Tier1姉妹:有名四姉妹は僕なしでは生きられない(読み切り版)

紙城境介

Tier 1 姉妹――令和最上位勢の少女たち


 僕の人生に『いいね』はいらない。

 誰かに認められた証なんておためごかしにすぎない。

 結局のところ、他人に満たしてもらった人生なんて空っぽのハリボテでしかなくて、自分の面倒を自分で見れるようにならない限り、本当の幸せなんてありえないんだって、僕はとっくに知っている。


「蘭香ぁ~! 昨日の動画見たよ! めっちゃ可愛かったぁ~!」

「ありがとー! よかったらいいね押しといて~!」

「押した押した!」

「当たり前じゃん!」


 スマートフォンは人類には早すぎた。

 手のひらに世界があると錯覚するには、承認欲求という脆弱性はあまりにも大きすぎる。


 先人は言った――君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。

協調性を持つことと周りに合わせることは違うのだ。話題に乗るために映画を倍速で見たり、面白くもないSNSの投稿に真顔でいいねを押していくことの、何が人生を豊かにしてくれるというのか。


 ましてや恋愛なんて、非効率の極み。


「……君永君ってさ、勉強以外何してるんだろうね……?」

「……いくら私立だからって、あれは異常だろ……」

「……動画とか見んのかな……?」

「……ないない。学校支給のタブレット、教科書と参考書しか入ってないって話だぜ……」

「……うへー。さすが全国模試一桁常連はいかれてるわ……」


 誰が僕をどういう風に見ていようと、それは僕自身とは何ら関係がないはずだ。

 自分を規定するのは常に自分自身。

 協調はしても同調はせず、ただ粛々と自分の能力を磨き上げる。

 勉学。

 勤労。

 学生という育成期間にこなすべきはこの二つだと、もし攻略Wikiとやらが人生にもあるのなら、真っ先にそう書いてあることだろう。


 それが僕――君永きみなが織見しきみ、唯一絶対の哲学。


 愚かなるクラスメイトたちよ。ファミレスやカラオケで、好きなだけ人生を浪費すればいい。

 その間に僕は君たちの手が届きえない領域に自らを押し上げ、本当の幸せというやつを見つけ出しているだろう。

 その時にああしておけばよかったと嘆いてももう遅い。

 僕という『君子』ありし時、君たちはすでに、そうなれる権利を手放している――


「君永、お前バイトしてるだろ」


 ――はず、だったのだが。


「通報があってな。我が校はバイト禁止。破ったら最悪退学。知ってるよな?」


 担任に呼び出されたその日から、僕の人生は大きく横道に逸れてしまった。

 そう。

 学校の最高権力者である理事長から、こう通達された、その瞬間に。


「君永織見くん。私から、代わりのバイトを紹介しよう」






 ふわふわの犬を散歩しているマダムを、新聞配達で鍛えたハンドリングで回避する。

 所は代官山、瀟洒な住宅地。

 その合間をママチャリで爆走するのは僕、君永織見。

 自慢のペットを見せびらかすように散歩するマダムたちから、邪魔者を見るような目を頂戴しながら、僕はとあるマンションの前でブレーキを引いた。


「ここが理事長の家……」


 首が痛くなるほど顔を上向けながら、僕は思わず呟いた。

 東京でも格別の高級住宅街である代官山を、見下ろすように建つタワーマンション。いったい家賃がいくらするのか、僕の金銭感覚では及びもつかない。青空の下で冴え冴えと銀色に輝くそれは、まるで現代の王城だった。


 理事長の家の家事代行。

 退学回避の条件として提示されたのは、そんな仕事だった。


 バイト代もちゃんと出る――どころか、それまで僕がやっていた牛丼チェーンや清掃のバイトに比べたら、月とすっぽん、役員と平社員ぐらいの差がある高給だった。

 こんな温情が与えられたのは、僕の成績が良かったからだと言うが……。こんなにもうまい話があっていいのだろうか。

 どうにも解せないが、お金はあるに越したことはない。それに家事は得意だ。こんなにいいバイトは他に探しても見つからないだろう。


 僕は覚悟を決めてマンションのエントランスに入ると、オートロックのドアの前で教えられた部屋番号を呼び出した。


『――……はい』


 女の人の声だ。家の人が出るだろうと言っていたが、他のお手伝いさんだろうか。


「あの、家事代行で来た者ですが」

『ああー……聞いてる聞いてる。開けるから勝手に入ってー』


 自動ドアが音もなく開く。なんだかSFの世界にでも迷い込んだかのようだ。

 エレベーターに乗り込み、最上階まで移動した。不安になるくらいスムーズで、ドアが開いたときにはまるでテレポートでもしたような心地になった。


 足音一つしない廊下を歩き、目的の部屋の前に立つ。

 3001号室。


 勝手に入って、って言ってたよな……。

 物々しいドアを見て少し気後れしたが、許可は得ているのだ。何を恐れる必要もない。

 僕はドアノブを捻りながら、「失礼します」と言って、部屋の中に入った。


 広々とした玄関エントランスから、向かって右にリビングらしき空間が広がっている。ホームパーティーができそうなくらい広く、リビングというよりホールと呼ぶべきなんじゃないかと思えた。

 しかしちょっと……言葉を選ばなければ……かなり散らかっているような気がする。


「あぁ~♥ かわちいね~♥ こっち見てこっち見て♥」


 空の段ボール箱の陰から、なにやら奇妙な声が聞こえてきた。

 なんだろう。インターホンで聞いた声とはずいぶん違う。まあ生声と電話口での声は全然違うと言うからな。

 ひとまず挨拶をしようと、僕は靴を脱ぎ、エントランスからリビングの奥を覗き込んだ。

 そして。




 ケツと目が合った。




「あ~♥ マジ最高♥ なんであんたはこんなに可愛いの~?」


 ケツが喋っている。

 薄いピンク色の、女性ものの下着を穿いたケツが――フリフリと左右に揺れながら、猫なで声を垂れ流している。


  なんだ、この生き物は……。

 多様性の時代と言われ始めてすでに久しいが、ケツだけの生き物というのは人類と定義して問題ないのだろうか。専門家の判断が待たれる。


「にゃ~♥ にゃにゃにゃ~♥ にゃ――――あ?」


 目が合った。

 今度は人間の目と。

 怪奇ケツだけ妖怪と思われたそれは、這いつくばって尻を突き出した女の子だった。上はTシャツ、下はパンツだけというだらしなさの極みみたいな格好をしたその女の子は、意外なことに見覚えのある顔だった。


「あ、クラスの」


 いつも人に囲まれている、確かなんとかっていう動画のSNSをやってる――吉城寺……何だっけ?

 吉城寺なにがしが凍りついている間に、にゃーと一声鳴いて、一匹の猫がリビングを横切っていった。何をしていたのかと思えば、どうやらあの猫をスマホで撮影していたらしい。

 なんだ、猫か。


「――ミニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 金切り声が耳をつんざく。

 顔が真っ赤になった吉城寺某が垂直に飛び上がる。

 僕が思わず両耳を塞いでいる間に、彼女がぐいっとTシャツを下に伸ばしてパンツを隠そうとしながら、限界まで僕と距離をとって壁にへばりついた。


 しまった。

 まだ挨拶ができてない。


「紹介されてきました、家事代行の――」

「変態ぃいいいいいいいいいいっ!!」


 何ぃ!? 変態だと!? いったいどこに――


「――どうっ!?」


 中身の入ったダンボールが飛来し、顔面に直撃した。ダンボールに入っていた女物の服がふわっと一気に宙に舞い、仰向けになぎ倒された僕の上に降り積もっていった。

なんなんだ、なんで僕が攻撃される!? まさか、僕を変態と間違えて……!? 

 いや、それはないか。


「ちょっとあんたたち! いるんでしょ! 出てきてよ!」


 僕がブラウスだのスカートだのパンツだのに埋もれてもがいているうちに、事態はさらなる進展を見せる。

 リビングにあるドアの一つが、ガチャリと開いた。


「……蘭香、うるさい……。マイクに入る……」


 顔を出してきたのは、前髪が妙に長い、ダルンダルンのパーカーを着た女子。

 さらに僕の背後にある玄関のドアが、ガチャリと開いた。


「ただいまですー――ってどうしたんですか、蘭姉ぇ。そんな格好で」


 玄関から入ってきたのは、明るそうな印象の、華奢で小柄な女子。


「変態のストーカー泥棒よ! 私が撮影に集中してる間に……!」


 そして吉城寺某が指を差し、服の山に埋もれて倒れている僕を、3人の女子が並んで見下ろした。


 ……何なんだ……!

