして、勇者の様子を見て断念する職人。その皺が目立つ顔には口惜しさが滲んでいた。しかし、それでも職人は最後に圧し潰されそうになっている勇者へと言葉を贈る。
『お主を想っておる者たちもたくさんいるということを、ゆめ忘れるでないぞ』
それだけが心残りであったかのように、職人は淡い光を残して再び姿を消した。他の住人たちも口々に頑張れだとか、ずっと応援しているだとかを伝えた後に同じように光だけを残していく。
初めは吸い込まれるような暗闇にただ独りいた勇者だったが、今は眩いほどの優しい光たちに囲まれていた。それは確かに勇者の体と、そして沈み切った心を明るく照らしていた。
「……ずっと、ずっと悩んでたんだ。俺が、俺なんかが勇者でいいのかなって」
心の底に溜まった澱を吐き出すように、勇者は感情を吐露する。ここが死後の世界だとは既に勇者も考えてはいないが、この不思議な場所では隠し事が出来ないのか情けない姿を見せてばかりだった。
「魔王軍と戦う時に何度だって逃げた。助けられるはずの人たちを見捨てることもあった。そんなんでッ……! そんなんで、どこが勇者だって言うんだ……」
職人の言葉で少し持ち直していた勇者だったが、それでもやはり脳裏に浮かぶのは救えなかった人たちの表情だった。この場所と同じ暗闇を宿した両の眼で、足元に積み上がった躯の山から勇者を睨み付ける。
『——勇者ってどういう人だと思う?』
そうやって蹲る勇者に、少女はそんな一言を差し込んだ。それはとりとめのないもののようでいて、今の勇者にとっては自身の根底に関わる重大な要素だ。だからこそ、
「……勇者はみんなにとっての希望の象徴だ。負けず、
それが勇者の答えだった。
そうして言葉を発しながら勇者の頭に浮かんでいたのは先代勇者の姿だった。彼女は強さ、気高さ、美しさ、どれをとっても勇者という重すぎる称号に相応しい女傑だった。勇者が彼女と交流したのはほんの少しの間ではあったが、その姿が勇者にとっての指標となったのは言うまでもない。
『だめだめだね!』
だが、そんな勇者をぶった切ったのは少女の無慈悲な一言だった。そのあまりの否定っぷりにさしもの勇者も半笑いが浮かびかけるが、少女の言葉は勇者の根幹を全否定していることに遅ればせながら気が付くとそれも引っ込んでしまう。
『確かにそんな人がいればいいことだよ、実際先代勇者はすごかったし。でもね、そんなの絶望的に貴方に似合ってない』
「似合っ……? そんな問題じゃな——」
『大事なことだよ。……ねえ、どうしてわたしたちが、ううん、わたしが貴方を勇者に推したか考えたことはある?』
「——っ」
余りにもまっすぐな視線が怒りを露わにしようとしていた勇者の機先を制するように射止める。その眼差しは彼女と出会ったときから変わらないものだった。
「それは……、俺が四大将軍の一人を撃退したからって……。実際は——」
『実際は教会が数十年がかりで準備していた魔法を使ったんだけど、世間的には勇者の功績になったんだよね』
「そういうことだ、所詮成り立ちからして俺は紛い物——」
『相変わらず話を最後まで聞かないんだから。あの時にね、わたしは本当は死んでいたはずなんだよ。当たり前だよね、魔王軍の将軍の狙いは人類の希望を支える教会とそれが掲げる聖女の殺害。あまりにも突然に襲来した将軍にわたしたちはなすすべもなく蹂躙されるだけだった』
その光景を、勇者は昨日のことのように覚えていた。何の前触れもなく王都の一角が爆ぜ、日常が一瞬で非日常へと変貌を遂げた。その地獄を作り上げた張本人こそがスコレーと同等の四大将軍の内【武】を司る者だった。
『可愛くてか弱いわたしは目立っちゃうからそれはもういの一番に狙われちゃってね、気が付いた時には護衛の人たちは吹き飛ばされて、目の前には将軍の巨体。死んだって思ったね、でも最後まで目だけは瞑ってやるもんかなんて無駄な抵抗をしてたらさ、なんとどこからともなく現れた男の子がわたしを助けてくれたの』
「……あの時はびっくりした。ただの同い年くらいの子供だと思ってたんだ。それが殺されそうになってるのを見ると、体が勝手に動いてしまった。今思うとあの時の俺はよくそんなことを出来たなって感心するくらいだよ。剣術も魔法の心得もないただのガキだったんだからさ」
『そのただの子供が、大の大人ですらしり込みしてしまうような状況下で、わたしを助けてくれた。足も震えて、目には涙だって浮かべてるのに、一番最初に出てきた言葉がわたしを案じる言葉だなんて笑っちゃうよね』