 僕はただバイトがしたかっただけなのに……なんでパンツを握りしめながら、見知らぬ女子3人に見下ろされているんだ!






「家事代行ぉ?」


 ようやく事情を説明すると、Tシャツパンツ女子――もとい、タートルネックにショートパンツ、黒いタイツを合わせた吉城寺某は、胸の下で腕を組みながら眉をひそめた。


「言い訳ならもっと上手くやりなさいよね。もう通報していい?」

「本当だ! 理事長に言われて……!」

「ママのこと? なんでうちのママが理事長やってるって知って――」


 勝気な吉城寺はそこで言葉を切り、正座させられている僕の顔を目を細めてじっと睨んだ。


「……あんた、どっかで見たことあると思ったら……うちのクラスのガリ勉君永?」

「ようやく思い出してくれたか……吉城寺なんとか」

蘭香らんかよ! 吉城寺きちじょうじ蘭香! あんたこそ覚えてないじゃない!」


 そうだそうだ、そんな名前だった。

 うちのクラスで一番やかましい女子グループの中心人物で、たまに教室や廊下で謎のダンスを踊っている変な女だ。理事長の娘だったのか。

 吉城寺蘭香は何かを堪えるように頬をヒクつかせる。


「信じられないわ……。この私が同じクラスにいるのに名前も覚えてないなんて……」

「すまん。人の顔を覚えるのは苦手でな」

「日本一有名な女子高生の、この私の顔を!?」

「ずいぶん自惚れが強い奴だな」


 言うに事欠いて日本一有名とは。見上げた自意識過剰だ。


「ああーッ!!」


 吉城寺蘭香は苛立たしそうに歯ぎしりすると、スマートフォンを取り出した。


「そんなこと言って、どうせ私のストーカーでしょ! さっさと通報するから!」

「……だったら、どうやって入ってきたの?」


 静かな声で異論を唱えてくれたのは、ダルダルのパーカーを着た前髪の長い女子だった。長すぎて左目が完全に隠れている。


「オートロックなのに。わたしたちの誰かが開けないと、無理ゲー」

梅瑠める姉ぇの言う通りですよ、蘭姉らんねぇ」


 それに小柄な女子が加勢してくれる。


「中から誰かに開けてもらったんじゃないですか? ね、泥棒さん?」


 小柄な女子がそばにしゃがみこみ、小首を傾げて言ってくる。

 近くで見るとアイドルみたいに顔が整った子だ。それにやけに通りの良い澄んだ声をしていた。


「そ、そうだ……。開けてもらったんだ。君たちとは別の、女の人に……」

「……もしかして」


 3人が一斉に心当たりありげな顔になり、揃ってある場所を見つめた。

 そこには白い壁面に据えられた、黒板みたいなサイズのモニターがある。


菊姉きくねぇ!」


 吉城寺蘭香が叫んだ瞬間、タイミングを見計らっていたかのようにモニターが点灯した。


『呼んだぁ?』


 モニターに映ったのは、イラストだった。

 正確には、動くイラストだ。

 高校の制服らしきものを着た女の子のイラストが、目をパチパチさせ、横に揺れながら、聞き覚えのある女の声で喋っていた。

 吉城寺蘭香がモニターに向かって噛み付くように言う。


「ちょっと菊姉ぇ! こいつを入れたのって……!」

『んー? ああ、わたしわたし』

「私たち聞いてないんだけど! 男の家事代行が来るなんて!」

『あれ? 言ってなかったっけ? ごめんごめん、忘れてたぁ』


 なんだこりゃ……。

 モニターに映った動くイラストと、生身の人間が言い争ってる……。


「自己紹介したほうが良さそうですね」


 僕が唖然としていると、小柄な女子が僕の前でくるりと回って、輝くような笑顔を浮かべた。


「吉城寺家愛嬌担当! ブレイク前夜の天才声優! 四女の竹奈々ちななですっ☆」


 はい次、と隣にいた前髪の長い女子に振られる。


「……三女の梅瑠。趣味はゲーム。仕事もゲーム」


 陰気な声で言って、次、と吉城寺蘭香に(エア)マイクが渡された。


「……………………」


 しかし吉城寺が無視したので、四女を名乗った小柄な女子がマイクを握ったような手をモニターに向けた。


『えー、本業はイラストレーター、副業はVtuber、趣味は女子高生の、栗木ひそか――じゃなかった、長女の菊莉きくりだよん。よろちくびー』

「少々補足しますと、菊姉ぇは我が家で最強の引きこもりでして、自分の部屋から滅多に出てこないんです。なので普段はこの通り」

『かわいかろー?』


 イラストの頭が左右に揺れる。

 それを見て僕は改めて呟く。


「絵が動いてる……」

『え、そこから?』

「今時Live2Dを知らないとは、なかなか珍しい人ですね、泥棒さん」


 これが姉? どういう世界観なんだ、この家は。


「ちょっと待って。なんで普通に受け入れてんの?」


 吉城寺蘭香が形のいい眉を逆立てていった。

 僕はほっと息を吐いて、


「そうだよな。動くイラストが姉なんておかし――」

「そうじゃない!」


 そうじゃないの!?

 吉城寺は僕の顔をずびしと指差して、


「こんな男が家を出入りするなんて! 私は絶対無理! 炎上したらどうしてくれんの!?」


 と言って、僕の顔を睨みつける。


「それにこいつ、学校じゃあ勉強してばっかりでまともに話す友達の一人もいないのよ? 家事なんてできるわけないじゃない!」


 僕は思わずムッとなって、吉城寺の目を睨み返した。


「前後の文章が繋がってないぞ。それはただの偏見だ」

「世の中のほとんどは偏見で回ってんのよ。教科書に書いてなかったの? そもそも家事代行なんてうちには必要ないのよ!」

「ほう……。見上げた根性だ。このリビングの惨状を前にしてそう言うか」


 ダンボールの中身がぶちまけられたリビングを見て、「うっ……」と吉城寺蘭香は鼻白んだ。

 これはその辺のダンボールに洗濯物を適当に放り込んでいた証。これ以外にもリビングにはコンビニのビニール袋やら、食べた後の食器やら、ビニール袋やら、何かの空箱やら、ビニール袋やら、ビニール袋やら、ビニール袋やらが散乱していた。

さっき猫がいた一角だけが不自然に片付いていて、どうやらそこが動画のための撮影スポットらしい。

 僕は立ち上がって告げる。


「1時間ぐらいよそに言ってろ。本当にこの家に家事代行が必要ないかどうか、僕が教えてやる」


 そして1時間後。

 四姉妹は変貌を遂げたリビングを見て、圧倒されて立ち尽くしていた。


「カーペットが見えます……!」

「……埃っぽくない……」

『床が光って見える!』

「物の場所がわかる……」


 僕は味噌汁の器をテーブルに置きながら、


「冷蔵庫の中身が腐りそうだったから食事も作っておいた」

「おおーっ!」


 三女の梅瑠と四女の竹奈々が素早くテーブルにつき、いただきますも言わずに箸を取る。一口口をつけると、「美味しい!」「美味しい……」と言って、バクバクと平らげ始めた。


「これがまともな人間の生活だ」


 まだリビングの入り口で立ち尽くしている吉城寺を見据えて、僕は唇を曲げる。


「家事は小学生の頃からやっててな。それに料理も掃除もバイトで死ぬほど鍛えられた。ガリ勉にしちゃできるほうだと自負してるんだけどな」

「採用! 採用です!」

「自動的にご飯が出てくる生活……ずっと憧れてた……」


 吉城寺は俯きがちなままふらふらとリビングを横切り、僕が作った味噌汁を一口だけ飲んだ。

 それからプルプルと震えだし――茶碗を荒々しくテーブルに打ち付ける。


「不採用!」


 なっ!?


「なんでだ! 仕事は完璧に――」

「とにかく不採用! 絶対無理! 今すぐ出てけえーっ!!」


 そして僕は、マンションから無理矢理叩き出され、バイトをクビになった。

 色んなバイトをしてきたが、これは最短記録だ。




 


「ふうん。そんなことがあったんだ」


 できたてほやほやの僕の身の上話を、三鷹松葉みたかまつばはのんきな一言でまとめた。


 場所は学食の窓際にあるカウンター席である。目の前の窓の向こう側には、たくさんの生徒が思い思いの時間を過ごしている中庭があった。

 三鷹はいつも、昼休みにふらりと現れてはこの席に座り、ニヤニヤと幸せそうなツラで中庭に集う女子たちを眺めている。果てにはその制服の着こなし方を一つ一つ評論し始めるという、変態一歩手前の行為をライフワークとしている奴だった。


 ちなみに、三鷹は女である。

 いや、女子の制服を着ているだけかもしれないし、胸に詰め物をしているだけかもしれない――しかし少なくとも僕の目には、その友人は女性のように見えていた。


「もう少し興味を持てよ! 唯一の友人が世にも珍しく参ってるんだぞ?」

「自分で言うなのオンパレードだね。しかし君子くんしくん――」


 奇妙なあだ名で僕を呼ぶ三鷹。

 どうやら苗字の君永と名前の織見の頭をつなげたものらしい。


「――私に言わせれば、君の境遇は憐れむどころか、妬ましいのただ一言だね」

「妬ましい? 退学の危機に瀕しているこの状況が?」

「まったく。学年一の秀才のくせに、君はこの学校について知らなさすぎるな」


 いいかい? と指を振って、三鷹は講釈を始める。


「まず吉城寺蘭香。『日本一有名な女子高生』の異名を欲しいままにする、超有名動画配信者。SNSのフォロワー数は100万を優に超える。そこらの芸能人よりも影響力のある、超弩級のインフルエンサーさ」


 そういえばそんなことを言ってたな、自分で。

 僕はSNSを見ないので、100万っていうのがどの程度すごいのかいまいちピンとこない。


「次に吉城寺梅瑠。FPSゲームをしている人間なら知らない者はいないプロゲーミングチーム『Alpha Planet』に15歳の若さで所属。女性プロゲーマーとして世界で最も注目されていると言っても過言じゃない天才中学生。未来のeスポーツ界にとって至宝とも言える存在さ」


 プロゲーマーか。存在くらいは知っているが、やはり具体的にどんな活動をしているのかはよく知らない。それにしてもよくこんなに淀みなく喋るな。練習してるのか?


「そして吉城寺竹奈々。主演の機会はまだ巡ってこないが、年齢に比してあまりにも繊細な演技力にファンを急増させつつある超有望若手声優。14歳にして演じてよし、歌ってよし、喋らせてもよしのスーパーオールラウンダー。その上見た目も超美少女なんだから隙がない。青田買いにしては安牌すぎる、約束されたスターだよ」


 声優ねえ。最近はアイドルみたいなこともさせられて大変そうだな。


「これが我が校の誇るこの世の最上位勢――人呼んでTier1姉妹ってわけさ」


 ティア1? ティアーが確か……『階層』みたいな意味だっけか。『1番目の階層』でTier1ってわけね。

 そこではたと気がついた。


「もう一人は?」

「ん?」

「吉城寺家は四姉妹だ。もう一人いるはずだろ、長女が」

「ああ……吉城寺菊莉さんね。彼女は今2年生のはずだけど、学校には全く来てないみたいだからなあ。クラスメイトですらオフの姿は見たことがないはずだよ」

「留年だろ、そんなもん……」

「母親の力かな。でもVtuberとイラストレーターの収益を合わせたら、そこらの企業経営者が裸足で逃げ出すぐらいの収入があるはずだし、学校どころか下手したら働くことすらもはや必要のない身の上なんじゃないかな」


 この世の最上位勢か……。やっぱりいるところにはいるもんなんだな、勝ち組ってやつが。

 世界は不平等だ。

 だけどだからこそ、他者と自分を比べることに意味はない。

 僕は僕にできることをやるだけだ。


「とにかくね、君子くん、私が言いたいのは、そんな雲の上の存在の美少女たちとまとめてお近づきになれるなんてことは、刺されたって文句は言えないくらいの幸運なんじゃないかって話だよ」

「文句は言うぞ。刺されたら」

「私は言わないね。高スペック女子中高生最高!」


 さっきは少しばかり韜晦を混ぜたが、コイツは間違いなく女だ。そうじゃなければとっくの昔に捕まってる。


「まあ冗談はともかく」

「冗談で赤くなるのか、お前の顔は?」

「どうしても解雇を免れたいってことなら、少しは彼女たちに歩み寄ってみることだね。そのための情報は今与えただろう?」


 ……長々とした講釈は、そのためのものだったのか。


「歩み寄るって言われてもなぁ……」

「君は少しばかり自我が強すぎる。君の正しさは他者にとっても正しいとは限らない。君子は和して同ぜず――なんだろう?」


 確かにそうだ。同調ならぬ協調をしてこそ真の君子。


「まあなんとか頑張ってみるよ。退学がかかってるしな」

「君がいなくなったら私の話し相手がいなくなる。また平和に女子高生ウォッチングができる日が来ることを祈っているよ」

「お願いだからそれは一人でやれ」


 令和に許される趣味じゃない。


 僕は三鷹と別れ、自分の教室に戻った。目下のところ、このバイトの障害となっているのは次女の蘭香だ。

 そしてそいつは、都合のいいことに僕と同じクラス。四姉妹の中で一番接点を作りやすいと言える。

 まずはにこやかに挨拶を交わして、警戒心をときほぐし――


「よう、吉城寺――」

「……チッ」


 汚物を見るような目を向けられた。

 ついでに舌打ちもされた。

 さらには周りのクラスメイトにクスクスと笑われた。


 ……わかってるさ。僕とコイツの生き方はまるで対極。歩み寄るなんてとてもできそうにない。

 それでも、諦めるわけにはいかないのだ。





 

 放課後、僕は再び代官山のマンションに向かった。

 門前払いも覚悟したが、学校からまっすぐやってきたのが功を奏したらしい。吉城寺蘭香は不在で、代わりに末っ子の竹奈々が出迎えてくれた。


「おかえり~♪ ……いや、違うな。――おかえりっ、お兄ちゃん!」

「赤の他人をいきなりお兄ちゃん呼ばわりとは心の闇が深い奴だ。よければ相談にくらい乗るぞ?」

「秒で人をかわいそうな子にしないでください。演技ですよ、演技」

「演技?」


 吉城寺竹奈々は輝くような笑顔を浮かべて横ピースをした。


「やっぱり女性声優は男の人をときめかせてナンボみたいなところがありますからね。どっちの言い方がグッと来ました?」

「とりあえず大して知りもしない女の子にお兄ちゃんと呼ばれるのは恐怖心が勝る。控えておいたほうが無難だろうな」

「うーん……それはそうなんでしょうけれど、ちょっとリアリストすぎますね、執事さん」

「執事さん……? まさかとは思うが、僕のことじゃないよな?」

「家事をしてくれるんでしょう? だったら執事さんじゃないですか」

「何を期待してるのか知らんが、そんなにいいもんじゃないぞ」

「だったらやっぱり、無難に『せんぱい』にしておきますか。せーんぱいっ♪」


 懐いてる後輩が部活終わりに呼びかけてくるときみたいな調子で、竹奈々は言った。

 部活なんてろくにやったこともないのに、シチュエーションまで想像させられてしまった。これが約束されたスターの演技ってやつか。


 竹奈々はあっさり僕を部屋にあげてくれる。彼女はどうやら、僕に悪感情は抱いていないようだ。


「全員が君みたいに物分かりがいいと助かるんだがな……」

「まあまあそう難しい顔をせずに。無愛想な姉たちに代わって、竹奈々ちゃんがお相手してあげますから。……あ、でも好きになっちゃダメですよ? あたしのファンに殺されたくなければね!」


 しかしこの子はこの子で、ちょっと癖がありそうだ。


「次女が帰ってくる前に仕事に取りかかろう。何かやってほしいことは?」

「あ、だったらちょうどよかったです。洗濯物が溜まってるんですよ」

「ダンボールに詰め込んでたくらいだしな……」

「いえ、あれは一回も着てないやつです。積ん読ならぬ積み服です」

「着ない服をなんで買う?」

「可愛いと思ったらとりあえず買っちゃうじゃないですか」


 わからん。これが金持ちの感覚なのか。

 リビングの階段から2階に上がり、洗濯物があるという脱衣所に通されると、そこには目を疑う光景があった。


 洗濯かごが八つ、全部山盛り。


 何着あるのか想像もつかない。どこまでズボラだったらこんなに溜められるんだ? というか着る服はなくならないのか? いや、そうか。積み服があるんだったな。


「洗濯機は1階のユーティリティルームです。使い方わかります?」

「……大体わかる」


 タワマン最上階の洗濯機がどのようなものか知らないが、とてもこれらすべてを一度に洗うことはできないだろう。入れ替わり立ち代わり洗濯機を酷使することになる。そしてその後、洗った服を畳まなければならない……。どれだけ時間がかかるんだ?