そう言って本当にくすくすと笑い始める少女。勇者は褒められているのか貶されているのか微妙なラインのその言葉に照れればいいのか、怒ればいいのか分からないままその両方が混ざったような何とも言えない表情をしていた。
『たぶんね、貴方より才能がある人はいくらでもいた。体が大きい人もいたし、ものすごい魔法を使える人もいたよ。でもね、その人たちじゃあダメだったんだよ。きっとここまでも、この先だっていけることはなかった』
そんなことはない、とそう反論しようとする勇者を押し留めるように少女は前に手をかざす。
『それが他のみんなになくて、貴方が持っているもの。貴方が勇者に相応しい証』
「そんなもの、俺は持っていない。お前が一番分かってるだろ……?」
『そうだね、わたしが一番分かってる。貴方が持っているもの、それは【勇気】だよ』
「——は?」
思わず疑問が言葉となって零れ出ていた。
勇者の聞き間違いでなければ、勇気と彼女はそう言った。音として脳が捉えたその言葉の意味を理解した瞬間、勇者の顔には失笑が浮かんでいた。
「そんなもの、何の役に立つって言うんだ。そもそも俺にはそんな勇気なんて——」
『わたしの時だけじゃないよ。貴方はいつだって、足を震わせながら、泣きそうになっているのを我慢して、それでもその身一つで魔王軍の前に立ち、みんなにその背中を見せ続けてきたでしょ? 他にも——』
そう言って少女は誇らしげに勇者を賞賛していく。一つ、また一つと増えるたびに勇者の心を埋めていったのは含羞ではなく罪悪感だった。
少女が語る全てが、勇者の功績を分かりやすく民衆に伝えるために誇張された事柄だった。それは少女も見てきたために分かっているはずなのに、それでも少女は【魔王軍に勇気を持って立ち向かう勇者】の姿を語る。
『貴方はいつまで経ってもこういう話は嫌いだったよね。すっきりした性格なのは物語の中だけなの、もったいない』
「そんな嘘で塗り固めた話、誰が好きだって言うんだ。みんなだって本当の話を聞いたらきっと——」
『ところがどっこいみんな知ってるんだよ。……驚いた? そういうの目にしないようにしてたから分からなかったでしょ。最初こそ色々脚色された話ばっかりだったけど、途中からそういうの無くなっていったんだよ。みんな、ありのままの勇者が好きだって言って』
そんなこと、一切知らなかった。
完全な勇者を、無欠な英雄を。求められているのはそんな姿だ。だからこそ、救えなかった命たちからの怨嗟に怯えた。遺族たちの弾劾を怖がった。
——だが、職人の言う通り、それらの多くが勇者の思い過ごしであったのなら?
『——ねえ、まだ立てない?』
少女は挑発するように下から覗き込むようにしてそう言った。
「——俺には才能もないし、強くもないんだ。俺が出来ることと言ったらせいぜい前に立つことくらいだ」
『知ってるよ。でもそれでいいでしょ? それが貴方なんだから、そんな貴方を見て、みんなは一緒に戦いたいって思えるんだから。もちろん、わたしもそうだったよ』
「——こんな俺じゃあ、全てを救えるだなんて、口が裂けても言えない」
『それでも最後まで足掻くんでしょ? どれだけ自分の身が危険になったとしても。少しでも多くの人を救えるように。それがわたしとの最後の約束だもんね?』
ああ、やはりこの少女には敵わない。勇者は自身に泥のように纏わりついていた闇が少しづつ剥がされていくのを感じた。
『別に逃げることはわたしも悪くないとは思ってるんだよ。でも貴方のそれは【逃げ】じゃない。それは自分が良く分かってるでしょ?』
「……痛いとこを容赦なく付いてくるじゃん。そうだな、結局のところ、俺は言い訳を、したかっただけなんだろうな」
自分に自信がないから、この先自分が信じる勇者らしく振る舞うことが出来るとは思えなくなってしまったから、勇者はいつの日にか【言い訳】を用意してしまったのだ。
助けられなかった人たちには恨まれていると思い込み、そうした人たちに断罪されることで楽になろうとする、勇者の弱さだったのだろう。
「俺は、勇者でいて、いいのかな?」
『名前なんてどうだっていいんだよ。大事なのは、自分の信念に嘘を吐かないこと。貴方が思うままに行動すれば、名前の方は後から勝手に付いてくるでしょ。それが【泣き虫】とかでも……まあ、いいじゃん』