「じゃあお願いしますね~」


 竹奈々は気楽にそう言って、脱衣所を出ていった。

 ……仕方ない。仕事だ。根気強く片付けよう。


 僕はまず、膨大な洗濯物を1階のユーティリティルームとやらに運ぶことから始めた。それはキッチンのすぐ横にあり、洗濯機や物干し竿、アイロン、ミシンなどが揃った、洗濯周りの作業専用の部屋のようだが、なんで脱衣所とこんなに離れてるんだ。逆に不便だろ。

 それが終わると、洗濯物を素材ごとにざっくり仕分けていく。ポリエステルならポリエステル、ウールならウールの洗い方があるからな。


 そうしてコツコツと衣服の山を切り崩していると、紐のようなものが手に引っかかった。

 引っ張り出す。

 ブラジャーだった。

 それも顔が入りそうなほどの。


 くすくすくす、と小さな笑い声が背後に聞こえた気がした。


「(梅瑠姉ぇの中学生離れしたクソデカFカップブラジャー……あれに動揺しない男子高校生はいませんよ。さあ、貴重な生の反応を見せるのです!)」

「……………………」


 僕は無言でブラジャーを洗濯ネットに放り込んだ。


「ええ!?」


 引き続き洗濯物の山を切り崩していく僕に、いつのまにか戻ってきた竹奈々が若干引いた様子で言う。


「の、ノーリアクションですか……。なかなか剛の者ですね、せんぱい……」

「妹がいるんでな」


 今更ブラジャー程度で動揺なんてしない。


「僕が職分をわきまえない行為をするのを期待していたのか? その瞬間を押さえて僕を追い出そうとしていたのか?」

「いやいや、とんでもない! これほど近くで男の子を観察できる機会なんてそうそうないんですから! こんな美味しい状況を逃したりしませんよ!」

「美味しい状況?」


 手を動かしながら振り返ると、ユーティリティルームの入り口に立っている竹奈々はなぜだか照れた様子で、


「竹奈々ちゃんはですね、取材したほうが演技しやすいタイプでして……少年役をやることも多いので、一度男の子の言動をちゃんと調べてみたいと思ってたんです」

「……クラスメイトじゃダメなのか? 自分で言うのもなんだが、君の姉の意見はまっとうだぞ。普通、その程度の理由で同年代の男を家に上げたりはしない」

「もちろんそれだけじゃありませんよ?」


 床に座り込んで作業をしている僕の前に竹奈々もしゃがみこみ、両手で顎を支えるようにしてからかうように笑う。


「お兄ちゃんが欲しかったんです」


 そして、甘えるようなアニメ声で、未来のスターは言った。


「ちょうどいいかなと思いましてね。織見お兄ちゃん♪」

「……妹がいるんでな」




 


 昼から洗濯機を3回ほども回し、ようやく終わりが見えてきた頃、今日初めて見る姿が、大きなあくびをしながら現れた。


「ふあ……おはよ」

「ああ、おはよ――おはよう?」


 僕が驚いたのは、その女――三女・吉城寺梅瑠が突然ユーティリティルームに現れたからでも、ぶかぶかのTシャツを一枚纏っただけの格好で無防備に太ももを晒しているからでもない。


 今何時だ?

 スマホを取り出して時間を確認してみると、17時半を少し過ぎたところだった。

 17時半……。


「もしかして……今起きたのか?」


 キッチンにあるウォーターサーバーからコップに水を注いでいる梅瑠に尋ねると、そいつはゴクゴクと水を飲みながら振り返り、コップを空にしてから平然と答えた。


「そうだけど」

「……学校は?」

「関係ある?」


 あるだろ。

 三鷹の口ぶりからすると、ここの四姉妹は僕と同じ学校の中等部や高等部に所属しているはずだが……竹奈々も普通に家にいたし、中等部はもう春休みに入っているのだろうか。今日は僕もテスト返しが主で短縮授業だったし。

 それにしたってこの時間に起きてくるのは遅すぎる……。ほとんど吸血鬼の生活リズムだ。


 カルチャーショックを受けていると、竹奈々がリビングのほうから顔を出してきた。


「あ、梅瑠姉ぇ。おはようございます」

「おふぁよ」


 歯ブラシをくわえながら答える梅瑠。

 どうやら三女がこの時間に起きてくるのは、この家では当たり前のようだ。

 ……シンクで歯磨かれるの、なんか嫌だな。


「今日はご飯食べますか?」

「んー……いい。もうすぐスクリムだしパンで済ます」

「了解です」

「パン? おいおい、菓子パンか何かで食事を済ます気か? 簡単なものだったらすぐに僕が何か――」


 梅瑠はペッと口の中をゆすぐと、


「大丈夫、健康なパンだから」


 そう言ってシンクの下の収納からダンボール箱を引きずりだし、その蓋を開けた。

 中から取り出したオレンジ色の袋を、僕に見せてくる。

 どうやらそれが、健康なパンとやららしかった――裏に記載されている成分表を見ると、確かに様々な栄養素がバランスよく配合されている。


「いわゆる完全栄養食ってやつです」


 竹奈々が補足してくれる。


「梅瑠姉ぇの食事は半分くらいこれですよ」

「普通の食事は気分が乗ったときだけでいい。それ以外はこれ食べてたほうが時間的にアド」


 梅瑠はオレンジ色の袋の封を開け、中から長方形のパンを取り出してモグモグと咀嚼し始める。種をかじるハムスターみたいだった。

 カップラーメンなんかで腹を満たすよりはマシ……という考え方もあるが、僕にとっては異文化すぎて、素直には飲み込めなかった。


「あ、そうです!」


 唐突に竹奈々がポンと手を打つ。


「料理じゃなくて、掃除をしてもらいましょうよ。梅瑠姉ぇの部屋の。そろそろやばいんじゃないですか?」

「ええ……? まだ大丈夫――」

「大丈夫じゃないですよ! あったかくなってきて虫も湧いてくるんですから、今のうちに片付けないと!」


 ……不穏な流れになってきた。あんなに散らかっていたリビングを放置していた竹奈々が、『やばい』と言う部屋とはいったい……?


「ちょっと見てくださいよ、せんぱい! 本当にやばいんですから!」


 後ろに回った竹奈々にぐいぐいと背中を押され、僕は階段を上って右に進んだところにある梅瑠の部屋の前に移動させられる。

やばいやばいと言うが、昨日のリビングだって十分にやばかった。3人分(あるいは4人分)であのくらいなのだから、散らかす人間が一人しかいない私室だったらそれよりはマシになる理屈だろう。


 僕は少しだけ覚悟を固めると、目の前のドアを開いた。

 そして一歩踏み出した。

 そしてペットボトルを踏んだ。


「どうっ!?」


 コロッと足が前に滑って後ろに転倒しかけた僕を、背後の竹奈々がかろうじて受け止めてくれる。


 ドアの向こうには混沌が広がっていた。


 扉を抜けた一歩先には通販のダンボール、マウスか何かの空箱、脱ぎ捨てられた衣服、そして通販のダンボールが散乱しており、どういうルートで歩いていけば部屋の中に入れるのか見当もつかない。

 ベッド周りはさらに悲惨だ。言うまでもなく大量の服が放ってある他、ブラジャーやパンツといった下着類までもがだらしなく、まるでそれを布団にしているかのように積み重なっていて、一見ではどっち側に枕があるのかもわからない。


 そして一番ひどいのがデスク周り――3枚も並べられたモニターや七色に光るキーボード、でかいマウスパッドに置かれたマウスや大きなスタンドマイクだけを見れば、なるほど未来あるプロゲーマーのデスクだと感心してもいい。

 しかしそれは、それらの隣に飲みかけのペットボトルやエナジードリンクの空き缶、さらにはカップラーメンの容器までもが山積みになっていなければの話だ。


 リセットされていない部屋。

 日々積み重なる生活の痕跡を、一切リセットせずに堆積させ続けていればこういう部屋になる。

 ここは吉城寺梅瑠の生活を濃縮した空間だった。


「そんなに散らかってないでしょ」


 ぴょんぴょんと飛び石を飛ぶようにゴミをよけながら、梅瑠は自分の部屋の中に入っていく。


「昨日ちょっとゴミ捨てたし。今日はきれい」

「どこがだ!」


 人生最大のカルチャーショックから復帰して、僕は叫ぶ。


「これが人の住む空間か!? ジャングルでももうちょっとすっきりしてるぞ!」

「ジャングルにはPCがないからね」

「そういう問題か……!」


 デスクの横にあるパンパンのゴミ袋はPCの周辺機器か? 違うだろ……!