「そうか……? いや、そうかもな」
冗談なのか、それとも本気なのか判別が付かないほどにギリギリな発言に勇者は笑うしかなかった。そうすることで初めて、心に靄のように掛かっていた不安が晴れていることに気が付く。
「それでも俺はやっぱり、勇者を突き通すよ。それは俺がこれまで殺してきた魔王軍に対しても、救ってきた皆、救えなかったみんなへのせめてもの贖罪だ。これは決して【言い訳】なんかじゃない、俺がやり通さないといけないことだから。——その先で、必ず平和な未来をみんなに見せてみせる」
それは魂の宣誓であり、世界への布告であり、そして眼前の少女との契約だった。
『うん、それでこそわたしの勇者さまだね』
まるで自分のことであるかのように少女は嬉しそうにそう言った。
これが偶然の積み重ねによって生じた泡沫の夢のような奇跡であることは分かっていた。どれだけ別れを惜しもうとも、その瞬間がもうすぐそこまで迫ってしまっているということも。
涙に濡れた勇者の頬を愛おしそうに撫でながら、少女は微笑む。恥も外聞も投げ捨てて、「行くな!」とそう勇者は叫び出したかった。それによって勇者であることを投げ出してしまっても、この先の未来を投げ打つことになってしまっても——。
だが、同時にそんな選択を、やさしさと厳しさの両方を併せ持つ眼前の少女が決して許さないということも勇者には分かっていた。
そんな勇者の葛藤も全てお見通しなのだろう、少しばかり面映ゆそうにしたかと思うと、少女は頬から手を戻す。数瞬の間、少女は右手を大事そうに左手で抱える。そのまま後ろで両手を組み直すと僅かに前屈みになって、未だに最後の別れを切り出せずにいる勇者に向かって、言い含めるように言葉を紡ぐ。
『——だから、またね。わたしの勇者さま』
それは別れを悲しむものではなく、いつか来る再会を願う言葉だ。
その言葉を最後に、少女も姿を消した。後に残ったのは俯いた勇者だけだった。その頬を最後の雫が流れていく。
「まったく、大変だな。勇者っていうのは」
少女の言葉が再び脳裏に過る。『誰よりも勇気があるのが勇者』だと、それをわざわざ教えてくれたのだ。
何も持っていないと思っていた。才能も、カリスマも、強さも、何も。だが、少女が言ってくれた。この身にある抑えきれないどうしようもない感情を、【勇気】と言ってくれるなら。
——それを示し続ける勇者であろう。
「さあ、自分探しの時間はおしまいだ」
勇者の決意と共に空間に亀裂が走る。淡い光に照らされた勇者の表情はここに迷い込んでいた時とは打って変わって晴れやかなものだった。
「第二回戦の始まりだ、スコレー。今度の俺はちょっとばかり厄介だぞ」
彼女が遺してくれたものなのか、胸元で熱く輝く光を握りしめながら勇者は高らかにそう宣言した。
*****
意識が覚醒する。それはゆっくりと浮上をする感覚ではなく、スイッチを入れたかのごとく唐突なものだった。
眼前に広がるスコレーの顔を認めるや否や、勇者はその場から大きく飛び退く。記憶ではスコレーが呼び出した人形に取り押さえられていたはずだったが、どうやら彼らは既に消滅してしまったのか自由に動けていた。
「どう、して……?」
勇者が覚醒したことを認識していたのだろうが、何も反応を返すことがなかったスコレーがそこでようやく疑問の声を上げた。震え切ったその言葉尻から分かるようにスコレーはひどく動揺をしており、その顔には強い驚愕が張り付いていた。
「あそこから持ち直せるだなんてあり得ない。それだけ勇者さんの心はボロボロになっていた。それこそ誰か他の人からの手助けでもない限り——!」
「そうだな、実際もう俺は諦めていた。何ならさっきまでもう死んだんだとばかり思っていたしな。……だけど、どうしても俺の不甲斐なさを許してくれない人たちがいたらしくてな」
「……意味が、分からない!」
先ほどとは異なり、今度はスコレーが動揺を表に出す番だった。何が起こったのか、それは勇者自身にもよく分かっていないことではあったが、そこは勇者にとってはどうでもいいことだ。重要なのは原因ではなくその結果であり、過程であった。
「勇者さんの心を覗く直前に見えた、あれのせい? 確かにあそこまで剥がした心の壁が嫌に堅く感じたけど、何かの干渉を受けていた? まさか、死者の魂の一部が心の器の中に格納されていた——?」