「それではあとは頼みますっ!」


 後ろの竹奈々がしゅびっと敬礼して、素早く隣の部屋に逃げ込んでいった。そこが竹奈々の部屋らしい。


 これはやばい。

 そりゃあ家事代行を頼むわけだと納得する。業者を入れないとどうにもならないレベルだ。


「洗濯なんてしてる場合じゃない。君が何らかの病気になって死ぬ前に掃除するぞ! いいな!」

「はあ……別にいいけど、キーボードとかマウスは触らないようにしてね」


 なんで僕が仕方のない奴みたいになってるんだ!


 そうして僕は、吉城寺梅瑠の部屋の大掃除に取りかかった。

 しかし、開始5秒でつまずく。

 梅瑠が唐突に、「よいしょ」と言って、身に纏っていたぶかぶかのTシャツをぐいっとまくりあげたからだ。


「ひゃあっ!?」


 僕は悲鳴をあげた。

 ぶかぶかのTシャツをベッドの上に放り投げて、ブラとパンツだけの姿になった梅瑠は、「えーと……」と呟きながら、四つん這いになって脱ぎ捨てられた衣服の山を漁り始める。


「な、何をやってるんだ君は! いくら僕に妹がいるとはいえ限度があるぞ!」

「何が?」


 衣服の山の中からシャツとズボン、パーカーを引きずり出すと、梅瑠は下着姿のまま僕のほうに向き直る。

 ぶかぶかのシャツに隠されていた身体は年下とは思えないくらいメリハリがあって、とても妹と同列に扱うことはできなかった。

 特に胸の膨らみ具合は中学生の領域を明らかに超えている。柔らかな円弧が自分の足元が見えなそうなくらい前方に張り出していて、デスクに座ったらキーボードに当たりそうだ。


「少しは隠せ! 恥ずかしくないのか!?」

「別に。乳首が見えてるわけじゃあるまいし」


 そう言って、梅瑠はもぞもぞと見つけ出してきたシャツを着始める。胸に裾が引っかかっていた。


「あなたは仕事でここにいるんでしょ。だったらこのくらい普通にスルーしてよ」

「できるか! 下着を洗うのとはわけが違うわ!」

「なんで? 他のみんなだって、お風呂上がりにはこういう格好でその辺歩いてるし、この家の家事をするっていうのはそういうことじゃないの?」


 シャツに腕と頭を通して、梅瑠は試すような目つきで僕を見る。


「それとも、わたしたちのこと、そういう目で見てる? だったらすぐにやめてほしいんだけど」

「……ぐぐ……」


 どうにも釈然としないが……この仕事には、その手の感情を持ち込んではいけないのは確か。でなければ彼女たちも安心して生活ができない。

 診察中に興奮する医者はいない――ならば僕も、仕事の間は自分が男であることを忘れなければならない。


「――あーわかったよ! 僕のことはルンバか何かだと思え!」

「ルンバはもうちょっと可愛いと思う」


 これはパワハラじゃないのか?

 現代日本の労働環境について思いを馳せながら、僕は掃除に取りかかった。


 とりあえず捨てても良さそうな空のダンボールを片っ端から畳んで外に出す。それで少しはスペースができたので、衣類を畳んで整理し、ゴミというゴミをゴミ袋に放り込み、露出した床に掃除機をかけていった。


 その間、梅瑠はPCの前に座り、ヘッドホンをつけてゲームをしていた。ときどきぶつぶつと、しかし鋭い声で、「移動します」「シールド割った」「ついてきてください」などとマイクに喋っている。

 やってることといえばゲームで遊んでるだけ……ということになるんだろうが、真剣な人間にはある種の迫力のようなものが宿る。彼女の背中にはそれがあった。

 さすがに中学生の身でプロになるだけはある。とはいってももう3月――確か僕の一つ下だと聞いたから、4月からは高校生か。……いや、中卒という選択肢もあるのか?


 小一時間ほど黙々と掃除を続け、多少は見れるぐらいに片付いた頃、梅瑠が深めに息を吐いてヘッドホンを外した。

 ちょうどいいと思って、僕は話しかける。


「少しはマシになったぞ」

「ん? ……おおー」


 座ったまま振り返り、本来の姿を取り戻した床を見て、梅瑠はぽかっと口を開けた


「早い。RTAしてる?」

「全然終わってないよ。これ以上はもっと物を捨てないと無理だ。なんでこんなに大量にマウスがあるんだよ?」

「色々試してるから。いつか使うかもしれないから捨てちゃダメ」

「大体使わないだろ、それは……」


 片付けられない人間の典型例だな。

 僕はその辺の床に放り捨ててあった教科書類を綺麗に積み上げつつ、


「中等部の教科書だよな、これ。もう卒業だから使わないよな?」

「うん。捨てていい」

「その割にはずいぶん真新しい気がするが……なあ、進学はするんだよな?」

「……なんで?」

「それなら来月から後輩だなと思ってさ」


 ウチは中高一貫だ。梅瑠も竹奈々も、ウチの中等部に在籍していると聞いている。

 梅瑠はくるりと再びモニターに向き直り、ぼそりと答える。


「……一応」

「一応?」

「学校なんか行ってる暇ないって言ったけど、気づいたら進学させられてた」


 気づいたらって……母親が学校の理事長だとそんなこともあるのか。

 あまり使った形跡のない教科書を見下ろして、もしかして、と僕は思った。


「君って……もしかして、学校行ってないのか?」

「……悪い?」


 少し不機嫌そうに答えながら、梅瑠は右手でマウスを握り、左手でキーボードをカチャカチャと操作し始めた。


「義務教育なんてどうせ卒業できるんだから行っても意味ないし」

「人の人生にケチつけるほど暇じゃないが、もったいないとは思わないのか? 学校行けるのは今だけだぞ」

「蘭香に聞いたけど、勉強ばっかしてて友達いないんでしょ? そっちも全然エンジョイしてないじゃん」

「……………………」


 思ったより強いカウンターが飛んできた。僕にとっては勉学に励むことこそが学校という場所の意義であってだな……。


「それに、ゲームできるのだって今だけだし」

「……え?」

「知らない? FPSのプロゲーマーって、20代前半で競技引退する人がゴロゴロいるんだよ」


 ……そんなに選手寿命が短いのか? まるで女性アイドルじゃないか。


「あと10年もないの。もしかしたら、わたしのピークは今かもしれない……。そう考えたら、学校で時間無駄にしてられない」


 生き急ぐようなその言葉を聞いて、この汚い部屋の解像度が少し上がったような気がした。

 完全栄養食で食事の手間を省いていることといい、掃除らしい掃除を一切していないこの部屋といい、まるでゲーム以外に使うエネルギーを極限まで削ぎ落としているかのようだ。

 もちろんそれを良いことだとは思わないが、さっき彼女は僕にプロ意識を問うた。あれが彼女自身にも適用されている考え方なのだとすれば、それは――


「――尊敬するよ」

「え?」


 僕の言葉に、プロゲーマーは驚いた顔で振り返った。


「君は自分の力で、自分の人生を満たそうとしているんだな」


 僕にはこれといった才能がない。

 だからがむしゃらに勉強をしたり、バイトをしたりすることしかできない。

 君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず――誰かに阿ることなく、自分の力で戦う君子を、僕は尊敬する。


 梅瑠はしばらく口を開けていた。

 かと思えばすいっと目を逸らし、またモニターに向かう。


「……掃除、終わった?」

「え? ああ……大体は」

「それじゃあ、これから練習試合スクリムだから出て行って」


 へいへい。

 会話している時間も惜しいんだろう。僕は肩を竦めながらドアに足を運び――


「掃除……ありがと」


 ――背中で、その言葉を聞いた。

 振り返ると、彼女はすでにヘッドホンをつけている。僕はその背中を見ながら小さく口元を緩めると、今度こそドアを開いた。


 感謝の言葉を言う時間は、無駄ではなかったらしい。





 