油断なくスコレーを見据えながら勇者は地面に落ちていた愛剣を拾い上げる。その間もスコレーは事態の解明に腐心しているらしく、虚ろな目で虚空を睨みつけながらブツブツと言葉を垂れ流していた。
「ふふ……」
かと思うと、次の瞬間には唇を一気に吊り上げ、狂気に染まった瞳を勇者へと向けた。
「これこそが是の求めていたもの! 心の向こう側、魂の着地点! まさか、こんなところでその片鱗を見つけられるだなんて。やっぱり勇者さんは特別だ、より一層君の内側に興味が湧いた!」
「俺としてはお前はもうたくさんだよ」
スコレーの中で一区切りがついたのだろう、彼女はこれまでまったくと言っていいほど見せなかった戦意を勇者へとぶつける。勇者は先ほどの間に手を出さなかった自分を褒めたい気分だった。あそこでむやみに突撃していたら返り討ちに遭っていたことだろう。そう勇者に確信を抱かせるほどの凄みが今のスコレーにはあった。
「——大丈夫、俺はもうブレないよ」
動揺が漏れたのか、懐に仕舞い込まれたペンダントが一瞬熱くなったのを肌着越しに感じた。自身に言い聞かせるようにそう言葉にしながら、勇者はゆっくりと剣を構え直した。
そこからはお互いに無言の応酬が続いた。スコレーは持ち前の変幻自在の戦闘スタイルで勇者を翻弄し、勇者はそれに対して的確な対応と隙を見ては鋭い一撃を積み重ねていく。
それは長く続く二人の戦いの始まりを告げる狼煙となった。
——何百、何千と打ち合いが続いただろうか。決着の瞬間は突然に訪れた。
「——たぁっ!」
「……ふッ!」
お互いが裂ぱくの気合いとともに渾身の一閃を繰り出した。すれ違った体は満身創痍であり、どちらが倒れてもおかしくはないというような状況だった。だが、一瞬の静止の後に、片方が崩れ落ちる。決着の瞬間だった。
「……どうして、あれ以降お得意の精神操作を使わなかった?」
満身創痍ながらも勇者は愛剣を支えにして、うつ伏せに倒れ伏すスコレーの下へと何とか歩み寄る。彼女なりの意地なのか、スコレーは最期の力を振り絞るようにして体勢を仰向けに変える。
「是は、豪華な食事は味わって食べる性分だから、ね。もしかしたら使ってない振りなだけで、実際はもう既に勇者さんは、ゴホッ、是の術中かもよ?」
満足そうな笑みを浮かべながらスコレーは勇者を見上げる。言葉の途中で口の端から血を流しながらも、最期までスコレーは底を見せることはなかった。
もはや体を動かす気力もほとんど残っていないのだろう、スコレーはとどめを促すように僅かに首を動かした。
言葉に出すことは絶対にないが、それがどのような目的であれ死んでいった者たちと出会える機会を与えてくれたことについて、勇者はスコレーに感謝の念を抱いていた。それが例え、精神操作という下法によるものだったとしてもだ。
「……満足はしたか?」
「いいや、これからもずっと、ね」
「そうか」
その心が何も言わずにとどめを刺すことを躊躇わせたのだろう、勇者は最後にそう問うた。その答えはやはり予想通りのものではあったが、その言葉とは裏腹に彼女の表情はどこか晴れやかなものだった。
「————」
剣を振り下ろす。それから少し遅れるようにして、空間が歪んでいくのを感じた。スコレーの作ったこの世界が、彼女の死によって崩壊を始めたのだろう。そんな中、ご丁寧なまでに扉が現れた。スコレーなりの勝者へのはなむけと言ったところなのだろうか。
勇者は最後に一度スコレーへと目を向け、そして扉へと歩き出す。
扉をくぐるその瞬間、「またね」とそんな声が背を追ってきたような、そんな気配がした。
*****
今回の目覚めは脱力した体が水面に浮かび上がったかのように緩やかなものだった。そのゆったりとした覚醒と同時に、勇者は自身が現実世界に戻ってきたのだという自覚を得る。
上体を起こそうと手に力を入れたところで、自身が寝具に、それも手触りからかなり上等なものに寝かされていたということに気が付いた。寝具から降り、勇者は部屋を見渡す。見覚えのない部屋ではあったが、その造りから最前線ではなく、少し戻ったところにある地方の建物と同じような特徴をしているようだった。
「……俺は、一体どうなって」
勇者がそう呟いたその時だった。扉の外からトトトっと軽めの足音が聞こえてきた。
そのままノックをすることもなく、音の主が鼻歌交じりに扉を開ける。その慣れた動作は何度もこの部屋の中へと足を運んでいることを伺わせるものだった。
「ふんふ~ん、とな——」