『勤勉だねぃ。それともスケベなのかなぁ』


 夕食の支度をしていると、リビングの壁のモニターがついて女子高生のイラストが現れた。


「よう、絵」

『それ差別語だからね。タンパク質風情がよ』


 そうだったのか。これからは気をつけよう。


「僕は勤勉だよ。そして紳士だ」

『ふーん。彼女いなさそうだもんね、君』


 頬がひくついた。


「なんでそうなる」

『恋人なんていても無駄だ、とか言っちゃうタイプでしょ。いたこともないくせにねぇ』

「だからなんでそうなる!」


 長女・吉城寺菊莉は、クックックッと悪役みたいな笑い方をした。


『ま、君みたいな自意識過剰くんのほうが、蘭香にはちょうどいいかもね。あの子も大概、自意識過剰だしさあ』

「配信者なんてしてる奴は大体そうだろう」

『まあそうなんだけど、あの子の場合、男嫌いもだいぶ入ってるじゃん?』

「男嫌い? 配信者なんてしてるくせに?」


 僕の言葉に、菊莉はLive2Dでもわかるくらい深々と溜め息をつく。


『君はあれだねえ、配信者を裏垢女子かなんかと勘違いしている節があるね』

「別にそこまでは思ってないが……承認欲求の闇に飲まれてるって意味では同じだろ」

『見解の相違だなあ』

「じゃあ聞かせてくれよ、Vtuber。何のためにあんたたちは、学校の廊下でわけのわからんダンスを踊ったり、歌手でもないのに自分の歌を公開したりするんだ?」

『よかろうて。ズバリ、誰かと自分を区別するためさ!』


 即答で、しかも意味深な回答が返ってきたので、僕は面食らった。


『自己表現だの承認欲求だの、呼び方は様々だけど、要はこの手の表現活動っていうのは、自分という存在を確立するための手段なんだよ。大量の情報で溢れかえったこの社会で、溺死しないようにさっ』

「……あんたの本職はイラストレーターだっけか。あんたはそのために絵を描いているのか?」

『だって、世界はこんなに色んな物で溢れているのに、んだもの。暇つぶしは必要でしょ?』


 現代文の読解には自信があったはずだが、彼女の言語感覚は少し独特で、あまりピンとは来なかった――だけどなんでだろう。なんとなく意義深いことを言われているような気がする。


「できることが多すぎて、逆にやるべきことがわからない……みたいな話か?」

『まあそんな感じかなぁ。ほら、縄文時代の人間は縄文土器を作っておけば暇しなかったわけだし』

「別に縄文人はひたすら土器だけ作ってる民族じゃないと思うが――どっちにしろ、僕にはいまいちわからないな。結局チヤホヤされたいだけなんじゃないか?」

『かもしれないねえ。だとしても、やりたいことがあるのは素晴らしいことなんじゃないのかな、ガリ勉くん』


 ……痛いところをつく。


『蘭香が何を必要としているのか、ちゃんと考えてあげることだね――考えるのは得意技でしょ?』


 何を必要としているのか、か……。

 動画配信者の考えることなんて――ましてや声優にプロゲーマー、イラストレーターなんて変な環境で生きてる奴が必要とすることなんて、僕には想像も――

 あ。


「そういえば、君らって全員個人事業主だよな?」


 そのとき、ちょうど折よく、夕飯の匂いにつられて竹奈々と梅瑠が階段を降りてきた。

 僕は卓上カレンダーを見ながら、彼女たちに言う。


「3月ももうすぐ上旬終わるけど、確定申告は終わったのか?」

『「「……………………」」』


 しばらく時が凍りつき、3人の姉妹は一斉にサッと目を逸らした。

 説明しよう。

 確定申告とは、やらないと脱税になるやつである。



    ◆



 友達と遊びながらインスタにあげる写真を撮っていたら、遅くなってしまった。

 竹奈々はもうご飯食べたかな。他の二人はいつも自由だから気にしてないけど。


「ただいま~! ……ん?」


 玄関に入った瞬間、私は違和感に気がついた。

 きっちり踵を揃えて置いてある、この男物のスニーカーは……。

 ……あいつ! 昨日の今日で、また入り込んでるの!?

 私は急いで靴を脱ぐと、ドカドカとリビングに歩いていく。


「ちょっと! 不採用だって言って――」


 言い切る前に、リビングからあの男が――君永織見が飛び出してきた。

 そいつにガッと両肩を掴まれて、私は当惑する。


「な、何よ……。そんな怖い顔したって――」

「レシートを出せ」

「え?」

「支払調書も出せ! 今すぐにだ!」


 その勢いに飲まれて、私は思わずコクコクと頷いてしまった。

 レシート? 支払調書? ……あ、確定申告?

 足早にリビングに戻っていく君永についていくと、梅瑠と竹奈々が気まずそうに壁の隅っこに座っていた。梅瑠の膝の上で飼い猫のハナサカが丸まっている。


「まったくお前ら信じられん! 普通こんなに放置するか? 締め切りまであと1週間もないんだぞ!」


 ぶつくさと言いながら、君永はローテーブルに置かれたノートPCの前に座った。ノートPCの周りには無数のレシートや領収書が、きっちりと束になって仕分けられている。

 竹奈々が逃げるように目を逸らして、


「去年は確定申告するほど稼ぎがなくて……」


 梅瑠が猫背をさらに丸くして、


「わたしもプロになったの今年度からだし……」


 モニターの菊姉ぇがキョロキョロと目を動かして、


『税理士に丸投げすればいいや~……と思ってたらずるずると……』


 そして君永が、どこか据わった目で私を見つめた。


「君は?」

「…………ええっと、去年まではママにやってもらってて……」


 なんでこんなに悪いことをした気分になるんだろう。まだ1週間あるのに!

 君永は再びノートPCの画面に向き直りながら、深く深く溜め息をついた。

 そして言う。


「社会人失格だな」


 ううっ! 胸に刺さる……!

 でもなんでこいつにそこまで言われないといけないの? ちょっと常識あると思って偉そうに――!


「だけど、そのために僕がいる」


 出かかった文句が、その言葉にせき止められた。


「君たちの欠陥を補うのが僕の仕事だ。君たちが君たちのやるべきことに集中できるようにな」


 淀みなくキーボードを叩きながら、君永は言う。


「僕は僕の仕事をする。君たちも君たちの仕事をしろ」


 そして彼は、数字だらけの画面に没頭し、何も喋らなくなった。






 作業の邪魔をしないように私の部屋に移動すると、私は姉妹たちから今日のあいつの仕事ぶりを聞かされた。


「口はちょっと悪いですけど、真面目な人だと思いますよ。梅瑠姉ぇのブラジャーにも全然動じませんでしたし」

「わたしが着替え始めたら女の子みたいな悲鳴あげてた。このくらい当たり前でしょって言ったらわかってくれたけど」

『メシがガチうまい!』


 妹二人は何をやってるんだ。警戒心とかないのかこのJCども。

 とにかく、仕事には問題がないという話だった。でも、だからといって認められるわけがない。家事代行だったらあんな男じゃなくておばさんの家政婦でも雇えばいい話だ。まあ確定申告までやってくれる家政婦はいないだろうけど、それは税理士に頼めばいい話だ。

 ママはなんで、娘が暮らしてる家に男なんかよこしたの?


 もやもやしたものを抱えながら、やりかけの動画編集を終わらせると、すっかり夜が更けていた。

 あいつ、まだやってるのかな……。四人分の確定申告ってどのくらいかかるんだろう。


 私はそっと廊下に出ると、吹き抜けから1階のリビングを覗き込んだ。

 ローテーブルには、まだあの男の背中があった。だけどそれは丸くなっていて、テーブルに顔を突っ伏しているようだった。

 ……寝てる?


 足を忍ばせて階段を降りると、その顔を覗き込む。静かに瞼を閉じたそいつは、規則的な寝息を立てていた。

 あんなに偉そうに社会人失格とか言ってたくせに居眠り?

 思わずムッとしたそのとき、ノートPCの画面に写っているものに気がついた。


「……私の動画……」


 去年の夏くらいかな……。国内旅行に行ったときのVlogだった。

 なんでこんなに前の動画を? その疑問は、君永の手元にあったレシートを見て氷解する。

 この旅行に行ったときのレシート……。

 もしかして、経費になるものを探してた? 動画に少しでも映っていたら仕事に使ったことになって、それが多ければ多いほど節税になる。少しでも私を得させるために、私の動画を一つずつ……?

 本当に税理士みたい。本来家事代行の仕事には入ってないはずなのに、こんな夜が更けるまで……。


 ……毛布でもかけてあげたほうがいいのかな。

 いやでも、私だってバレたら気まずくない? それより起こしてあげたほうがいい? でもでも、竹奈々たちの話じゃ昼からずっと働いてたみたいだし……!


「……ん……」


 どうしようどうしようと右往左往しているうちに、君永が小さくうめき声をあげる。

 のっそりと上体を持ち上げると、コスコスと指で目を擦った。


「寝てたのか……」


 それから、結局見ていただけの私の顔を見上げた。


「起こしてくれたのか?」


 私は気まずくなって目を逸らす。


「ま、まあ……」

「ありがとう」


 素直なお礼に、私は拍子抜けした。

 私が彼を毛嫌いしているように、彼も私を毛嫌いしているんだと思っていた。

 だって私たちは生き方が違いすぎる。

 私は友達がいない生活なんて想像もできないけど、彼はろくに遊ばなくても平気な顔をして生きている。

 私は自分が会社勤めをしている未来なんて想像もしたくないけど、彼はきっとそれが正しいと思っているんだろう。


 こんなことでもなければきっと一生話しかけなかったし、実際1年間、同じクラスにいたのに一度も話したことがない。

 認められない人間に、素直にお礼を言う――それは多分、私にはできないことだった。


「……私の動画、見てたんでしょ?」


 悔しかったのか、恥ずかしくなったのか。

 なんとなく癪に思って、私は試すような口調で言った。


「どうだった? 可愛かったでしょ」

「全然わからん」


 私は頬をヒクつかせた。

 君永は頬杖をつきながら私の動画を眺め、


「他人とまったく同じダンスを踊ったり、キメ顔でウィンクをするだけで終わったり、どっかで見たようなモーニングルーティンを紹介したり……エンタメ性が欠片も感じられん。このメイク動画なんかどういうことだ? ビフォーアフターでほとんど変わってないじゃないか。『私はすっぴんでも可愛いです』っていうイキり以外の何物でもないだろ」


 ……そういう答えが返ってくるだろうと思って聞いたのは私だけど……そんなにボコボコに言われるとは思わないじゃん……。

 別にいいし! こいつみたいなノンデリコミュ障男はターゲットじゃないし!


「でも、この旅行のVlogは面白かった」


 不意打ちに、心臓が跳ねた。


「動画に入れる風景の選択にセンスを感じる。ナレーションも聞き取りやすい。編集段階で相当吟味したんだろうと感じるよ。編集は自分でやってるのか?」

「そ……そうだけど……」

「だろうな。外注した領収書がなかったし。だとしたら……この投稿頻度はすごいな」


 ――やめろやめろ。このくらいで認められた気になるな。

 同じような『いいね』を、私は何千何万と貰ってきた。そのうちの一つにすぎないじゃない。


 この程度で嬉しくなんかなってやらない。

 こいつは敵だ。私の、私たちの生活領域に、男なんか入れてはいけないのだ。


 私はぐっと唇を引き締めると、胸の暖かさを誤魔化すように、刺々しい言葉を作る。


「お褒めいただきありがとう。でも頻度は下がっちゃうかもね! あんたの痕跡が映り込むたびに撮り直さないといけなくなるし!」


 言ってから、これじゃあ家に出入りすることを認めているみたいだと気づく。

 慌てて新しい憎まれ口を考えていると、その間に君永が言った。


「言われなくても、これが終わったら辞めるつもりだよ」

「……え?」


 君永は平然とした顔で会計ソフトに向かいつつ、


「君の言う通り、年頃の女子が住んでいる家に同世代の男子の家事代行なんて不健全だ。理事長に願い出て、辞めさせてもらうことにする」

「でも……だったら、学校はどうするの?」


 最初に言っていたはずだ。バイト禁止の校則を破ったことを不問にする条件として、ここの家事代行を依頼されたって――この仕事ができなければ、最悪退学になるって。

 君永はマウスを動かしながら、ふっと小さく笑った。


「土下座でもすればいいさ」


 なんでそんなに……軽く言えるのよ。

 怖くないの? 悔しくないの?

 自分が頑張って勝ち取った場所が奪われようとして、それを守るために自分を殺さないといけないのに……どうして平気でいられるの?


 わからない。

 どうして私は……こんなにもやもやしてるのよ。


「……あっそ。せいせいするわね」


 私はどうにか、通り一遍の憎まれ口を叩くことしかできなかった。

 君永はついぞ、私に言い返してくることはなかった。





 

 日付も変わった頃になって、確定申告作業はようやく終わった。

 君永は私たちにそれを告げると、その足でさっさと玄関に向かった。


「大丈夫ですか? もう終電もありませんけど……」


 心配そうな竹奈々に、君永はこともなげに言う。


「元々自転車で来てる。問題ないよ。それより僕がこの家に泊まることのほうが問題だ」

「……本当に辞めるの?」


 静かに問う梅瑠に、君永は呆れ気味に唇を歪めた。


「半分は君が原因だぞ。無防備な姿晒しやがって。あれを見るのが仕事だとしたら、何かしらの法律が僕を許さないだろう」

『あーあ。勝手にご飯が出てくる生活、憧れてたのになあ!』


 能天気な菊姉ぇに、君永は皮肉げに肩を竦めて、


「次の家事代行は、勝手に家に入れさせないことだな。また妹がケツを晒すハメになる」


 玄関のドアを開けた。

 そのドアが閉じ、明日になれば、私たちは再び、関わりのないクラスメイトになる。


 私はクラスの人気者で。

 こいつは友達のいないガリ勉で。

 顔も名前も一致しない、同じ教室にいるだけの他人になる。


 それでいい。


 元より私が望んだことだ。家の中に男がいたら、配信中に声が入って炎上するかもしれないし。

 梅瑠がやらかしたように、無防備な姿を見られることになるかもしれないし。

 今日はそんな様子を見せなかったけれど、これだけ美少女ばかりが揃った家だ、いつか間違いが起こらないとは言い切れない。


 これでいい。


 その結果、こいつがどんな苦労を背負い込むことになったって――ほんの一昨日までは、何千何万の『いいね』と同じ、見知らぬ誰かだったのだから。


「じゃあな」


 その簡単な挨拶を最後に、バタンとドアが閉じた。

 玄関には、もう誰も立っていなかった。


「いい資料だったんですけどねぇ」


 名残惜しそうに、竹奈々が言う。


「仕方ない。男子だと色々難しいのは本当だし……」


 冷静な声で、梅瑠が言う。


『わたしは関係なかったのになあ~』


 白々しくも、菊姉ぇが言う。

 そして3人が一斉に、私のほうを見た。

 菊姉ぇは立ち絵だから、見たような気がしただけだけど。


「……あーもう何よ! 私を頭が固いみたいに言って!」

「実際固いほうではないかと」

「喧嘩するとヒステリックになるし」

「あんたたちの貞操観念がどうかしてるから代わりに言ってあげてるだけでしょ! 大体、あいつだって労働基準法ガン無視でこんな夜中まで働かされる職場、辞めたほうが賢明でしょ!」

「うーん……それで言うと、君永せんぱいって、なんでバイトなんかしてるんでしょうね?」


 ことりと首を傾げて竹奈々が放った疑問に、私も首を傾げた。


「お金が必要だからでしょ? スマホ代とか……」

「スマホ持ってないみたいですよ。昼に聞きましたけど」

「は?」


 今時? 高校生が?