「珍しくご機嫌だな、何かいいことでもあった?」
「にゃああああああ!? 勇者が起きてる!?」
慌ただしく叫びながらひっくり返る現在の仲間の一人を見て、勇者は苦笑した。そして彼女の声が呼び水となったのか、幾つもの足音が部屋へと近付いてくるのが感じられた。それはひどく懐かしさを抱かせるものであり、勇者はようやく現実へと生還したことへの確かな実感を得られたのだった。
それから勇者は再び寝具へと寝かせられ、集まった仲間たちから話を聞くことで事のあらましを理解した。
勇者が突如として覚めない眠りに落ちたのが、もう数か月も前のことなのだという。場所は勇者の記憶にある通り、最前線のまさに魔王の根城を目の前に臨む場所であり、勇者たちを中心とした奇襲作戦を決行するその前日のことだった。
「作戦は破綻し、我らは撤退をせざるを得なくなった。前日ということもあって被害が微々たるものだったのが不幸中の幸いと言えるだろう」
仲間の一人がそう重々しく告げる。なるほどと頷く勇者だったが、巨体の仲間の言葉を補強するように、最初に部屋に入室してきた小柄な獣人が口を開いた。
「でも、どっちにしろ勇者以外では勇者を昏倒させてでも退却しようって案が出てた。それだけ勇者は傍から見ていて危なっかしかった」
「そうか……、いや、本当にみんなには心配をかけたようだな……」
自分ではうまく取り繕えていたと思っていたが、どうやら仲間たちには筒抜けのようだった。勇者はどんな表情をしていいやらわからず、ぽりぽりと頬を掻きながら感謝を述べる。
それから話は現在の戦況へと移っていった。幸い、勇者が目覚めないという情報は統制されていたらしく、広く出回ってはいないという。そのおかげで最前線は未だに記憶にある地域で留められているというのだから勇者としては驚く他なかった。
「それにしても、勇者、吹っ切れた?」
長く話を聞き、目覚めたばかりの勇者の体調を心配した仲間の一言によって、とりあえずは解散となった。そうして勇者に一言二言労わりの言葉を掛けて退出していく仲間たちの中、獣人が最後に振り返り、そう勇者へと疑問を投げかけた。
その言葉に勇者は少し面食らう。ふと胸元に伸びた手がぎゅっと空を掴む。そこに何もないということを知っている獣人の頭の上には疑問符が浮かんでいるようだった。
「言いにくいけど、あの子が死んでからの勇者は、その……。ウチが力になってあげられなかったのは残念だったけど、これからもよろしくね?」
どこか照れ臭さを笑顔に滲ませながら、獣人はそれだけを告げて部屋を出ていった。すこしばかりの時間呆気に取られて彼女の残像を眺めていた勇者だったが、脱力をするようにそのまま寝具の上に上体を倒した。
再び今度は意識的に胸元へと手を持っていく。あの空間で確かな存在感と暖かさを孕んでいたペンダントはやはりと言うべきか現実に持ち込むことは出来なかったのだろう。しかし、だからと言ってあそこで起きた出来事が無かったことになるのかと言えばそんなことは決してない。
「勇者だとかそういうのに俺は囚われすぎていたんだろうな」
胸元からゆっくりと天井へと手を伸ばす。そこにある何かを掴むように手を握った。
「これからも俺は出来るだけの多くの人を助けて、それでも手から零れ落ちるたくさんの人を想って苦しむんだろう」
目を瞑る。瞼に映るのは一人の少女の姿だ。守ると約束した少女だった。少年が勇者となるきっかけを作った大切な人だった。その彼女が、勇者が勇者であるということを真の意味で肯定してくれた。この心が持つ勇気のまま進めと、そう諭してくれた。
「だから俺は立ち止まらずに、腐らずに、この先も勇気を出して進まないとな」
——それでいいんだろ?
その先は言葉に出すことはなく、勇者の心の内でそっと問いかけた。瞼の向こう側で、少女がふわっと笑みを浮かべる。あの頃と変わらない柔らかな、勇気を貰えるようなそんな笑顔だった。
その笑顔はこれから先もずっと変わることはないのだろう。だが、それでも勇者は彼女から貰った再会を願う言葉を胸に、この先も勇者であり続ける。
これは勇者が魔王を討伐するほんの一月前の出来事であった。この先も決して表に出ることのない、勇者の中の物語。
【短編】魔王城の手前で進めなくなってしまった勇者の話 葦原 聖 @sho_ashihara
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