「必要最低限の連絡は、回線瀕死のガラケーでやってるらしいです。連絡先を聞いたらそう言われました」

「だったらなんでお金が必要なんだろ。ゲームも全然やってなさそうだったし……」


 梅瑠も首を傾げ、私はますます疑念を深める。

 友達と遊ぶお金――なんて、あの男には一番必要のないものだ。だったら校則を破ってまで、どうして……。


『そりゃあ、お家を助けるためじゃん?』


 揃って首を傾げる私たち三姉妹に、菊姉ぇがさらりと言った。

 私たちは一斉に菊姉ぇが写っているモニターを見る。


「菊姉ぇ……知ってんの?」

『あれ? 言わなかったっけ? 君永くんはもともと児童養護施設の子で、中小企業を経営してる家に引き取られたけど、中学のときに親の会社が倒産して貧乏暮らしになって、今は家計を助けるためにバイトをしながら学費のかからない国立大学を目指してる――って』

「全然聞いてないけど!?」

『あー……それであんなに当たり強かったんだぁ……。ごめんね? 頑張ってる苦学生に対してよくもこんなにチクチク言えるなあ、とか思ってて』

「全部あんたのせいでしょうがあ!」


 なんでうちの長女はこんなにも報連相ができないんだ!

 しかし、思い返してみれば、私にも心当たりがあった。君永が優等生として有名になり始めたのは、確か中等部の後半から――その頃に親の倒産があって、学費免除の特待生になるために猛勉強を始めたんだとしたら。


「そっか……」


 閉められた玄関ドアを見ながら、梅瑠がポツリと呟いた。


「あの人も、だったんだ……」


 その呟きで、私も思い出す。

 全然わからないと言いながら、それでも私の動画の労力を認めたのは――


 ――頑張って生きているなんて当たり前だ。

 生きるのに頑張っていない人間なんてほとんどいない。


 それでも、どうしようもないこの現実を、腹が立つほどままならない人生を、自分の力で満たそうとしている……その一点においては。

 私たちは、同じだったんだ。


「……はあ……」


 私は一つ、溜め息をつく。

 それから玄関で、動きやすいスニーカーに足を通した。


「空き部屋……は汚いから、布団出しといて。あとお風呂追い焚き」

「了解です!」


 竹奈々がビシッと敬礼し、梅瑠が静かに頷いた。

 そして、私はドアを開ける。

 明日のご飯を作ってもらうために。



   ◆


 

 運命を呪った記憶はあまりない。

 そもそも、僕は児童養護施設の子供だった。そこに会社の跡継ぎを探していた君永の家の人たちがやってきて、僕を見つけ出してくれたのだ。


 だから、それからたった2年で会社が倒産して貧乏になり、跡継ぎという存在意義も奪われ、それどころか食い扶持を増やすだけのお荷物になったときも――拾ってもらえた感謝こそあれ、それを不幸だと思ったことはなかった。


 ただ、僕は。

 どうにかしなければならないと思っただけだ――自分の力で、どうにかしなければならないと思っただけだ。


 僕は他人に、縋らない。


 を反面教師にして作り上げたその信念を、貫き通そうと思っただけだ。


 今回も同じこと。バイトがバレたのは僕のミスだ。そのしわ寄せをあの四姉妹に押し付けるわけにはいかない。

 理事長に土下座でも何でもして交渉して、特例でバイトを認めてもらうか――バイトを禁止されない高校に転校するか。


 今の高校に入ったのはまだ裕福だった頃に中等部に入学したのと、大学への進学に有利だったからだった――君永の家を助けるには、長期的に考えれば大卒の学歴は必須。逆に言えば大学に入れさえすればいいのだから、この際高校にはこだわるまい。学校の力に頼らず、自分の力だけで合格してみせればいいだけの話だ。

 それだけの話だ。


「――待って!」


 鋭い声に驚いて、僕は思わず振り返る。


 なんとなく、自転車を押して歩いていた。

 夜道で危ないと思ったのかもしれない。

 作業で疲れていたのかもしれない。

 とにかくその気まぐれが、彼女をそこに立たせていた。


 眠りを知らない東京の夜道。

 眩しい街灯が照らす歩道の真ん中で。


 息を切らせて。

 寒さに頬を赤くして。


 吉城寺蘭香が――僕の顔をまっすぐに見つめて、立っていた。


「ど……どうした?」


 その顔を見て僕はもう一度驚いて、彼女に尋ねる。


「何か忘れ物でもしたか? いやでも、財布も携帯も持ってるよな……」

「そうじゃなくてっ……」


 吉城寺は胸に手を当てて息を整え、んぐっと唾を飲んでからようやく口を開く。


「なんていうか……なんていうかさ……」

「なんだ? 何が言いたい? 言いたいことがあるなら結論からスパッと言え」

「あーもう! だから! 謝るから辞めんなって言ってんの!」


 人気の少ない深夜の街に、予想だにしなかった言葉が響き渡った。


「……は?」

「あんたのこと、竹奈々も梅瑠も気に入ってるみたいだし……私も理不尽に怒りすぎたなって思ってるし……。でも私のパンツ見たのはまだ怒ってるから! あれは菊姉ぇのせいだけどそれはそれとして謝って!」

「ご、ごめん……」


 勢いに押されて、思わず謝ってしまった。

 本当になんなんだ? なんでいきなり心変わりしたんだ?


「私も……ごめん」


 吉城寺は深々と頭を下げて、すぐに戻す。


「あんたには、私たちの生活のことなんてわかりっこないと思ってた……。私たちはみんな、社会のレールに乗れなくて、自分勝手な生き方しかできなくて……ママも、『お前たちは好きに生きろ』なんて言って、滅多に帰ってこない……。しかも私たちも誰も、それをおかしいって思ってない……」


 ……違和感があると、思っていた。

 あの家からは、四姉妹の生活の痕跡はいくらでも出てくるが、家主であるはずの理事長の生活の匂いがまったくしない――それはやっぱり、理事長があの家で生活していないからだったのか。


「でも、あんたも家が大変で、大人に頼らず自分の力で何とかしようって頑張ってるのを聞いて――あー! だからとにかく!」


 照れ臭くなったのか、吉城寺はまた乱雑に言った。


「私とあんたは違う人種だし、今後もそれは変わらない! 私はあんたのことが気に入らないし、あんたもきっと私のことは気に入らない! だけど――」


 力強い輝きを秘めた瞳で、吉城寺は僕を見つめた。


「あんたは私たちの役に立つし、私たちも……少なくとも今の状況なら、あんたの役に立つ。。私たちはお互いに、自分のために、協力し合える――だから」


 ……協力……。

 縋るわけでも、合わせるわけでもなく。


「頼りなさいよ、困ってるんでしょ?」


 頼りがいのある笑みを浮かべて、吉城寺蘭香は告げた。


「私ももう、デリバリーには飽きたの」


 ――君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。

 本当に賢い人間は……他者に縋るわけではなく、他者と協調する、か。

 僕はほんの少しの悔しさをこめて、皮肉の笑みを浮かべる。


「着替えとかに出くわすかもしれないぞ」

「気をつけるわよ。あんたも気をつけて」

「君の配信に声が載るかもしれない」

「それはめちゃくちゃ困る。でもまあ、それはあんたのミスでもあるわけだし――」


 日本で一番有名な女子高生は、どんな動画よりも魅力的に、微笑んだ。


「――炎上したら、責任とってよね?」


 僕は溜め息をつくように小さく笑うと、踵を返して、家の方角とは逆に歩き出す。


「土下座と丸刈りで済むなら、いくらでもやってやるよ」






「わっ! 同じクラス!?」

「同じ同じ! やったー!」


 4月。

 新学期、新学年、そして新クラス。

 何もかもが目新しい教室には、しかし見知った顔もあった。


「蘭香ぁ~! 昨日の動画マジ最高だった~!」

「ありがと! よかったら拡散しといて!」

「もうしたに決まってんじゃん~!」


 クラスの人気者にして世間の人気者、吉城寺蘭花が、顔を合わせたばかりのクラスメイトに囲まれている。

 僕はといえば何も変わらない。始業式だろうがなんだろうが、1日も無駄にせずに勉学に励み、少しでも自分の力を磨くだけだ。


 そして、新学期初日が終わった。

 新しいクラスメイトたちが、帰り支度をしてまとまっていく。

 これから懇親会でもやるらしい。僕には関係のないことなので、さっさと帰ってバイトに行くことにしよう。


 鞄を持って教室を出ると、廊下を蘭香が歩いてきた。

 トイレに行ってきた後なのか、ハンカチで手を拭きながら、女子を3人ほど後ろに引き連れている。


 僕たちは挨拶もせずにすれ違った。

 だけどその代わりに、小さな声で連絡を交わした。


「(今日はハンバーグがいい)」

「(了解)」




――――To be continued to full-length novel version.

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Tier1姉妹:有名四姉妹は僕なしでは生きられない(読み切り版) 紙城境介 @kamishiro

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